ここだけで語られる、ブリヂストンのレーシングヒストリー

連載:山田宏の[タイヤで語るバイクとレース]【独占Webコラム】

  • 2019/12/2

ブリヂストンが世界最高峰二輪ロードレースのMotoGPでタイヤサプライヤーだった時代に、その総責任者として活躍。関係者だけでなく一般のファンにも広く知られた山田宏さんが、2019年7月末で定年退職されました。その山田さんに、あんな秘話やこんな逸話を、毎回たっぷり語ってもらいます。いまだから公開できる超絶裏話も飛び出すかも!?

Vol.23「参戦3年目にして過去最大のピンチ!」

ブリヂストンにとって、ロードレース世界選手権最高峰となるMotoGPクラスの参戦3年目となった2004年。我々は初めてワークスチームとの契約も獲得して、3チーム5台体制で臨むことになりました。前年から継続となるキャメル・ホンダの玉田誠選手に加えて、チームスズキMotoGPからケニー・ロバーツJr選手とジョン・ホプキンス選手、カワサキ・レーシングチームから中野真矢選手とアレックス・ホフマン選手が参戦。ワークス2チームが加わり、リザルトおよびタイヤ開発に対して、これまで以上に期待が持てるシーズンインとなりました。

Vol.22「初めてワークスチームと契約!」

ブリヂストンが、当初の予定を1年前倒ししてMotoGP(ロードレース世界選手権)の最高峰クラスに参戦をスタートした2002年も、体制づくりは前年の遅い時期までドタバタしていましたが、プラマック・ホンダの玉田誠選手と新たに契約した2003年の体制決定も、2002年の最終戦まで長引いてしまいました。その反省と改善ということから、MotoGP参戦3年目となる2004年に向けた動きは、前年のシーズンが4月に開幕したのと同時に開始しました。

Vol.21「幻と消えたホームグランプリの3位」

ブリヂストンにとってMotoGP(ロードレース世界選手権)最高峰クラス参戦2年目となった2003年、プラマック・ホンダの玉田誠選手とブリヂストンタイヤは、シーズンが終盤に近付いた第12戦リオGPで3位に入賞して、この年にひとつの目標としていた表彰台圏内でのゴールを達成。最高峰クラスでの初表彰台登壇という好成績を土産に、気合十分で日本に戻りました。

この年まで、日本GPが鈴鹿サーキット、パシフィックGPがツインリンクもてぎと、日本ではMotoGPが2戦開催されていて、第13戦はそのパシフィックGP。地元大会のアドバンテージやメリットについては前回紹介したとおりですが、加えてパシフィックGPの前には、ブリヂストンのロードレース世界選手権最高峰クラス参戦に向けた2001年の開発テストも担当してくれた伊藤真一選手をテストライダーに起用して、ツインリンクもてぎで事前テストも実施していました。

Vol.20「初めての表彰台は“日本の真裏”で!」

ブリヂストンがMotoGP(ロードレース世界選手権)の最高峰クラスに参戦をスタートして2年目の2003年、新たに契約したプラマック・ホンダの玉田誠選手は、初の世界選手権フル参戦ながら健闘。第5戦イタリアGPでは4位に入賞して、この年にまず目標としていた表彰台登壇まで、あとひとつに迫りました。しかしそこから、リザルト的には下降線。シーズン中盤は、トップ10を逃すレースもありました。この時期は、ヨーロッパのサーキットを転戦していて、玉田選手にとっては事前テストをしていない初めてのコースも多く、前年までの参戦経験があるライダーや欧州出身ライダーに対するハンデはかなり大きかったと思います。

Vol.19「2003年、開幕戦で確かな手応えを得るも……」

ブリヂストンとしてMotoGP(ロードレース世界選手権)の最高峰クラス参戦2年目となった2003年は、新たに契約したプラマック・ホンダの玉田誠選手と、前年からの継続参戦となるプロトン・チームKRの青木宣篤選手およびジェレミー・マクウィリアムス選手にタイヤを供給しました。この年の大きな出来事は、参戦するすべてのチームが基本的には4ストマシンに移行したということ。4ストは前年から走っていましたが、ブリヂストンは2ストマシンを使用するチームのみにタイヤを供給していたので、初めて経験することになります。

Vol.18「大物か、それとも……。新人ライダーはとっても未知数!?」

「もしもし、ブリヂストンの山田と申します。来年、一緒にMotoGPで戦いませんか? 突然の話で理解しづらいと思うので、後ほどまた電話しますね」

2002年のMotoGP(ロードレース世界選手権)最終戦バレンシアGP、決勝日のお昼ごろ。ようやく、翌年の参戦体制についてプラマックレーシングとブリヂストンが合意に至ったことから、HRC(ホンダレーシング)のスタッフに玉田選手の電話番号を聞いた私は、さっそく彼に電話しました。しかし本人は、水面下で自分が翌年のMotoGPを走るという交渉が進んでいたことも、それがブリヂストンのタイヤ開発も目的としたもので、私がそのプロジェクトに深く関わっているということも、それどころか私のことも、すべて知らない状態でした。

Vol.17「飛躍のために最後までこだわったライダー選び」

2002年、シーズンも残り2戦となった第15戦オーストラリアGPの予選で、私たちは翌年に向けて確かな自信を得ました。最大のライバルにして当時の絶対的王者だったミシュランを、シーズン終盤になって少しは焦らせることができたのではないかと感じていました。ただし、これはいまになって振り返ればという話ですが、ブリヂストンがこのときに好成績を残せたのは、コースに対するデータ不足がむしろプラスとして働いた結果かもしれません。

Vol.16「予選で3選手全員がフロントローに!」

ロードレース世界選手権最高峰クラス(2002年からMotoGPクラス)の参戦初年度となった2002年、ブリヂストンのタイヤ開発に対する基本思想は、まずラップタイム短縮を重視し、その上でその性能を長く維持させるという方向性が、前年の開発テストから継続されていました。いわゆる“一発の速さ”ということでは、シーズン終盤に実力を証明することができました。

Vol.15「ある日、ケニーさんに軟禁されまして……」

ブリヂストンがロードレース世界選手権最高峰クラス(2002年からMotoGPクラス)に初参戦した2002年、その序盤からカネモトレーシングのユルゲン・ファンデン・グールベルグ選手がトラブルメーカーになったことは、前回のコラムで紹介しました。しかしこの年には、もうひとつの大きな事件も思い出として記憶されています。グールベルグ選手をなんとかおとなしくさせたと思ったら、今度はプロトン・チームKRを運営するケニー・ロバーツさんが大激怒。

Vol.14「対応に苦慮したグールベルグ事件」

ブリヂストンがロードレース世界選手権最高峰クラス(2002年からMotoGPクラス)に初参戦した2002年は、カネモトレーシングのユルゲン・ファンデン・グールベルグ選手と、プロトン・チームKRの青木宣篤選手およびジェレミー・マクウィリアムス選手にタイヤを供給することになりました。鈴鹿サーキットで実施された開幕戦の日本GPは雨の決勝レースとなり、青木選手が7位でゴール。ただ……

Vol.13「参戦に向けた試練はライダー選びにあり」

チェコのブルノサーキットで、2001年8月27日から4日間のスケジュールで実施したテストで、我々は翌年からロードレース世界選手権(WGP)の最高峰クラス(2002年からはMotoGPクラスとなり、2006年までは4スト990ccと2スト500ccが混走なレギュレーション)に参戦するかの最終判断をすることになりました。1月から欧州の各サーキットで繰り返してきたテストは、このブルノで9回目。

Vol.12「接地感って、なんですか?」

2001年1月中旬にスペインのヘレスサーキットで初めて実施した、ロードレース世界選手権(WGP)のGP500用タイヤ開発を目的とした実走テストは、2月中旬にもヘレス、3月中旬には同じくスペインのカタルニアサーキット、4月中旬に再びヘレス、5月は上旬にヘレスで、下旬にチェコのブルノサーキットと、ほぼ毎月1回ペースで続けました。

Vol.11「GP500用タイヤ開発が本格始動」

アーヴ・カネモトさんとブリヂストンが、ロードレース世界選手権(WGP)の当時最高峰だったGP500のタイヤ開発チーム運営に関する内容の大筋合意に至ったのは、2000年11月末だったと思います。しかし契約書にサインするまでは、かなりの時間がかかります。アーヴさんとの合意ができてすぐに、社内法務部の担当と綿密な打ち合わせをして、英語の規約書づくりに着手。ドラフトができたら、アーヴさん側の弁護士が確認します。

Vol.10「奇跡的に間に合ったテスト体制づくり」

ブリヂストンのテストコースにHRCのメンバーを招いて実施した2000年9月末のテストで、アーヴ・カネモトさんがレース運営から身を引こうとしていることを知ってから、わずか4日後(現地時間の10月2日)。米国ロスアンゼルスの空港で、私はアーヴさんと会っていました。ちょうどその週末には、ロードレース世界選手権(WGP)のリオGPが開催。日本からブラジルへ向かうフライトのトランジットを利用して、アーヴさんと会う約束を取り付けていたのです。

Vol.9「マシンはあるのに体制決まらず!」

2000年6月20日の経営会議でGOサインが出てすぐに、ロードレース世界選手権(WGP)の最高峰クラスに挑戦するためのプロジェクトグループが結成されました。本社と技術センターの常務2名をトップに、技術センターではタイヤ設計、材料、試験、基礎研究などの各部門から部課長と担当を配属。本社では、私の所属した販売部門が事務局となり、広報部も入れてプロジェクトグループを結成して、定期的にプロジェクト会議を実施しました。ちなみに、この活動を「Rey(レイ)プロジェクト」と命名しました。Reyとはスペイン語で「王者、王様」という意味です。

Vol.8「最高峰クラス挑戦の夢は突然に」

1999年、ロードレース世界選手権(WGP)のGP125クラスでチャンピオンを輩出するという悲願こそ達成できませんでしたが、ブリヂストンは1991年に参戦を開始してから最多となるシーズン8勝を挙げ、低迷期を脱しました。そしてこの年あたりから、社内におけるWGPに対する認識も、以前とは少し変わってきていました。

Vol.7「ブリヂストンの大ピンチを救った東雅雄」

1997年は、第4戦以降に契約ライダーがだれもいなくなるという、ロードレース世界選手権(WGP)にブリヂストンがフル参戦を開始してからもっとも厳しいシーズンとなりました。しかもこの年は開幕前にも、予想外の出来事により大きなチャンスを失っていました。当時、全日本ロードレース選手権からWGPにステップアップしてきた日本人ライダーが、いきなり速さを発揮して活躍することがとても多く、「今度はどんな日本人が来るんだ?」とか「速いライダーを紹介してくれ!」というような話が………

Vol.6「どん底へ向けて下降線。遠ざかるチャンピオン」

坂田和人選手がシーズン途中でブリヂストンからダンロップにタイヤを変更するという、我々にとっては“大事件”が起きた1993年、彼が所属していたF.C.C.テクニカルスポーツにはもうひとり、新たな日本人ライダーが加入しました。それが辻村猛選手。全日本ロードレース選手権にフル参戦せず、藤井正和監督に大抜擢されて世界の舞台にやってきたスーパールーキーでした。

Vol.5「初年度3勝に膨らむ夢と、立ちはだかりはじめた現実の壁」

ブリヂストンがロードレース世界選手権(WGP)での挑戦をスタートした1991年は、そのきっかけとなったテクニカルスポーツ(現在のTSR)の上田昇選手に加えて、レーシングサービス業務を請け負ってくれたブリヂストンドイツの要請で、ドイツ人のピーター・エッテル選手をサポートして、GP125を中心に活動していました。結果的には上田選手が2勝、エッテル選手が1勝で、ブリヂストンとしては3勝(GP125は全13戦)。参戦初年度ということを考えれば、まずまず満足できる結果でした。

Vol.4「前触れもなく訪れた世界選手権への挑戦」

1991年というのは、ブリヂストンにとって非常に重要な年となりましたが、シーズンオフの段階では“そんなこと”が起こるなんて、まるで想像すらしていませんでした。前年同様、この年の全日本ロードレース選手権もGP250用タイヤの開発をメインとしながら、GP125のライダーも何名かサポートしていました。そのうちのひとりが、テクニカルスポーツ(現在のTSR)から前年に続いて継続参戦となったノビーこと上田昇選手。そしてその上田選手は、ワイルドカード枠で出場したロードレース世界選手権(WGP)の開幕戦・日本GPでポールtoウィンを達成してしまったのです。

Vol.3「1990年、初めてレーシングスリックに携わる!」

1990年に、ブリヂストンが全日本ロードレース選手権のサポートを強化したことを受けて、私は新たにレース用タイヤの設計に携わるようになりました。活動の中心となったのはGP250。私はそれ以前にも、溝付きのいわゆるSPタイヤを担当したことはあったのですが、スリックタイヤはこのときが初めてでした。当時の業務内容としては、技術者としてレーシングライダーのコメントを聞いて理解し、それをもとにタイヤ評価をして、次につくるタイヤの仕様を決めるというのがメイン。その仕様に基づいて、開発チームが新たなタイヤを製造していました。

Vol.2「テストライダーとして学んだ“感覚”が、MotoGPへの第一歩」

60歳になった現在でも、仲間と一緒にお遊びレースに参加することもあるのですが、ブリヂストンに入社してしばらくは、バイクに乗る時間が結構ありました。遊びではなく、タイヤのテストをする仕事としてですよ! でも、富士(富士スピードウェイ)を貸切でテストするときなんて、最大でも5名程度が走行しているかどうかという状態ですから、いま考えたらとてもぜい沢な話です。ただ、当時テストでサーキットを走って楽しいと思った事は一度もありませんでした。やはりきちんとした評価をしなくてはならないという事と、限界を掴もうとすればする程リスクが高まるという事でプレッシャーがあったのです。

Vol.1「BS入社の理由と、テストライダーだったころ」

“元”ブリヂストンの山田です。2019年7月末に、60歳で定年退職しました。在職中は、大変多くの方々に多方面でお世話になりました。感謝申し上げます。まあ、7月というのは鈴鹿8耐がある時期ですから、じっくり退職に向けた準備を進めたというよりは、最後まで8耐関連の準備と後処理をバタバタとやって、感慨に浸る間もなく退職日を迎えたんですけどね。

山田 宏

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ブリヂストンでタイヤ開発を経てレース部門へ。ロードレース世界選手権では1991年のWGP125ccクラスへのスポット参戦からMotoGPへのワンメイクタイヤ供給まですべてを統括した。その後は世界耐久選手権シリーズで、ブリヂストンサポートチームの初優勝、初タイトルを見届けた。2019年7月をもって定年退職。視線はモータースポーツの未来へ。