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山田宏の[タイヤで語るバイクとレース]Vol.13「参戦に向けた試練はライダー選びにあり」

  • 2020/3/10
ピットをスタートする青木宣篤

ブリヂストンがMotoGPでタイヤサプライヤーだった時代に総責任者を務め、2019年7月にブリヂストンを定年退職された山田宏さんが、かつてのタイヤ開発やレース業界について回想します。2001年、ロードレース世界選手権最高峰クラス参戦に向けてタイヤ開発テストを繰り返していたブリヂストン。山田さんは、早期の実戦テストにこだわっていました。

TEXT:Toru TAMIYA

実戦に行けるのか、行けないのか……最終判断の時!

チェコのブルノサーキットで、2001年8月27日から4日間のスケジュールで実施したテストで、我々は翌年からロードレース世界選手権(WGP)の最高峰クラス(2002年からはMotoGPクラスとなり、2006年までは4スト990ccと2スト500ccが混走なレギュレーション)に参戦するかの最終判断をすることになりました。1月から欧州の各サーキットで繰り返してきたテストは、このブルノで9回目。その後もスペインやイタリアやオーストラリアでのテストが控えていて、結果的に1年間で15回のテストを実施しましたが、参戦に向けた準備期間を考慮すると、8月末というのが本当にギリギリのタイミングでした。

このブルノテストでは、ラップタイムと持続性に関して独自の基準を設け、最終日のテスト走行でそれをクリアできたら翌年の参戦を決めることになっていました。具体的な設定数値は覚えていませんが、ラップタイムについては、前日の決勝レースデータを参考にした設定タイムをクリアできるかどうかというテストで、持続性については実際のレース距離(周回数)の2/3を走った段階でラップタイムの落ちが序盤に対して何秒以内とかいうような判断でした。

このときも、テストのためにさまざまな種類のタイヤを持ち込んでいましたが、最終判断に向けて3タイプのタイヤがピックアップされました。このうち最初にテストしたのは、コンパウンドの担当者が「もっとも自信がある」と言っていた仕様。ロングランテストが始まると、我々もピットレーンでタイムを確認し、1周ごとに一喜一憂という感じでした。ところが、序盤の数周はラップタイムがかなり速かったのに、すぐ落ちてしまいました。現場では「なんだよ~、話が違うじゃないか!」なんて声も上がり、がっかりしたのを覚えています。

とはいえ、残された2種類のタイヤに、ラップタイムと持続性の両方をクリアした仕様があり、これで翌年のMotoGPクラスに参戦する意向が決まりました。ライダー(伊藤真一選手と青木宣篤選手)に設定タイムを教えていたかどうかは覚えていませんが、このテストで翌年の動向が決まるということは伝えてあったので、走らせるほうもかなり緊張したと思います。これは通常のテストでも同じですが、用意していたマシンは1台だけなので、間違ってクラッシュしたらすべてが台無し。かといって、設定タイムがあるわけですから、マージンを大きく取りすぎたりコントロールしてラップタイムを安定させたりするわけにもいきません。もっとも、年間のテストを通じて転倒は1回あったかどうか。伊藤選手と青木選手のおかげで、テストが順調に進行できたので感謝しています。

ホームストレートを駆け抜ける伊藤真一

2001年5月、スペイン・ヘレスサーキットでのテスト走行に臨む伊藤真一選手。この年、ヨーロッパとオーストラリアのサーキットを使用したブリヂストンのテストは、計15回にも及んだ。

2002年からの参戦をブリヂストンとして決定したことで、そもそもハードスケジュールだった私はさらに忙しくなりました。8月末に決めて、翌年から参戦ということは、わずか半年でいろんな契約と手配を完結しなければなりません。まず、WGPの運営権利を所有するドルナスポーツから了解を得なければなりませんし、各方面の契約もこれまではテストに関することだけでしたから、翌年に向けて新たな契約を結ぶ必要があります。それらをクリアするのは、基本的にはすべて私の仕事。その一方で、9月以降もタイヤ開発テストはありましたし、GP125クラスの選手をサポートしていたことからWGPの各会場にも出向いていたので、いま振り返ってみてもいろんな記憶が曖昧なほど、仕事に追われた日々でした。

とはいえ、当時もドルナの会長だったカルメロ・エスペレータさんは、WGPの最高峰クラスに新しいコンペティターが参入することを歓迎してくれたことはよく覚えています。そもそもエスペレータさんは、「日本のバイクメーカーのおかげでレースができている」という、日本企業に対するリスペクトの気持ちがあり、新たに日本のタイヤメーカーが参入することに対していろいろ配慮してくれました。

モトGP参戦を告げる広告

2002年のMotoGPクラス(ロードレース世界選手権の最高峰)参戦を宣言する広告も制作され、ブリヂストン社内ばかりでなく一般のレースファンも、その新たな挑戦に期待を寄せることになった。

青木宣篤選手を現役復帰させたい、その望みは叶ったものの……

さて、2002年の参戦にあたり、ここまでテストチームの運営を担ってくれたアーヴ・カネモトさんとこれまでテストに使用させてもらってきたホンダ・NSR500というパッケージは継続したかったのですが、こちらも比較的スムーズに合意あるいは契約までの作業が進行。ところが、チームで走らせるライダーの選択は難航することになりました。ホンダレーシング(HRC)は、実戦で使用するためのマシン貸与に関して快諾してくれましたが、当然ながらそこにはいくつかの条件が……。その中にはライダーに関するものもあり、私が走らせたいと思っていた青木選手は、候補者リストの中に名前がありませんでした。私としては、なんとかして青木選手を走らせたかったのですが、いろいろな事情があり諦めざるを得なかったのです。そこで私は、HRCが推薦するライダーの中からユルゲン・ファンデン・グールベルグ選手を選択。これにより、ベストではなかったものの、マシンはNSR500、ライダーはグールベルグ選手、チーム運営はアーヴさんという参戦体制が決まりました。

一方で私は、これまで1年間テストライダーを務めてくれた青木選手が現役ライダーに戻れないものか思案していました。ブリヂストンのためにテストライダーとなったのに、ブリヂストンが実戦でのテストを開始するときにはWGPに戻って走れないという状況に、すごく申し訳なさを感じていたのですが、そんなときに浮上してきたのが、ケニー・ロバーツさんが運営してきたチームとの交渉でした。ケニーさんは当時、自身のチームで車両製作にも取り組んでいて、3気筒500ccマシンのモデナスKR3で1997年にスタートしたこのプロジェクトは、2001年から同じく3気筒500ccのプロトンKR3に発展。その1年目にマシンを走らせていたのが、翌年に我々のタイヤを履いてアーヴさんのチームで走ることになるグールベルグ選手だったのです。

はっきりとした経緯は覚えていないのですが、たぶんそのような背景から、私もケニーさんに青木選手を強くプッシュしたのだと思います。もちろん、タイヤは全面協力してサポートする、と……。結果的に、青木選手はこのチームKRからジェレミー・マクウィリアムス選手と一緒に参戦することになり、タイヤはブリヂストンを使用することで合意に至りました。

我々としては、走らせるチームやマシンの数が増えれば、それだけ多くのデータが集まり、開発のスピードが上がります。ましてやプロトンKR3は、NSR500とは大きくキャラクターが異なるマシン。好成績を残せるかという点については疑問が残るポテンシャルでしたが、それでもMotoGPクラスの参戦初年度に2チームと契約できたことは非常にラッキーでした。それと同時に私個人としては、青木選手をNSRに乗せてあげられなかったことは心残りでしたが、一方で現役として世界最高峰の舞台に復活できることになったことに対する安堵感のようなものもありました。

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山田 宏

山田 宏

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ブリヂストンでタイヤ開発を経てレース部門へ。ロードレース世界選手権では1991年のWGP125ccクラスへのスポット参戦からMotoGPへのワンメイクタイヤ供給まですべてを統括した。その後は世界耐久選手権シリーズで、ブリヂストンサポートチームの初優勝、初タイトルを見届けた。2019年7月をもって定年退職。視線はモータースポーツの未来へ。