ここだけで語られる、ブリヂストンのレーシングヒストリー

連載:山田宏の[タイヤで語るバイクとレース]【独占Webコラム】

ブリヂストンが世界最高峰二輪ロードレースのMotoGPでタイヤサプライヤーだった時代に、その総責任者として活躍。関係者だけでなく一般のファンにも広く知られた山田宏さんが、2019年7月末で定年退職されました。その山田さんに、あんな秘話やこんな逸話を、毎回たっぷり語ってもらいます。いまだから公開できる超絶裏話も飛び出すかも!?

目次

Vol.77「人間を育ててくれたGPとのお別れ」

その一方でいきなり最初のテストから好タイム連発というのも……。ミシュランはブランクが長かったですし、その間に我々もかなり努力してタイヤを進化させてきたわけですから、「ちょっとは苦労してよ」というのが本音でした。まあ、ミシュランの技術力があればすぐに適応するとは思っていましたが、それでもそう簡単にいかないのが普通ですからね。

Vol.76「撤退する仕事でモチベーションを保つ難しさ」

普段はあまり会話がないようなライダーたちから、「ブリヂストンは本当にいい。他のタイヤじゃあ安心してレースできない!」なんて言われて、「おいおい、そういうことはもっと早くから言ってくれよ……」なんて心の中で突っ込んだことも多数。バレンティーノ・ロッシ選手には、「なんとか続けられないのか?」と執拗に食い下がられました。

Vol.75「ついに決定してしまったMotoGP撤退」

ゴタゴタの末、新たにいわゆるファクトリー2クラスという扱いとなり、優勝1回または2位2回または3位を3回獲得するまでは、オープンクラスと同様に決勝で使用できる燃料がファクトリークラスよりも多く、タイヤもワンステップソフトなコンパウンドがアロケーションされるようになったというのが、開幕前の大きな話題でした。しかしドゥカティと同じかそれ以上にMotoGPのパドックをざわつかせることを、ブリヂストンは第4戦スペインGPのレースウィークに発表。そう、MotoGPに対するタイヤ供給の終了です。

Vol.74「ドライなのに途中でマシンを乗り替えたオーストラリアGP」

2013年のMotoGPは、この年にステップアップしてきたホンダワークスチームのマルク・マルケス選手が、シーズン中盤に第8戦ドイツGP、第9戦アメリカズGP、第10戦インディアナポリスGP、第11戦チェコGPと4連勝。これでチームメイトだったダニ・ペドロサ選手と26点差、ヤマハワークスチームのホルヘ・ロレンソ選手とは44点差までリードを拡大しました。その後、ロレンソ選手が第12戦イギリスGPと第13戦サンマリノGPで勝利してやや巻き返し──。

Vol.73「手術から36時間で決勝レース?! MotoGPライダーの強さはハンパない!」

第7戦ダッチTT(オランダ)は、この年のとくに印象深かったレースのひとつ。雨が降ったり止んだりと天候に翻弄され、ウェットだった初日の練習走行でロレンソ選手が鎖骨を折るアクシデントに見舞われました。驚かされたのはその翌日。転倒した木曜日(※ダッチTTは木曜日からスタートして土曜日決勝が恒例)にすぐバルセロナに飛び、手術を受けたロレンソ選手は、決勝に出場すべく翌金曜日の夕方にはサーキットに戻ってきていました。

Vol.72「2013年のMotoGPはマルケスとロッシに大興奮」

最高峰クラスルーキーのマルケス選手に関しては、初年度にいきなりあれほど活躍するとは、正直なところ私はシーズン前の段階では予想していませんでした。最近でこそ、最高峰クラスでルーキーがいきなりトップ争いをすることは珍しくないですが、当時はそんな例がほとんどなかったですし、ロッシ選手ですら500ccクラスの参戦初年度だった2000年はランキング2位。ルーキーとして最高峰クラスに参戦したライダーがチャンピオンとなった例は1978年のケニー・ロバーツさんだけで、あの当時ですら35年も前の出来事でした。

Vol.71「タイヤの仕様や供給方法の細部を見直した2013年」

それはシーズン前から我々も予想していたところで、以前からあった耐熱構造スペックをより多くのコースで投入するなどの対策をしました。結果的に、ポールポジションタイムは前年と比べて10大会で速くなり、全大会平均で約0.2秒のマイナス。決勝のトータルタイムは9レースで短縮され、平均で10秒ほどゴールタイムが短縮されました。

Vol.70「レースウィークのゴルフは、大切なお仕事のひとつ!?」

レースの世界では、「輸送途中についたホコリや汚れを、走行することで事前に落としておくと、スタート直後の1コーナーで滑りづらい」とライダーたちは言うのですが、ロードレースの場合はスタート前にサイティングラップとウォームラップラップがありますし、MotoGPに限らずレーシングサービスが供給するタイヤはホコリまみれとか古いなんてことはないので、皮むきは気持ちの問題が大きいのではないか……というのが、私の個人的な見解です。

Vol.69「想定外の負荷で、久々に見過ごせないトラブル発生!」

2012年は、ヨーロッパラウンドがスタートした第2戦から、急遽実戦投入することになった新構造フロントタイヤを各戦2本ずつ、本来のアロケーション(フロントタイヤ9本)に加えてライダーに供給することになりました。これは第5戦カタルニアGPまでの措置で、第6戦イギリスGPからは9本すべてのフロントタイヤが新構造となりました。

Vol.68「2本でいいから、このフロントをすぐに使いたい!」

2013年シーズンからの本格的な導入に向けて開発した、新しい構造を採用したフロントタイヤは、温まりやすさやコントロール性のよさ、限界のわかりやすさなどが、我々が用意していた当初の2012年用スペックよりも高いレベルにあると、大多数のライダーが評価していました。

Vol.67「“こんなタイヤ、乗れない”は本心じゃない!?」

「新スペックをすぐにでも導入してほしい」というライダーが大勢いる一方で、セパン公式テスト1回目の段階から、チャンピオンを獲得したワークスチームの2名だけがこの新しいフロントタイヤを極端に低く評価。そのうちの1名は、「こんなタイヤ、乗れない」と3周くらいでテストを切り上げてしまいました。他の大多数が高く評価している状況を考えると、いくらマッチングの問題はあるにせよ、そこまで酷い評価にはならないと思うのですが……。

Vol.66「タイヤがグリップしたことを悔やんだ日」

この年はプラマック・レーシングチームに在籍して4年ぶりにドゥカティ機を走らせていたロリス・カピロッシ選手が引退を発表しました。日本では、250ccクラス時代に原田哲也選手と因縁のバトルを繰り広げた相手としても知られたライダー。私もこの一件で、最初は彼に対するイメージが悪かったのですが、一緒に仕事をしたら全然違っていました。私にとってはドゥカティワークスチームが2005年からブリヂストンタイヤを使用することになったとき、最初にそのチームで一緒に仕事をしたライダーの一人で、なおかつドゥカティ+ブリヂストンの初優勝を日本GPで挙げてくれた選手。

Vol.65「2011年シーズン後半はフロント3スペックで対応」

レースの前週には最高気温が30℃を超え、とても暑かったというザクセンリンクですが、MotoGP開催のタイミングで一転して寒くなり、フリープラクティス1の気温は16℃で路面温度は21℃。しかも金曜日午前中の走行というのは、路面が汚れていてそもそもコンディションが悪いので、グリップが不足しがちです。このコースは左コーナーが10個、右コーナーが4個というコースです。第4コーナーの後は左コーナーが続き、次に右コーナーが訪れるのは後半の第12コーナー。ここは下りの高速レイアウトのため、フロントからの転倒が続いてしまいました。

Vol.64「ワンメイクレースの“公平性”に悩んだアッセン」

2011年の第7戦として開催されたTTアッセン(オランダ)は、晴れていたかと思ったら急に大雨が降ってくるような、いわゆるダッチウェザーのレースウィークに。そしてこの大会で、「ワンメイクタイヤの公平性とは、どういう状況なのか?」と我々も考えさせられてしまう事態が起こりました。

Vol.63「ウェットタイヤが、終わってみればスリックに!?」

バレンティーノ・ロッシ選手がケーシー・ストーナー選手を巻き込んで転倒し、トップ走行中だったマルコ・シモンチェリ選手もクラッシュしてリタイヤに終わるなど、なんと17台中8台が転倒したのです。実際には、転倒後に再スタートしてチェッカーを受けたライダーもいたので、12台が完走というリザルトになっていますが、MotoGPでそこまでの台数が転ぶレースはなかなかありません。

Vol.62「震災の大混乱の中、成田空港にたどり着くも……」

ブリヂストンタイヤのワンメイクとなって3年目の2011年、MotoGPではシーズンインに向けてバレンティーノ・ロッシ選手のドゥカティワークスチーム移籍と、ケーシー・ストーナー選手のホンダワークスチーム移籍が、最大の話題となっていました。一方でブリヂストンとしては、すでに翌年(2012年)に向けた行動も開始していました。

Vol.61「テストなのにロッシ+ドゥカティの初走行に沸く!」

この年でロッシ選手がヤマハを去り、翌年からドゥカティワークスチームに移籍。そしてケーシー・ストーナー選手が、ドゥカティからホンダワークスチームに移籍するためです。2人のチャンピオン経験者、そしてMotoGPライダーの中でも別格のロッシ選手がメーカーを変更するのですから、話題にならないわけがありません。

Vol.60「GP生活で唯一の悲しかった君が代……富沢祥也を悼む」

2010年のMotoGPで、もっとも忘れられない出来事は、イタリア・ミサノサーキットで開催された第12戦サンマリノGPで、Moto2に参戦していた富沢祥也選手が決勝レース中のアクシデントにより亡くなられたことです。MotoGPクラスが2009年から我々ブリヂストンのワンメイクになったのに対して、Moto2はダンロップが単独オフィシャルサプライヤーでしたから、ライダーとタイヤメーカーということでは直接的な関係はありませんでしたが、世界を舞台に戦う同じ日本人ですから、接点はたくさんありました。

Vol.59「転倒者増加の理由がよくわからない!」

アイスランドでの噴火による火山灰の影響により、大規模な空路封鎖が発生したことに起因した、2010年のMotoGP第2戦日本GPの延期騒ぎ。我々ブリヂストンもこれにより費用と労力の点でかなり大変な思いをしましたが、当然ながらMotoGPを運営しているドルナスポーツはもっと大騒動だったようです。

Vol.58「火山灰に泣いた2010年のシーズン序盤」

この年、大きな出来事としてはまず、カタールGPの2週間後に第2戦として予定されていた日本GPの延期がありました。アイスランドで火山が噴火して、火山灰の影響で大規模な空路封鎖が発生したことが原因。決勝日まで1週間となった日曜日の朝に、ブリヂストンのドイツ人スタッフが来日できない可能性が高いという連絡が入り、とりあえず日本人だけで日本GPの仕事ができるよう、スタッフ集めに奔走しました。

Vol.57「ルールを見直しながらワンメイク初年度を乗り切る」

例えば第4戦フランスGPでは、レースウィーク直前になってウェットコンディションの定義が問題に。このシーズンは、ウェットタイヤの支給が各ライダーに1ラウンド4セットと決められており、ウォームアップを含むすべてのプラクティスがウェットだった場合は、決勝レース用にプラス1セットが供給されるレギュレーションでした。しかし決勝とは違ってプラクティスでは、スタート前に「ウェット宣言」または「ドライ宣言」によって路面状況が明確化されることはありません。

Vol.56「同じスペックのはずなのに性能が違う?!」

これも公平性と関係する話ですが、タイヤは工業製品のひとつですから、完全に同一スペックだったとしてもわずかな製品誤差があるもの。また、本当に高精度な「真円」や周上で均一な剛性に製造することは難しい製品でもあるのです。しかし少なくともMotoGP用タイヤに関しては、ワンメイクになってから製品誤差をなくして精度を高める技術が大幅に向上しました。

Vol.55「リーマン・ショックのあおりを受けた2009年」

カワサキとブリヂストンがMotoGPを一緒に戦うようになったのは2004年からでしたが、じつは「来年からタイヤを供給してもらえないか?」と2002年の段階で打診を受けていました。つまりカワサキは、最初にMotoGPで声をかけてくれたメーカーだったのです。このとき我々は、当初の予定を1年前倒しした参戦初年度。サポート台数の増加に対応できるインフラは整っておらず、それを理由にひとまずお断りしたのですが、カワサキは大した実績も残せていない我々のことを1シーズン見ていてくれて、2004年から一緒にレースをすることになったのです。

Vol.54「全員にタイヤ供給してもコストは下がる!?」

ワンメイクでタイヤを供給するにあたり、年間で供給するタイヤのスペックを事前に決定。基本的には、年間で使用するタイヤのスペックをフロント4種類、リヤ7種類に決めて(数が異なる年もあり)、この中からブリヂストンがその大会にマッチするであろうと判断したスペックを、前後とも2種類ずつ会場に持ち込むわけです。そのためブリヂストンは、ドイツの倉庫に全スペックのタイヤを事前に在庫し、使用した分を補充するシステムを構築しました。

Vol.53「ワンメイクでレースの安全性が増す!?」

1レース20本という本数を提案したのは、それまでブリヂストンユーザーが1レースで使用してきた平均本数が25本程度だったというデータに基づいたものでした。極端に暑かった場合や寒かったときのことを考えて余分にタイヤを用意しているものの、31本や40本のすべてを使っていたわけではないのです。また、ライダーからその危険性が指摘され、タイヤメーカーとしても本当は排除したかった予選タイヤも、ワンメイク化になれば「予選タイヤとは……」という定義の必要もなくなるため簡単に削除可能。これらのことを考慮すれば、1レース20本というのは決して無理難題を突き付けているわけではなく、我々のデータと経験で問題なくレースができるというという提案でした。

Vol.52「幻の“ロッシノート”が存在するという噂……」

セーフティコミッションを務める6名のライダーが出席した会議の場で、2008年にブリヂストンを履いてレースに参戦していたロッシ選手やケーシー・ストーナー選手が、「これまでブリヂストンと仕事をしてきて、問題への対応力や仕事の進め方に対する彼らの能力は素晴らしく、信頼できるタイヤメーカーだと知っている。彼らが大丈夫だと言っているなら信頼すべき」というようなことを発言してくれたようで……

Vol.51「恐れていたワンメイク化はいよいよ現実に」

もちろん決勝レースはちゃんと見ていました。ただし、決勝終了直後には再びトークショーがあるため、優勝したロッシ選手と2位のストーナー選手、3位に入賞したホンダワークスチームのダニ・ペドロサ選手というブリヂストン勢による表彰台独占の様子を見届けてからすぐに、またしても地下通路を移動してメインゲート近くのブリヂストンブースに戻った記憶があります。そして、現場でのさまざまな実務以外にもうひとつ、私の頭を悩ませる問題が存在していて、そちらのことが気がかりだったことも、シリーズタイトル防衛を手放しで喜べない要因となっていました。

Vol.50「ロッシが動くとそれだけで大騒ぎ!」

それまで、ロッシ選手はスポンサーのイベントに出演することはまずなかったそうで、これにはヤマハ側も驚いたそうです。まあ、ブリヂストン初年度だったので、ちょっとしたサービス心というか、恩を売っておこうくらいの感じだったのかもしれません。そういえばあの当時、ロッシ選手は母国イタリアでのプライベートタイムにもブリヂストンのキャップを被ってくれることがあったらしく、「イタリアでBSキャップがブームになっている」なんて話も聞きました。

Vol.49「2008年の日本GPは例年以上に慌ただしい幕開け」

我々が再びチャンピオンになるとしても、日本でそれが決まることはないだろうと考えていました。ところが、第11戦アメリカGPからロッシ選手が4連勝し、逆にストーナー選手やペドロサ選手がポイントを大きく取りこぼしたことで、ロッシ選手のリードが一気に拡大。「可能性がある」を飛び越して「ほぼ間違いなく決まる」という状況で、ホームグランプリを迎えることになったのです。

Vol.48「今度はダニ・ペドロサがBSを望んできた!」

我々からしたら、ミシュランの敗因はほんの小さなミスによるもので、それほど大騒ぎすることでもないし、それはブリヂストンにも起こることだと思っていました。表彰台独占にしても、我々がMotoGPに挑戦をはじめて数年間はずっとミシュランの天下でしたが、そのころに「それならワンメイク化にしよう」なんて議論は微塵も起こりませんでした。

Vol.47「ロッシvsストーナーに沸いた2008年中盤戦!」

第6戦イタリアGPは我々にとって大きなプレッシャーがかかるレースとなりました。というのも、ロッシ選手はこの母国グランプリで、それまで6連勝を挙げていたから。もしも、それまでのミシュランからブリヂストンタイヤに履き替えたことで連勝が途切れたら……。なにせ、イタリアでのレースには他国での開催よりもさらに多くのロッシファンが駆けつけます。以前、ヤマハのスタッフから「マシンが遅かったとき、レース後にロッシファンから怖い思いをさせられたことが……」なんて話も聞いていたので、かなり緊張していました。

Vol.46「ロッシとシューマッハには共通点があった」

この年からブリヂストンタイヤを履くヤマハワークスチームのバレンティーノ・ロッシ選手が第2戦スペインGPで2位、第3戦ポルトガルGPで3位表彰台に立ったものの、ブリヂストンとしては使用するライダーの数が少ないミシュランに押されている雰囲気がありました。また、たしかにロッシ選手は表彰台に2度登壇しましたが、第3戦では同じチームでミシュランを履いて勝利を収めたホルヘ・ロレンソ選手から約12秒も遅れた3位で、本来なら優勝の実力があるロッシ選手からすると、まだ本調子ではないように見えました。

Vol.45「ロッシ加入も意外と苦戦の2008年序盤戦」

ロッシ選手は、2006年と2007年の2年連続でシリーズタイトルを逃していましたが、それでも当時の最強ライダーであることは誰もが認める状態。もしもブリヂストンタイヤに変更して、これまでより成績が落ちたら……。なにせ、MotoGPでヤマハのマシンがブリヂストンタイヤを履くのは初のことでしたから、未知数の部分もありました。とはいえ、ロッシ選手だけを特別扱いすれば、うちのタイヤを使う他のライダーやチームが黙っていないでしょうし……

Vol.44「ロッシを使えるのは1日だけ!?」

ちょうど現在、MotoGPではバレンティーノ・ロッシ選手の去就に関する話題で持ち切りです。ロードレース世界選手権の最高峰クラスだけでも22年、125ccクラスと250ccクラスを含めるとこれまで26年というキャリアは、彼でなければ成し遂げられないものでしょう。ロッシ選手が、「ブリヂストンタイヤを履けないならレースを辞める」とヤマハに訴えたのは、いまからもう14年も前のこと。その2007年、ロッシ選手のシリーズランキングは3位でした。

Vol.43「ロッシに供給しなければワンメイク!?」

2000年にロードレース世界選手権の最高峰クラスに挑戦するプロジェクトの立ち上げが決定したとき、私が会社に提出した5ヵ年計画では、5年目にチャンピオンという目標を掲げていました。まあこれは、とりあえずの案というか……、さすがに会社は10年も待ってくれないだろうと考えた結果のプラン。実現はかなり難しいと思っていました。とはいえ、いつまでもシリーズタイトルが獲得できないままでいるわけにもいかないので、開発をスタートしてから7年目、実戦参加して6年目での初タイトルというのは、早くもなく遅くもないまずまずの結果だったのかもしれません。

Vol.42「ホームグランプリで初めてのタイトル獲得!」

ブリヂストンにとって6年目のMotoGPクラス参戦となった2007年は、ドゥカティワークスチームにこの年から加入したケーシー・ストーナー選手が開幕戦でいきなり優勝。シーズンは全18戦でしたが、第8戦イギリスGPまでの間にストーナー選手は5勝を挙げ、かなりの強さを発揮している状況でした。ミシュランは、この年に初めて導入された1大会におけるタイヤ本数制限の影響が大きかったようで不調気味。元々技術力のある会社なのですぐに適応してくると思っていたため――。

Vol.41「ワンメイク化の脅し文句に翻弄される日々」

2007年シーズンは、約1ヵ月のサマーブレイクを挟んで、8月中旬の第12戦チェコGPで再開。ブリヂストンとしては、舞台裏でヤマハとホンダのワークスチームから来季のタイヤ供給をリクエストされ、難しい判断を迫られている状況でしたが、レースではドゥカティワークスチームのケーシー・ストーナー選手が優勝、スズキワークスチームのジョン・ホプキンス選手が自己ベストリザルトとなる2位に入賞して、強さを発揮していました。

Vol.40「ロッシ、いよいよ本気でBS使用を望む!」

2007年シーズンの後半に入った第10戦ドイツGP。このレースでは、前戦のダッチTTに続いて勝利を逃す……どころか、惨敗という結果が待っていました。ドゥカティワークスチームのロリス・カピロッシ選手がなんとか2位に入ってくれましたが、ポイントランキングトップでこの大会を迎えたドゥカティワークスのケーシー・ストーナー選手は5位。これに続いて6~9位にブリヂストンユーザーという上位勢でした。

Vol.39「“雨ならBS”がパドックでの共通認識に」

ここまですでに2勝を挙げていたドゥカティワークスチームのケーシー・ストーナー選手を筆頭に、ブリヂストンユーザーの活躍が目立つレースがさらに増えました。例えば続く第4戦中国GPでは、ストーナー選手が優勝してスズキワークスチームのジョン・ホプキンス選手が3位初表彰台に登壇。第5戦フランスGPでは、スズキワークスから参戦していたクリス・バーミューレン選手が初優勝を挙げ、ホンダサテライトチームのホンダ・グレシーニから参戦したマルコ・メランドリ選手が2位、ストーナー選手が3位に入賞して、再びブリヂストン勢が表彰台を独占(タイトル写真)しました。

Vol.38「ロッシの怒り。その火種はあの瞬間に!?」

ロッシ選手は前年あるいはさらに前の年くらいから、「ブリヂストンタイヤは脅威になる」とチームやミシュランに訴えていたと耳にしたことがあります。そして2007年第3戦でのミシュランのタイヤトラブル。このあたりで、ロッシ選手の怒りを買ったのかもしれません。じつはこの年、シーズン中盤にロッシ選手が「ブリヂストンタイヤを使えないならヤマハから移籍する」と言い出して……。

Vol.37「2年連続開幕戦勝利でシーズンイン!」

迎えた2007年シーズン、開幕の舞台はカタール。ちょうどこの年から、カタールGPが開幕戦に設定されたのです。ただし、この年までは決勝レースが土曜日の日中に実施されるタイムスケジュールでしたが、翌年からMotoGP史上初のナイトレース(決勝は日曜開催)に移行します。そしてこの2007年というのは、マシン排気量が990ccから800ccに変更されただけでなく、とくに我々にとっては大きなレギュレーションの変更がありました。

Vol.36「排気量が減ったのに、速くなった!」

これまでの990ccから800ccに排気量上限のレギュレーションが変更されるにあたり、もちろん各メーカーは開発とテストを繰り返していました。たしかドゥカティは、2006年の春ごろには800ccでのプライベートテストをスタートしていたはず。8月中旬に開催された第12戦チェコGP直後の合同テストではドゥカティやヤマハが800ccマシンを走らせ、9月下旬に実施された第15戦日本GP決勝翌日からの合同テストでは、ホンダとスズキも加わって800ccを走らせています。

Vol.35「“頂点”に喰い込むファーストステップ!」

2006年には結果的にシーズン4勝を挙げ、いよいよブリヂストンにも王座を本気で狙えるポテンシャルがほぼ備わったと我々も実感したわけですが、その翌年というのは、MotoGPクラスが大きな変革を迎えるタイミングでした。ロードレース世界選手権の最高峰クラスはマシンが4スト化されて以降、最大排気量990ccというレギュレーションが設けられてきましたが、2007年から800ccに変更されたのです。もちろん、レース全体としてはこのことが最大のトピックでしたが、ブリヂストン陣営としてはそれに加えて、契約チームの増強によるこれまで以上の戦力アップということもポイントになりました。

Vol.34「MotoGPライダーに効くおまじない!?」

前回は、ウェットタイヤの開発はターゲットが難しいとか、カットスリックタイヤを用意していてもMotoGPクラスに参戦を開始してから7年間で2回くらいしか使用されなかった……なんて裏話をしました。その中で皆さんが疑問に思われたであろういくつかのことを補足しておくと、まずスリックタイヤに手作業で溝を掘るカットスリックは、基本的にはすべて現場で作成していました。レースウィークに入って、天気予報から判断して必要になりそうな場合に、ブリヂストンのサービススタッフがベースとなるスリックタイヤにひとつずつ加工。会社には手作業で溝を掘るスペシャリストもいるのですが、レース現場に連れて行くわけにもいかないので、現場では設計者などが自分たちで掘っていました。私もずいぶんやりましたよ!

Vol.33「ウェット用タイヤの開発は……キリがない!」

全17戦で競われた2006年シーズンの後半、気温と路面温度が極めて高い過酷なコンディションとなった第11戦アメリカGPを終え、我々はタイヤ性能に対してさらなる自信を獲得。そしてその確信が間違いでないことを、ヨーロッパに戻った第12戦チェコGPで証明しました。このレースでは、予選2番手となったドゥカティワークスチームのロリス・カピロッシ選手が、オープニングラップからトップに立つと、後続をじわじわと引き離して独走優勝。開幕戦スペインGP以来となる、カピロッシ選手とブリヂストンにとってのシーズン2勝目をマークしました。

Vol.32「互角に戦える確かな手ごたえを得た2006年」

前回紹介したように、2006年第7戦カタルニアGPの決勝レーススタート直後に、ドゥカティワークスチームのロリス・カピロッシ選手とセテ・ジベルナウ選手が接触して転倒。このアクシデントで負傷したことで、カピロッシ選手はシリーズタイトル争いから脱落してしまいましたが、ブリヂストンにとってMotoGPクラス参戦5年目となった2006年は、前年までと比べてかなり戦績が上向いたシーズンでした。もちろんシーズン序盤は、カピロッシ選手が第6戦までの間に優勝が1回、2位が2回、3位が1回で計4度も表彰台に登壇し、決勝のリザルトでは飛び抜けていたのですが、ブリヂストン勢が全体的に戦闘力を高めていました。

Vol.31「あのクラッシュさえなければ……」

ブリヂストンとしてMotoGP参戦5年目となった2006年は、前年と同じくドゥカティ、スズキカワサキのワークスチームにタイヤを供給することになりました。ドゥカティは継続起用のロリス・カピロッシ選手とホンダから移籍してきたセテ・ジベルナウ選手、スズキは同チーム4年目のジョン・ホプキンス選手と前年までホンダのマシンでスーパーバイク世界選手権に参戦していたクリス・バーミューレン選手、カワサキはこのチームで3年目となる中野真矢選手と250ccクラスからMotoGPにステップアップしてきたランディ・ド・ピュニエ選手という布陣でした。

Vol.30「予選タイヤ、排除できません!」

前回のコラムで、ブリヂストンのMotoGPクラス参戦5年目となった2006年は、1大会で各ライダーが使用できるタイヤの本数制限が導入されたと記載しました。しかしじつは、その後に再度検証したところ、これは一部間違っていたようです。まずは、読者のみなさまにお詫びいたします。2006年の規制導入開始に向けて、ミシュラン、ダンロップ、ブリヂストンのタイヤメーカー各社およびMotoGPの運営権利を所有するドルナスポーツによる合意があったことは間違いありません。しかしその後、スペック数の制限や本数のコントロール方法が難しく、実際には導入延期となっていたことを忘れていました。

Vol.29「意外でもあり予想通りだったイタリアン!?」

ドゥカティと契約して、初めて日本以外のバイクメーカーと組んだ2005年シーズン。ブリヂストン勢では、ドゥカティ・マルボロチームから参戦したロリス・カピロッシ選手のシリーズランキング6位が最上位となりました。前半戦はなかなか思うような結果につなげることができず苦労しましたが、後半戦は連勝も記録し、表彰台登壇回数も増加。この年、初めてイタリアのチームあるいはライダーと一緒に戦ってみて、それまでイタリア人に抱いていた能天気で楽天的というようなイメージとは、異なる部分も見ることができました。

Vol.28「イタリアンに悩まされた2005年前半戦」

ドゥカティが加わったことで、ブリヂストンは2005年のロードレース世界選手権最高峰クラス(MotoGP)で、3つのワークスチームと契約することになりました。チーム・スズキMotoGPがケニー・ロバーツJr選手とジョン・ホプキンス選手、カワサキ・レーシングチームが中野真矢選手とアレックス・ホフマン選手、ドゥカティ・マルボロチームがロリス・カピロッシ選手とカルロス・チェカ選手という布陣です。ところが、それまで2年間サポートしてきた玉田誠選手との契約は、残念ながら打ち切りとなってしまいました。

Vol.27「ドゥカティワークスと秘密の交渉!?」

2004年は、7月第1週にブラジルで開催された第7戦リオGPで、キャメル・ホンダから参戦していた玉田誠選手が、ブリヂストンにとってロードレース世界選手権の最高峰クラスで初となる優勝。さらに9月第3週の第12戦日本GPでは、玉田選手が2勝目を挙げ、カワサキ・レーシングチームから参戦していた中野真矢選手が3位表彰台に上がりました。そしてこれらの成績は、翌年に向けた我々の体制づくりにおいて、プラスの材料となっていきます。我々は、ちょうどリオGPくらいのタイミングから、2005年に向けて各チームとの具体的な交渉をスタートしていました。

Vol.26「MotoGPでの2勝目は地元のもてぎで!」

2004年第7戦リオGP(ブラジル)で獲得した、キャメル・ホンダから参戦していた玉田誠選手とブリヂストンにとって初めてのロードレース世界選手権最高峰クラス優勝。その瞬間は、当事者である我々も予想できない状況で突如として訪れましたが、このドラマにはまだ続きがありました。当コラムの第18回で紹介しましたが、玉田選手はレース活動の契約に関して、彼のお母様が代表となっている会社にすべて任せており、そのため2003年シーズンに向けて玉田選手とブリヂストンが契約を結ぶ段階から、私は彼のお母様と契約交渉を含めたさまざまなやり取りをしてきました。

Vol.25「大ピンチから一転、歓喜の初優勝へ!」

2004年6月第1週にムジェロサーキットで開催された第4戦イタリアGPで、カワサキ・レーシングチームから参戦していた中野真矢選手が装着していたブリヂストンのリヤタイヤが300km/hの速度域で壊れ、中野選手が大クラッシュしてからわずか4日後。私はスペインのカタルニアサーキットで、翌日から走行がスタートするカタルニアGPの準備を進めていた各サポートチームを訪ねて、ブリヂストンが前戦で発生した重大トラブルに関してどのような対策を施してきたのか説明を続けていました。

Vol.24「対策品を開発して4日後までに現地へ!」

2004年の6月第1週にムジェロサーキットで開催された第4戦イタリアGPで、カワサキ・レーシングチームから参戦していた中野真矢選手が装着していたブリヂストンのリヤタイヤが300km/hの速度域で壊れて、中野選手が大クラッシュ。当然ながら我々には、早急かつ万全な対策が求められました。しかし次戦のカタルニアGPは翌週開催。金曜日の午前中には走行がスタートするので、我々はイタリアGPの決勝が終了した日曜日の午後から実質4日間で、これを成し遂げなければなりませんでした。

Vol.23「参戦3年目にして過去最大のピンチ!」

ブリヂストンにとって、ロードレース世界選手権最高峰となるMotoGPクラスの参戦3年目となった2004年。我々は初めてワークスチームとの契約も獲得して、3チーム5台体制で臨むことになりました。前年から継続となるキャメル・ホンダの玉田誠選手に加えて、チームスズキMotoGPからケニー・ロバーツJr選手とジョン・ホプキンス選手、カワサキ・レーシングチームから中野真矢選手とアレックス・ホフマン選手が参戦。ワークス2チームが加わり、リザルトおよびタイヤ開発に対して、これまで以上に期待が持てるシーズンインとなりました。

Vol.22「初めてワークスチームと契約!」

ブリヂストンが、当初の予定を1年前倒ししてMotoGP(ロードレース世界選手権)の最高峰クラスに参戦をスタートした2002年も、体制づくりは前年の遅い時期までドタバタしていましたが、プラマック・ホンダの玉田誠選手と新たに契約した2003年の体制決定も、2002年の最終戦まで長引いてしまいました。その反省と改善ということから、MotoGP参戦3年目となる2004年に向けた動きは、前年のシーズンが4月に開幕したのと同時に開始しました。

Vol.21「幻と消えたホームグランプリの3位」

ブリヂストンにとってMotoGP(ロードレース世界選手権)最高峰クラス参戦2年目となった2003年、プラマック・ホンダの玉田誠選手とブリヂストンタイヤは、シーズンが終盤に近付いた第12戦リオGPで3位に入賞して、この年にひとつの目標としていた表彰台圏内でのゴールを達成。最高峰クラスでの初表彰台登壇という好成績を土産に、気合十分で日本に戻りました。

この年まで、日本GPが鈴鹿サーキット、パシフィックGPがツインリンクもてぎと、日本ではMotoGPが2戦開催されていて、第13戦はそのパシフィックGP。地元大会のアドバンテージやメリットについては前回紹介したとおりですが、加えてパシフィックGPの前には、ブリヂストンのロードレース世界選手権最高峰クラス参戦に向けた2001年の開発テストも担当してくれた伊藤真一選手をテストライダーに起用して、ツインリンクもてぎで事前テストも実施していました。

Vol.20「初めての表彰台は“日本の真裏”で!」

ブリヂストンがMotoGP(ロードレース世界選手権)の最高峰クラスに参戦をスタートして2年目の2003年、新たに契約したプラマック・ホンダの玉田誠選手は、初の世界選手権フル参戦ながら健闘。第5戦イタリアGPでは4位に入賞して、この年にまず目標としていた表彰台登壇まで、あとひとつに迫りました。しかしそこから、リザルト的には下降線。シーズン中盤は、トップ10を逃すレースもありました。この時期は、ヨーロッパのサーキットを転戦していて、玉田選手にとっては事前テストをしていない初めてのコースも多く、前年までの参戦経験があるライダーや欧州出身ライダーに対するハンデはかなり大きかったと思います。

Vol.19「2003年、開幕戦で確かな手応えを得るも……」

ブリヂストンとしてMotoGP(ロードレース世界選手権)の最高峰クラス参戦2年目となった2003年は、新たに契約したプラマック・ホンダの玉田誠選手と、前年からの継続参戦となるプロトン・チームKRの青木宣篤選手およびジェレミー・マクウィリアムス選手にタイヤを供給しました。この年の大きな出来事は、参戦するすべてのチームが基本的には4ストマシンに移行したということ。4ストは前年から走っていましたが、ブリヂストンは2ストマシンを使用するチームのみにタイヤを供給していたので、初めて経験することになります。

Vol.18「大物か、それとも……。新人ライダーはとっても未知数!?」

「もしもし、ブリヂストンの山田と申します。来年、一緒にMotoGPで戦いませんか? 突然の話で理解しづらいと思うので、後ほどまた電話しますね」

2002年のMotoGP(ロードレース世界選手権)最終戦バレンシアGP、決勝日のお昼ごろ。ようやく、翌年の参戦体制についてプラマックレーシングとブリヂストンが合意に至ったことから、HRC(ホンダレーシング)のスタッフに玉田選手の電話番号を聞いた私は、さっそく彼に電話しました。しかし本人は、水面下で自分が翌年のMotoGPを走るという交渉が進んでいたことも、それがブリヂストンのタイヤ開発も目的としたもので、私がそのプロジェクトに深く関わっているということも、それどころか私のことも、すべて知らない状態でした。

Vol.17「飛躍のために最後までこだわったライダー選び」

2002年、シーズンも残り2戦となった第15戦オーストラリアGPの予選で、私たちは翌年に向けて確かな自信を得ました。最大のライバルにして当時の絶対的王者だったミシュランを、シーズン終盤になって少しは焦らせることができたのではないかと感じていました。ただし、これはいまになって振り返ればという話ですが、ブリヂストンがこのときに好成績を残せたのは、コースに対するデータ不足がむしろプラスとして働いた結果かもしれません。

Vol.16「予選で3選手全員がフロントローに!」

ロードレース世界選手権最高峰クラス(2002年からMotoGPクラス)の参戦初年度となった2002年、ブリヂストンのタイヤ開発に対する基本思想は、まずラップタイム短縮を重視し、その上でその性能を長く維持させるという方向性が、前年の開発テストから継続されていました。いわゆる“一発の速さ”ということでは、シーズン終盤に実力を証明することができました。

Vol.15「ある日、ケニーさんに軟禁されまして……」

ブリヂストンがロードレース世界選手権最高峰クラス(2002年からMotoGPクラス)に初参戦した2002年、その序盤からカネモトレーシングのユルゲン・ファンデン・グールベルグ選手がトラブルメーカーになったことは、前回のコラムで紹介しました。しかしこの年には、もうひとつの大きな事件も思い出として記憶されています。グールベルグ選手をなんとかおとなしくさせたと思ったら、今度はプロトン・チームKRを運営するケニー・ロバーツさんが大激怒。

Vol.14「対応に苦慮したグールベルグ事件」

ブリヂストンがロードレース世界選手権最高峰クラス(2002年からMotoGPクラス)に初参戦した2002年は、カネモトレーシングのユルゲン・ファンデン・グールベルグ選手と、プロトン・チームKRの青木宣篤選手およびジェレミー・マクウィリアムス選手にタイヤを供給することになりました。鈴鹿サーキットで実施された開幕戦の日本GPは雨の決勝レースとなり、青木選手が7位でゴール。ただ……

Vol.13「参戦に向けた試練はライダー選びにあり」

チェコのブルノサーキットで、2001年8月27日から4日間のスケジュールで実施したテストで、我々は翌年からロードレース世界選手権(WGP)の最高峰クラス(2002年からはMotoGPクラスとなり、2006年までは4スト990ccと2スト500ccが混走なレギュレーション)に参戦するかの最終判断をすることになりました。1月から欧州の各サーキットで繰り返してきたテストは、このブルノで9回目。

Vol.12「接地感って、なんですか?」

2001年1月中旬にスペインのヘレスサーキットで初めて実施した、ロードレース世界選手権(WGP)のGP500用タイヤ開発を目的とした実走テストは、2月中旬にもヘレス、3月中旬には同じくスペインのカタルニアサーキット、4月中旬に再びヘレス、5月は上旬にヘレスで、下旬にチェコのブルノサーキットと、ほぼ毎月1回ペースで続けました。

Vol.11「GP500用タイヤ開発が本格始動」

アーヴ・カネモトさんとブリヂストンが、ロードレース世界選手権(WGP)の当時最高峰だったGP500のタイヤ開発チーム運営に関する内容の大筋合意に至ったのは、2000年11月末だったと思います。しかし契約書にサインするまでは、かなりの時間がかかります。アーヴさんとの合意ができてすぐに、社内法務部の担当と綿密な打ち合わせをして、英語の規約書づくりに着手。ドラフトができたら、アーヴさん側の弁護士が確認します。

Vol.10「奇跡的に間に合ったテスト体制づくり」

ブリヂストンのテストコースにHRCのメンバーを招いて実施した2000年9月末のテストで、アーヴ・カネモトさんがレース運営から身を引こうとしていることを知ってから、わずか4日後(現地時間の10月2日)。米国ロスアンゼルスの空港で、私はアーヴさんと会っていました。ちょうどその週末には、ロードレース世界選手権(WGP)のリオGPが開催。日本からブラジルへ向かうフライトのトランジットを利用して、アーヴさんと会う約束を取り付けていたのです。

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Vol.9「マシンはあるのに体制決まらず!」

2000年6月20日の経営会議でGOサインが出てすぐに、ロードレース世界選手権(WGP)の最高峰クラスに挑戦するためのプロジェクトグループが結成されました。本社と技術センターの常務2名をトップに、技術センターではタイヤ設計、材料、試験、基礎研究などの各部門から部課長と担当を配属。本社では、私の所属した販売部門が事務局となり、広報部も入れてプロジェクトグループを結成して、定期的にプロジェクト会議を実施しました。ちなみに、この活動を「Rey(レイ)プロジェクト」と命名しました。Reyとはスペイン語で「王者、王様」という意味です。

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Vol.8「最高峰クラス挑戦の夢は突然に」

1999年、ロードレース世界選手権(WGP)のGP125クラスでチャンピオンを輩出するという悲願こそ達成できませんでしたが、ブリヂストンは1991年に参戦を開始してから最多となるシーズン8勝を挙げ、低迷期を脱しました。そしてこの年あたりから、社内におけるWGPに対する認識も、以前とは少し変わってきていました。

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Vol.7「ブリヂストンの大ピンチを救った東雅雄」

1997年は、第4戦以降に契約ライダーがだれもいなくなるという、ロードレース世界選手権(WGP)にブリヂストンがフル参戦を開始してからもっとも厳しいシーズンとなりました。しかもこの年は開幕前にも、予想外の出来事により大きなチャンスを失っていました。当時、全日本ロードレース選手権からWGPにステップアップしてきた日本人ライダーが、いきなり速さを発揮して活躍することがとても多く、「今度はどんな日本人が来るんだ?」とか「速いライダーを紹介してくれ!」というような話が………

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Vol.6「どん底へ向けて下降線。遠ざかるチャンピオン」

坂田和人選手がシーズン途中でブリヂストンからダンロップにタイヤを変更するという、我々にとっては“大事件”が起きた1993年、彼が所属していたF.C.C.テクニカルスポーツにはもうひとり、新たな日本人ライダーが加入しました。それが辻村猛選手。全日本ロードレース選手権にフル参戦せず、藤井正和監督に大抜擢されて世界の舞台にやってきたスーパールーキーでした。

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Vol.5「初年度3勝に膨らむ夢と、立ちはだかりはじめた現実の壁」

ブリヂストンがロードレース世界選手権(WGP)での挑戦をスタートした1991年は、そのきっかけとなったテクニカルスポーツ(現在のTSR)の上田昇選手に加えて、レーシングサービス業務を請け負ってくれたブリヂストンドイツの要請で、ドイツ人のピーター・エッテル選手をサポートして、GP125を中心に活動していました。結果的には上田選手が2勝、エッテル選手が1勝で、ブリヂストンとしては3勝(GP125は全13戦)。参戦初年度ということを考えれば、まずまず満足できる結果でした。

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Vol.4「前触れもなく訪れた世界選手権への挑戦」

1991年というのは、ブリヂストンにとって非常に重要な年となりましたが、シーズンオフの段階では“そんなこと”が起こるなんて、まるで想像すらしていませんでした。前年同様、この年の全日本ロードレース選手権もGP250用タイヤの開発をメインとしながら、GP125のライダーも何名かサポートしていました。そのうちのひとりが、テクニカルスポーツ(現在のTSR)から前年に続いて継続参戦となったノビーこと上田昇選手。そしてその上田選手は、ワイルドカード枠で出場したロードレース世界選手権(WGP)の開幕戦・日本GPでポールtoウィンを達成してしまったのです。

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Vol.3「1990年、初めてレーシングスリックに携わる!」

1990年に、ブリヂストンが全日本ロードレース選手権のサポートを強化したことを受けて、私は新たにレース用タイヤの設計に携わるようになりました。活動の中心となったのはGP250。私はそれ以前にも、溝付きのいわゆるSPタイヤを担当したことはあったのですが、スリックタイヤはこのときが初めてでした。当時の業務内容としては、技術者としてレーシングライダーのコメントを聞いて理解し、それをもとにタイヤ評価をして、次につくるタイヤの仕様を決めるというのがメイン。その仕様に基づいて、開発チームが新たなタイヤを製造していました。

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Vol.2「テストライダーとして学んだ“感覚”が、MotoGPへの第一歩」

60歳になった現在でも、仲間と一緒にお遊びレースに参加することもあるのですが、ブリヂストンに入社してしばらくは、バイクに乗る時間が結構ありました。遊びではなく、タイヤのテストをする仕事としてですよ! でも、富士(富士スピードウェイ)を貸切でテストするときなんて、最大でも5名程度が走行しているかどうかという状態ですから、いま考えたらとてもぜい沢な話です。ただ、当時テストでサーキットを走って楽しいと思った事は一度もありませんでした。やはりきちんとした評価をしなくてはならないという事と、限界を掴もうとすればする程リスクが高まるという事でプレッシャーがあったのです。

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Vol.1「BS入社の理由と、テストライダーだったころ」

“元”ブリヂストンの山田です。2019年7月末に、60歳で定年退職しました。在職中は、大変多くの方々に多方面でお世話になりました。感謝申し上げます。まあ、7月というのは鈴鹿8耐がある時期ですから、じっくり退職に向けた準備を進めたというよりは、最後まで8耐関連の準備と後処理をバタバタとやって、感慨に浸る間もなく退職日を迎えたんですけどね。

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