ここだけで語られる、ブリヂストンのレーシングヒストリー

連載:山田宏の[タイヤで語るバイクとレース]【独占Webコラム】

  • 2019/12/2

ブリヂストンが世界最高峰二輪ロードレースのMotoGPでタイヤサプライヤーだった時代に、その総責任者として活躍。関係者だけでなく一般のファンにも広く知られた山田宏さんが、2019年7月末で定年退職されました。その山田さんに、あんな秘話やこんな逸話を、毎回たっぷり語ってもらいます。いまだから公開できる超絶裏話も飛び出すかも!?

山田宏の[タイヤで語るバイクとレース]Vol.10「奇跡的に間に合ったテスト体制づくり」

ブリヂストンのテストコースにHRCのメンバーを招いて実施した2000年9月末のテストで、アーヴ・カネモトさんがレース運営から身を引こうとしていることを知ってから、わずか4日後(現地時間の10月2日)。米国ロスアンゼルスの空港で、私はアーヴさんと会っていました。ちょうどその週末には、ロードレース世界選手権(WGP)のリオGPが開催。日本からブラジルへ向かうフライトのトランジットを利用して、アーヴさんと会う約束を取り付けていたのです。

Vol.9「マシンはあるのに体制決まらず!」

2000年6月20日の経営会議でGOサインが出てすぐに、ロードレース世界選手権(WGP)の最高峰クラスに挑戦するためのプロジェクトグループが結成されました。本社と技術センターの常務2名をトップに、技術センターではタイヤ設計、材料、試験、基礎研究などの各部門から部課長と担当を配属。本社では、私の所属した販売部門が事務局となり、広報部も入れてプロジェクトグループを結成して、定期的にプロジェクト会議を実施しました。ちなみに、この活動を「Rey(レイ)プロジェクト」と命名しました。Reyとはスペイン語で「王者、王様」という意味です。

Vol.8「最高峰クラス挑戦の夢は突然に」

1999年、ロードレース世界選手権(WGP)のGP125クラスでチャンピオンを輩出するという悲願こそ達成できませんでしたが、ブリヂストンは1991年に参戦を開始してから最多となるシーズン8勝を挙げ、低迷期を脱しました。そしてこの年あたりから、社内におけるWGPに対する認識も、以前とは少し変わってきていました。

Vol.7「ブリヂストンの大ピンチを救った東雅雄」

1997年は、第4戦以降に契約ライダーがだれもいなくなるという、ロードレース世界選手権(WGP)にブリヂストンがフル参戦を開始してからもっとも厳しいシーズンとなりました。しかもこの年は開幕前にも、予想外の出来事により大きなチャンスを失っていました。当時、全日本ロードレース選手権からWGPにステップアップしてきた日本人ライダーが、いきなり速さを発揮して活躍することがとても多く、「今度はどんな日本人が来るんだ?」とか「速いライダーを紹介してくれ!」というような話が………

Vol.6「どん底へ向けて下降線。遠ざかるチャンピオン」

坂田和人選手がシーズン途中でブリヂストンからダンロップにタイヤを変更するという、我々にとっては“大事件”が起きた1993年、彼が所属していたF.C.C.テクニカルスポーツにはもうひとり、新たな日本人ライダーが加入しました。それが辻村猛選手。全日本ロードレース選手権にフル参戦せず、藤井正和監督に大抜擢されて世界の舞台にやってきたスーパールーキーでした。

Vol.5「初年度3勝に膨らむ夢と、立ちはだかりはじめた現実の壁」

ブリヂストンがロードレース世界選手権(WGP)での挑戦をスタートした1991年は、そのきっかけとなったテクニカルスポーツ(現在のTSR)の上田昇選手に加えて、レーシングサービス業務を請け負ってくれたブリヂストンドイツの要請で、ドイツ人のピーター・エッテル選手をサポートして、GP125を中心に活動していました。結果的には上田選手が2勝、エッテル選手が1勝で、ブリヂストンとしては3勝(GP125は全13戦)。参戦初年度ということを考えれば、まずまず満足できる結果でした。

Vol.4「前触れもなく訪れた世界選手権への挑戦」

1991年というのは、ブリヂストンにとって非常に重要な年となりましたが、シーズンオフの段階では“そんなこと”が起こるなんて、まるで想像すらしていませんでした。前年同様、この年の全日本ロードレース選手権もGP250用タイヤの開発をメインとしながら、GP125のライダーも何名かサポートしていました。そのうちのひとりが、テクニカルスポーツ(現在のTSR)から前年に続いて継続参戦となったノビーこと上田昇選手。そしてその上田選手は、ワイルドカード枠で出場したロードレース世界選手権(WGP)の開幕戦・日本GPでポールtoウィンを達成してしまったのです。

Vol.3「1990年、初めてレーシングスリックに携わる!」

1990年に、ブリヂストンが全日本ロードレース選手権のサポートを強化したことを受けて、私は新たにレース用タイヤの設計に携わるようになりました。活動の中心となったのはGP250。私はそれ以前にも、溝付きのいわゆるSPタイヤを担当したことはあったのですが、スリックタイヤはこのときが初めてでした。当時の業務内容としては、技術者としてレーシングライダーのコメントを聞いて理解し、それをもとにタイヤ評価をして、次につくるタイヤの仕様を決めるというのがメイン。その仕様に基づいて、開発チームが新たなタイヤを製造していました。

Vol.2「テストライダーとして学んだ“感覚”が、MotoGPへの第一歩」

60歳になった現在でも、仲間と一緒にお遊びレースに参加することもあるのですが、ブリヂストンに入社してしばらくは、バイクに乗る時間が結構ありました。遊びではなく、タイヤのテストをする仕事としてですよ! でも、富士(富士スピードウェイ)を貸切でテストするときなんて、最大でも5名程度が走行しているかどうかという状態ですから、いま考えたらとてもぜい沢な話です。ただ、当時テストでサーキットを走って楽しいと思った事は一度もありませんでした。やはりきちんとした評価をしなくてはならないという事と、限界を掴もうとすればする程リスクが高まるという事でプレッシャーがあったのです。

Vol.1「BS入社の理由と、テストライダーだったころ」

“元”ブリヂストンの山田です。2019年7月末に、60歳で定年退職しました。在職中は、大変多くの方々に多方面でお世話になりました。感謝申し上げます。まあ、7月というのは鈴鹿8耐がある時期ですから、じっくり退職に向けた準備を進めたというよりは、最後まで8耐関連の準備と後処理をバタバタとやって、感慨に浸る間もなく退職日を迎えたんですけどね。

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山田 宏

山田 宏

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ブリヂストンでタイヤ開発を経てレース部門へ。ロードレース世界選手権では1991年のWGP125ccクラスへのスポット参戦からMotoGPへのワンメイクタイヤ供給まですべてを統括した。その後は世界耐久選手権シリーズで、ブリヂストンサポートチームの初優勝、初タイトルを見届けた。2019年7月をもって定年退職。視線はモータースポーツの未来へ。