2007年、サポートライダーは倍近い10名に!

山田宏の[タイヤで語るバイクとレース]Vol.35「“頂点”に喰い込むファーストステップ!」

TEXT:Toru TAMIYA

ブリヂストンがMotoGP(ロードレース世界選手権)でタイヤサプライヤーだった時代に総責任者を務め、2019年7月にブリヂストンを定年退職された山田宏さんが、そのタイヤ開発やレースの裏舞台を振り返ります。MotoGPクラス参戦6年目となった2007年、ブリヂストンの契約ライダーは計10名に。サテライトチームへの供給にも着手するようになります。

ついにホンダのマシンにたどり着いた!

2006年には結果的にシーズン4勝を挙げ、いよいよブリヂストンにも王座を本気で狙えるポテンシャルがほぼ備わったと我々も実感したわけですが、その翌年というのは、MotoGPクラスが大きな変革を迎えるタイミングでした。ロードレース世界選手権の最高峰クラスはマシンが4スト化されて以降、最大排気量990ccというレギュレーションが設けられてきましたが、2007年から800ccに変更されたのです。もちろん、レース全体としてはこのことが最大のトピックでしたが、ブリヂストン陣営としてはそれに加えて、契約チームの増強によるこれまで以上の戦力アップということもポイントになりました。

800cc時代に突入する直前までの2年間、つまり2005~2006年シーズンのブリヂストンは、ドゥカティ、スズキ、カワサキの各ワークスチームをサポートして、計6名のライダーにタイヤを供給してきました。2007年はこれが5チーム10名に拡大されたのですが、その中でも大きな動きになったのは、ホンダ有力サテライトチームとの新規契約。2007年に向けて我々は、2006年のシーズン中盤からイタリアのグレシーニ・レーシング(またはチーム・グレシーニの名称)との交渉をスタートしました。

現役選手時代に世界選手権125ccクラスチャンピオンに2度輝いたチームオーナーのファウスト・グレシーニさんが、引退後の1997年に設立したこのチームは、2006年のMotoGPクラスにフォルトゥナ・ホンダとして参戦。この年にはマルコ・メランドリ選手が3勝、トニー・エリアス選手が1勝を挙げた、ワークスチームにも迫る実力を持つチームでした。

2007年、第3戦トルコGPで前年のチャンピオンである#1 ニッキー・ヘイデン選手と#33 マルコ・メランドリ選手。 [写真タップで拡大]

私は以前から、シリーズタイトルを獲得するためにはホンダのワークスチームと契約するのが確実と考えていました。ブリヂストンのMotoGPプロジェクトがスタートした直後からHRC(ホンダレーシング)に協力してもらっていたので、コンタクトできるだけの関係性はもちろんありました。そこで毎年7~8月ごろ、ホンダワークスチームの上層部に立ち話レベルで契約のことを持ちかけていたのですが、それまでは拒否されていました。もちろんそれは、ブリヂストンタイヤのパフォーマンスがそこまでに至っていないという判断からです。しかし2006年は、ドゥカティワークスチームのロリス・カピロッシ選手が、開幕戦優勝を皮切りにシーズン序盤の6戦で4度表彰台に登壇。他の選手も予選や決勝で上位勢に絡める速さを発揮していたことから、HRCにも興味を持ってもらうことができました。その結果、グレシーニさんを紹介してもらえることになったのです。

当時はワークスとサテライトの実力差が少ない時代。サテライトチームから参戦するライダーが優勝することも、珍しくない状況でした。そこで私としては、頂点であるホンダワークスチームとの契約をいきなり望むのではなく、サテライトチームで実績を積み上げ、それをワークスと契約するステップにしようと考えたのです。メーカーごとにマシンのキャラクターも異なるので、サテライトとはいえ同じホンダのマシンで戦うチームに供給してデータを蓄積することが、いずれワークスチームに供給できるようになったときにプラスとなるという思惑もありました。

私の記憶では、第9戦イギリスGPが開催された6月末(決勝日は7月2日)というかなり早めの段階で、グレシーニ・レーシングへと乗り込んでコンタクトを取りました。当時使われていたドニントンパークサーキットのパドックで、彼らが寝泊まりしているモーターホームを夜にいきなり訪問して話をしました。我々にとってラッキーだったのは、このチームでは2000~2003年に加藤大治郎選手が参戦していたことから、グレシーニさんは日本人に対して非常に友好的だったこと。加えて、イタリア人の一般的なイメージとは異なり、すごく誠実で正直な人物だったことです。また、彼とともに二人三脚でチームを切り盛りしていたマネージャーのカルロ・メルリニさんも、人として信頼できる印象。このため、その後の交渉は比較的スムーズに進行しました。

ドゥカティ、スズキ、カワサキのワークスチームは引き続きBSをチョイス

とはいえ、契約の最終合意に至ったのは10月中旬に開催された第16戦ポルトガルGPの会場だったので、それなりに多くの時間を要しました。HRCが最初の接点こそ設けてくれましたが、HRC側からの強制力は一切なく、タイヤメーカーの選択はチームに一任されていました。サテライトチームにとっては、ワークスチーム以上にスポンサー獲得が重要なテーマ。そのためには、好成績をマークして企業などにアピールする必要があります。だから、成績を左右するタイヤメーカーの選択に、グレシーニさんたちが極めて慎重になっていたことは間違いありません。それでも、第12戦チェコGPや第15戦日本GPでカピロッシ選手が勝利を収めたことなどから、ブリヂストンタイヤが勝てるレベルにあると最終的に理解してくれたのです。

こうして、こちらの主導により参戦していたMotoGPプロジェクト初期段階3年間の最後となった2004年以来3年ぶりに、ホンダのマシンにブリヂストンのタイヤを装着して戦えることが決まりました。翌年のチーム名は、スポンサーの撤退によりホンダ・グレシーニになりましたが、ライダーはメランドリ選手とエリアス選手が継続採用されました。

これに加えて、前年に引き続きドゥカティ、スズキ、カワサキのワークスチームはブリヂストンタイヤを継続使用。ドゥカティは3年契約でそのままでしたし、スズキとカワサキは単年契約ながらタイヤ性能に比較的満足してくれていたので、スムーズに話が進みました。2007年の布陣は、ドゥカティワークスがホンダから移籍してきたケーシー・ストーナー選手と継続参戦のカピロッシ選手、スズキワークスが前年から変わらずジョン・ホプキンス選手とクリス・バーミューレン選手、カワサキワークスが前年までカワサキのテストライダーを務めていたオリビエ・ジャック選手と継続参戦のランディ・ド・ピュニエ選手となりました。ただしジャック選手は、度重なるケガの影響でシーズン途中に引退を表明し、その後はアンソニー・ウエスト選手がその代役を務めました。

さらにこのシーズン、ドゥカティのサテライトチームとして活動していたプラマック・ダンティンが、それまでのダンロップからブリヂストンにタイヤをスイッチ。このチームは、2003~2004年に玉田誠選手が所属してホンダのマシンで参戦していたプラマック・レーシング(2003年はプラマック・ホンダ、2004年はキャメル・ホンダのチーム名)が母体で、玉田選手が抜けた2005年にマシンをドゥカティにスイッチ。このときにブリヂストンを継続採用するという話もあったのですが、最終的には現場のマネージャーとライダーの意向で、ダンロップがチョイスされたのです。しかし2007年に向けて、プラマックの社長がまたブリヂストンと組みたいと言ってくれたことに加え、ドゥカティ側からの要請もあり、再び契約することになったのです。

ちなみにプラマックの社長、パオロ・カンピノーテ氏とは、2002年からずっと懇意にさせていただきました。ドゥカティ本隊としては、サテライトチームで経験を積ませたライダーを、いずれワークスチームに引き上げるという道筋をつくろうとしていて、そのためにはワークスとサテライトで同じタイヤを使うほうがよいと判断したようです。2007年のライダーは、アレックス・バロス選手とアレックス・ホフマン選手でした。

グレシーニだけでなくプラマックも追加されることで、ブリヂストンの契約ライダーは2006年の6名から2007年には10名へと一気に増えました。得られるデータが増えることでタイヤの開発にも有利に働くので、プラマックからの要請にも応えることに決めたのですが、前年比1.7倍のライダーにタイヤを供給するために生産体制やトレーラー、サービススタッフの増強を短時間で準備しなければならず、かなり忙しいシーズンオフでした。

ドゥカティワークスは#65 ロリス・カピロッシ選手、#27 ケイシー・ストーナー選手のラインナップ。 [写真タップで拡大]


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