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開幕戦7位も、次戦でライダートラブル勃発!?

山田宏の[タイヤで語るバイクとレース]Vol.14「対応に苦慮したグールベルグ事件」

  • 2020/3/25
プロトンKRのマシンを走らせる青木宣篤選手、2002年

ブリヂストンがMotoGPでタイヤサプライヤーだった時代に総責任者を務め、2019年7月にブリヂストンを定年退職された山田宏さんが、かつてのタイヤ開発やレース業界について回想します。2002年、ブリヂストンはロードレース世界選手権最高峰クラスに参戦開始。しかしそのシーズン序盤、待ち構えていたのは数々の試練と“事件”だったのです。

TEXT:Toru TAMIYA

開幕戦鈴鹿の日本GPでは地の利の生かし、青木宣篤選手が決勝7位

ブリヂストンがロードレース世界選手権最高峰クラス(2002年からMotoGPクラス)に初参戦した2002年は、カネモトレーシングのユルゲン・ファンデン・グールベルグ選手と、プロトン・チームKRの青木宣篤選手およびジェレミー・マクウィリアムス選手にタイヤを供給することになりました。鈴鹿サーキットで実施された開幕戦の日本GPは雨の決勝レースとなり、青木選手が7位でゴール。ただし、グールベルグ選手とマクウィリアムス選手はリタイアに終わりました。

2001年の実走開発テストでは、ウェットコンディションを想定したテストもやっていました。翌年の参戦開始が決定した後、9月下旬に実施したスペイン・バレンシアサーキットでの専有テストで、タンクローリーを使ってコースに水を撒き、レインタイヤをテストしています。もちろん1月の段階から、各テスト会場にはレインタイヤも持ち込んでいますが、このバレンシアテスト以前に雨が降ってタイヤの評価ができたという記憶はあまりないので、これが最初の実走テストだったのだと思います。

青木選手は7位となりましたが、当時のMotoGPクラスで本当に速いのは、ホンダとヤマハとスズキのファクトリーチーム勢が6台と、これにプラスして数台のサテライトチームだけという印象。新規参入でトップ10に入賞するというのは、それほどスゴいことではなかったはずです。それに加えて、日本のサーキットという特殊な環境が、我々にとっても青木選手にとってもプラスに働いたと思います。決勝レースはタイヤに対する評価が十分にできるようなコンディションではなかったし、ドライコンディションだった予選の段階で各ライダーからタイヤに対する要望がいろいろ出されていた状況だったので、やはり簡単に上手くいくような世界ではないという感想のほうが強く残りました。

プロトンKRのマシンを走らせる青木宣篤選手、2002年

1年ぶりにロードレース世界選手権最高峰クラスの実戦復帰を果たした青木宣篤選手。開幕戦となった地元の日本GPで、ドライの予選は15位、ウェットの決勝は7位と健闘した。

プロトンKRのマシンを走らせるジェレミー・マクウィリアムス選手、2002年

2002年の開幕戦日本GP、MotoGPクラスを走るプロトン・チームKRのジェレミー・マクウィリアムス選手。予選21位、決勝リタイアと苦戦することに……。

第2戦 南アフリカGPで事件が起こった!

この開幕戦では、MotoGPクラスの2チームにタイヤを供給することがこれほど大変なのかということも痛感させられました。これまで、例えば125ccクラスでは世界選手権でも複数チームにタイヤを供給してきた経験はありましたが、125ccクラスとは準備するタイヤのスペック数が圧倒的に違うので、MotoGPクラスの初戦は、レースウィークがはじまって公式練習、予選、決勝という時間があっという間に過ぎていったように思います。

各走行で使用するタイヤも選定しなければなりませんが、ライダーやチームにとってはマシンセッティングを煮詰めることがもっとも重要な作業。この方向性をしっかり確定することに多くの時間が割かれます。一方でブリヂストンにとっては、実戦であると同時に開発の場でもあるので、当然ながらタイヤに対する評価もしてほしいところですが、タイヤの性能を活かすためにはサスペンションセッティングの方向性が重要で……というように、やらなければならないことが山積みの状況下で、我々も必死に奮闘していました。

なんとかブリヂストンのホームである日本での初戦を終え、迎えた2週間後の第2戦南アフリカGP。ここで、事件は勃発しました。カネモトレーシングのグールベルグ選手が、速さを発揮できない原因がブリヂストンタイヤにあるとして不満を爆発。しかもそれを、メディアに対して発言していたのです。

当然ながら、各ライダーは勝つために走っています。そして、基本的には全員が自分の能力に対して自信のある状態。ですから、ライバルよりも遅かったときに、その要因がマシンのうちどこにあるのかを探す傾向にあります。この第2戦南アGPのグールベルグ選手は、予選12位、決勝11位とそれほど悪い結果ではなかったのですが、彼としてはもっと上にいけたという自信があったのでしょう。ちなみにこのレースでは、宇川選手がロッシ選手を抑えて優勝しました。

我々としては、グールベルグ選手が求める性能を発揮できるタイヤを供給できなかったのですから、悔しいけれどタイヤが悪いと指摘されることはしょうがないのですが、メディアを通じてそれを大々的に公表されるのは困ります。当時の彼はオランダ人ライダーのヒーロー的な存在で、とくにオランダのメディアは、「前年に時々鋭い走りを見せていた彼が活躍できないのは、ブリヂストンタイヤのせいだ」というようなことを書き立てていました。

これに強く反応したのは、ブリヂストンヨーロッパの首脳陣でした。欧州におけるロードレース世界選手権最高峰クラスの人気というのは揺るぎないものでしたから、そこにブリヂストンが参戦したことで欧州でのブランドイメージが向上すると期待していたのに、グールベルグ選手の発言により真逆の方向になりかけたわけですから、怒るのも当然。ブリヂストンヨーロッパから我々にクレームが出されました。「このような状況が続くようでは、ブリヂストンのブランドイメージを下げることになるので、MotoGPでの活動はやめて欲しい」という発言が、ブリヂストンヨーロッパのトップからあったのです。

2002年鈴鹿決勝、スタートシーン

ブリヂストンのMotoGPクラス挑戦が、地元の日本ではじまった。ゼッケン17がカネモトレーシングのユルゲン・ファンデン・グールベルグ選手。 最後尾一歩手前の20位に沈み、決勝はリタイア。この段階ですでに、うっ憤は溜まっていた。 ※タイトルカットは第3戦ヘレス

契約破棄を提案するほど、アーヴさんは追い込まれていた

アーヴ・カネモトさんが運営するカネモトレーシングとの契約には、タイヤについて誹謗中傷しないなどの項目も当然ながら盛り込まれていました。そこでアーヴさんに南アフリカGP終了直後に来日してもらい、ブリヂストンの弁護士を同席させて、グールベルグ選手の発言は完全な契約違反となるのでチームとして早急に問題を収束させるよう、話し合いの場を設けました。

アーヴさんは非常に真面目な性格なので、グールベルグ選手をコントロールできない状況に困り果てていました。この年のカネモトレーシングは、ブリヂストンもある程度の資金を提供していたとはいえ、メインスポンサーがない状態での参戦。その苦労に加えてグールベルグ問題が勃発したことで、アーヴさんは疲れ切っていたのだと思います。「シーズン途中でブリヂストンとカネモトレーシングの契約を破棄してくれ」という驚きの提案までありました。

「チームから一方的にライダーを解雇することはできないけど、チームがブリヂストンから切られたらレース活動ができないので、それを理由にライダーを解雇できる」というのが、アーヴさんのシナリオ。そんなことを思うほど、アーヴさんは追い込まれていたのでしょう。

結局、我々としてもいろいろ悩んだ末に下したのは、カネモトレーシングに対して警告書を送付するという処置。「君の発言が原因で、ブリヂストンからチームに対してこのような警告書が来てしまったから、これ以上はタイヤに対する不満を口外するな」と、その警告書を見せて注意してもらったのです。まあ、ライダーというのはあまり人の言うことを聞かないものですが、さすがのグールベルグ選手もそれ以降は少しおとなしくなりました。

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山田 宏

山田 宏

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ブリヂストンでタイヤ開発を経てレース部門へ。ロードレース世界選手権では1991年のWGP125ccクラスへのスポット参戦からMotoGPへのワンメイクタイヤ供給まですべてを統括した。その後は世界耐久選手権シリーズで、ブリヂストンサポートチームの初優勝、初タイトルを見届けた。2019年7月をもって定年退職。視線はモータースポーツの未来へ。