日本人選手が大活躍する時代の最中で……

山田宏の[タイヤで語るバイクとレース]Vol.6「どん底へ向けて下降線。遠ざかるチャンピオン」

  • 2019/11/25

ブリヂストンがMotoGPでタイヤサプライヤーだった時代にその総責任者を務め、国内外に名を広く知られた山田宏さん。2019年7月にブリヂストンを定年退職された山田さんに、かつてのタイヤ開発やレース業界にまつわることを語ってもらいます。今回は、もしかしたら山田さんは思い出したくないかもしれない、ブリヂストンが低迷した苦しい時代の話。

TEXT: Toru TAMIYA

GP125では勝てても、GP250では活動縮小へ

坂田和人選手がシーズン途中でブリヂストンからダンロップにタイヤを変更するという、我々にとっては“大事件”が起きた1993年、彼が所属していたF.C.C.テクニカルスポーツにはもうひとり、新たな日本人ライダーが加入しました。それが辻村猛選手。全日本ロードレース選手権にフル参戦せず、藤井正和監督に大抜擢されて世界の舞台にやってきたスーパールーキーでした。

藤井監督の「すごいライダーを連れてきた!」という言葉の意味は、すぐに理解できました。開幕戦のオーストラリアGPこそ9位でしたが、第2戦マレーシアGPと第3戦日本GPと第4戦スペインGPで連続3位。そして第5戦オーストリアGPでは、坂田選手に競り勝って初優勝をマークしたのです。辻村選手はこの年、GP125でブリヂストン勢最上位のシリーズランキング3位を獲得。我々にとっても、翌年以降のチャンピオン獲得に向けて、再び期待が高まる状況でした。

1993年、1994年と2年連続でGP125クラス年間3位となった辻村猛選手。写真は1994年の日本GPで勝利を挙げたときのものだ(トップ写真も同じ)。

一方でGP250では、前年以上の苦戦というか、活動縮小の時期を迎えていました。前年の3名に対して、1993年の契約ライダーはイタリア人のマッシモ・ペナッキオリ選手のみ。ポイント獲得もできず、結果的にはGP125に活動は集中していました。同じ年、岡田忠之選手と原田哲也選手と青木宣篤選手が揃ってWGPにステップアップし、全日本GP250ではブリヂストンタイヤを履く宇川徹選手がチャンピオンを獲得。全日本では素晴らしい結果を残せていましたが、世界選手権の開催コースは日本と路面状況や環境などが異なることから、GP125では勝てても、タイヤの寄与度がより高いGP250では勝利なんてほど遠い状態でした。

それは翌年も改善されず、1994年のサポートライダーはドイツ人のアディ・スタドラー選手のみ。シーズンベストは11位でした。好成績を収められないことで、ブリヂストンを使いたいライダーやチームが現れず、使用する選手が少ないから開発も進まない……。そういう悪循環の中で、ワイルドカード枠で第3戦日本GPにスポット参戦した宇川選手(この年も全日本GP250のシリーズタイトルを獲得)が、3位表彰台に登壇しましたが、サーキット環境やチーム体制が大きく違う日本での成績は、海外勢にほとんど評価されることはありませんでした。

勝利は挙げるものの、かつての仲間が立ちはだかる

そんな1994年、GP125では2年目の辻村選手がメインの開発ライダーとなり、ブリヂストンは5名の選手をサポート。このうちのひとりは、スポット参戦だった眞子智実選手です。辻村選手はシーズン4勝を挙げましたが、年間ランキングは3位。我々はまたしてもチャンピオンに届きませんでした。この年、シリーズタイトルを獲得したのは坂田選手で、ランキング2位は上田昇選手。ブリヂストンがWGPに進出するきっかけをつくってくれた上田選手や、かつて一緒に開発を進めてきた坂田選手がその前に立ちはだかり、日本人選手のランキング上位独占という状況はうれしくもありましたが、タイヤメーカーのエンジニアとしては悔しい気持ちにも満ちていました。

1995年は、辻村選手がテクニカルスポーツに所属したままGP250にステップアップしてブリヂストンを使用。同じくテクニカルスポーツの眞子選手がレギュラー参戦となり、ピーター・エッテル選手やギャリー・マッコイ選手など6名が、GP125の契約ライダーとなりました。しかし優勝は、雨の第2戦マレーシアGPでマッコイ選手が挙げた1勝のみ。眞子選手は、3位表彰台に2度登壇してルーキー・オブ・ザ・イヤーを獲得しましたが、ランキングは8位でした。辻村選手は年間ランキング22位となっています。

1996年はGP125で5名、GP250で2名をサポート。GP125ではUGTヨーロッパチームに移籍した眞子選手が1勝を挙げてランキング3位でした。GP250では、前年に続いて辻村選手と、シーズン途中までホンダのマシンを使うイタリア系チームでセテ・ジベルナウ選手が使用。ジベルナウ選手は、シーズン途中で契約を解除した原田選手に代わり、第13戦カタルニアGPからヤマハのワークスマシンに乗ったので、終盤3戦は辻村選手のみがブリヂストンタイヤを使用するライダーになりました。辻村選手は前年よりも結果は上向きましたが、ランキングは12位でした。

1996年にシーズン1勝を挙げた眞子選手。

そして1997年、ブリヂストンにWGP参戦以来もっとも厳しい時期がやってきます。この年、辻村選手はタイヤをダンロップにスイッチ。これにより、GP250でブリヂストンを使用するライダーはひとりもいなくなり、WGPにおけるGP250用タイヤの実戦開発はストップしました。辻村選手が直接我々に言うことはありませんでしたが、実績のあるダンロップを使いたいというチームとしての判断があったのだと思います。才能のあるライダーとワークスに近い性能のマシンなのだから、もっと上位の成績が狙えるはずだという判断は理解できました。ブリヂストンをWGPに連れてきてくれた藤井監督にもチームにも、辛い決断をさせてしまったことが悔しくて情けなくて、涙の別れだったことを覚えています。

さらに、GP125でも最悪な状況を迎えます。前年あたりから、速いライダーがあまり使ってくれなくなっていたのですが、この年は眞子選手のみがブリヂストンを使用。しかしその眞子選手も、ムジェロでの第4戦イタリアGPから「ダンロップを使いたい」と……。ついにWGPでブリヂストンタイヤを装着するレギュラーライダーは、だれもいなくなりました。それが5月中旬の出来事ですから、我々には半年間の活動ブランクが発生してしまったのです。

ただし翌年以降に向けて、ブリヂストンには一筋、希望の光も見えていました。まあそのエピソードは、次回にたっぷり紹介しましょう。

セテ・ジベルナウ選手と再会した際に言われたのは……

ところで、1996年にジベルナウ選手がシーズン途中までブリヂストンタイヤを使用したという話をしましたが、私はそのときに彼が、とても的確にタイヤの評価をしてくれたことが印象に残っています。その後、ブリヂストンがMotoGPに進出してから初めてチャンピオンを獲得することになる前年の2006年に、ドゥカティワークスチームに移籍したジベルナウ選手と再び一緒に仕事をしました。ブリヂストンがMotoGPクラスのオフィシャルタイヤサプライヤーを終了した2015年の第7戦カタルニアGPで、久しぶりに再会。すでに彼はMotoGPを引退していましたが、家が近いことから遊びに来ていて、こんな話をしました。

「いやあ、ブリヂストンはMotoGPでチャンピオンまで、よくたどり着いたなあ。1996年にGP250で履いたときは、たいしたタイヤじゃなかったのに。でもあのときオマエが『ブリヂストンはいつか絶対、GP500のチャンピオンになるんだ』と言っていたことを覚えているよ」

自分ではまったく記憶にないのですが、下のカテゴリーですら大苦戦していた時代に、私はそんな壮大な夢を語っていたそうです。

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山田 宏

山田 宏

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ブリヂストンでタイヤ開発を経てレース部門へ。ロードレース世界選手権では1991年のWGP125ccクラスへのスポット参戦からMotoGPへのワンメイクタイヤ供給まですべてを統括した。その後は世界耐久選手権シリーズで、ブリヂストンサポートチームの初優勝、初タイトルを見届けた。2019年7月をもって定年退職。視線はモータースポーツの未来へ。