1992年はGP125で4勝も暗雲が……

山田宏の[タイヤで語るバイクとレース]Vol.5「初年度3勝に膨らむ夢と、立ちはだかりはじめた現実の壁」

ブリヂストンがMotoGPでタイヤサプライヤーだった時代にその総責任者を務め、国内外にその名を広く知られた山田宏さん。2019年7月にブリヂストンを定年退職された山田さんに、かつてのタイヤ開発やレース業界にまつわる表や裏の話をあれこれ語ってもらいます。今回は、世界選手権に乗り込んだ山田さんたちブリヂストンに訪れた試練について。

TEXT: Toru TAMIYA

何を食べたかも覚えていないほどの目まぐるしさ

ブリヂストンがロードレース世界選手権(WGP)での挑戦をスタートした1991年は、そのきっかけとなったテクニカルスポーツ(現在のTSR)の上田昇選手に加えて、レーシングサービス業務を請け負ってくれたブリヂストンドイツの要請で、ドイツ人のピーター・エッテル選手をサポートして、GP125を中心に活動していました。結果的には上田選手が2勝、エッテル選手が1勝で、ブリヂストンとしては3勝(GP125は全13戦)。参戦初年度ということを考えれば、まずまず満足できる結果でした。

その一方で、じつはブリヂストンタイヤはGP250にもスポット参戦しました。ライダーはJhaレーシングの小園勝義選手。全日本ロードレース選手権でも、ブリヂストンタイヤで戦ってくれていたライダーです。ブリヂストンとしては、1987年にワイルドカード枠で世界選手権日本GPのGP250に参戦した小林大選手が優勝。全日本では1989~1991年まで連続で、岡田忠之選手がGP250クラスのチャンピオンを獲得していたので、GP250タイヤの性能は悪くないという認識でした。WGPに参戦を開始してみて、より上のクラスで戦いたいという想いが少しずつ芽生えてきたこともあり、1991年のシーズン中盤からは、フル参戦したGP125よりもスポット参戦だったGP250のほうが記憶に残っています。

1992年、ピットにてライダーのコメントを収集する山田さん。

記憶が曖昧ということで言えば、現在の私はかなりの料理好きとしてもレース関係者などに知られていますが、初年度のWGPは食べ物がどうのなんていう余裕はほとんどなく、サーキットで何を食べたかなんていう記憶はほとんどありません。唯一覚えているのは、あれはたしかミサノでの第5戦イタリアGPだったと思うのですが、テクニカルスポーツのキャンパーで白飯と味噌汁を食べさせてもらい、あまりの美味さに感激したこと。たぶん、日本を離れてから2週間くらいは経っていたんだと思います。とはいえあれも、レースが終了した翌日だったはずですが……。

MotoGPでも続けた「サービスロードで観察する」こと

そもそもサーキットにいる間は、それほどゆっくりできる時間があったわけでなく、とくに我々のメインのクラスとなるGP125の走行時は、コースサイドまで歩いてマシンの挙動をチェックすることも多くありました。当時のGP125用タイヤは、チャタリングや跳ねるという問題が発生することも多く、プラクティス中に上田選手から「あのコーナーで跳ねちゃって……」なんて聞くと、次の走行時はそこまで行って、藤井正和監督と一緒に上田選手の走りを分析するなんてこともありました。コースサイドでマシンの挙動を見るというのは、MotoGPになってからも続けていました。もっとも、スペインのヘレスサーキットなんかで、決勝をコースサイドのサービスロードで見ていると、レース終了と同時に爆竹やら石やらが飛んできて、身の危険すら感じるほどでしたけどね!

1992年は、GP125のエツィオ・ジャノーラ選手(#16)とガブリエーレ・デッビア選手(#4)もサポート。

1991年に3勝を挙げたことで、翌年はGP125で年間タイトルを獲得するという、明確な目標が生まれました。しかし、上田選手はチーム・ピレリに移籍。テクニカルスポーツには代わりに、2年目のWGPフル参戦となる坂田和人選手が加入しました。その他、エツィオ・ジャノーラ選手とガブリエーレ・デッビア選手という、速いイタリア人を擁するイタリアのチームをサポート。この年はGP125で5名、GP250では3名と、スポット参戦の小園選手を含めても3名ほどだった前年と比べて、サポートライダーは倍増しました。これによりレーシングサービスの体制は、それまでの商用バンから、日本の4トンサイズに相当するトラックでキャンピングトレーラーをけん引した転戦スタイルとなりました。といってもスタッフは、前回のコラムで紹介したトーマス・ショルツと私、そして状況に応じてアルバイトが1名。ライバルメーカーと比べたら、やはり比べ物にならないくらい小規模でした。

前年の商用バンから、1992年はトラック+キャンパーに設備がグレードアップ。

その1992年は、GP125でジャノーラ選手が4勝。前年よりも1勝多くなりましたが、ランキング最高位はジャノーラ選手の4位で、チャンピオンには届きませんでした。さらに、3名が参戦(このうち小園選手はこの年もスポット参戦)したGP250では、パオロ・カソリ選手が3ポイントを獲得しただけに終わり、GP250では完全に苦戦しました。しかしそれよりなにより、坂田選手が優勝どころか表彰台登壇も果たせなかったことが、私にとっても辛い状況でした。坂田選手は、非常に感覚が優れた繊細なライダー。前年まではダンロップを使用していて、とくにフロントタイヤのフィーリングが大きく異なることに違和感を覚えていました。

坂田選手の要望に応えきれなかった悔しさ

そして坂田選手とブリヂストンタイヤのマッチングに関する問題は、1993年にさらに大きくなります。その年も、坂田選手はテクニカルスポーツからGP125に参戦。開幕戦のオーストラリアGPでいきなり2位に入賞して表彰台に上がると、第2戦マレーシアGPと第3戦日本GPでも連続2位、そして若井伸之選手の悲しい事故死があった第4戦スペインGPで、遂に優勝を果たしました。ところが第5戦以降、リタイアした第8戦ヨーロッパGPを除いて、第9戦サンマリノGPまで坂田選手はずっと2位。この状況が、坂田選手に驚くような決断をさせました。それは、「ライバルメーカーであるダンロップのタイヤを使いたい」という要求です。普通なら2位でよかったと思うでしょうが、あの時の坂田選手は何度も同じダーク・ラウディス選手に負け続けていて、そのことに対する悔しさが非常に大きかったのだと思います。

その事件が勃発したのは、第10戦イギリスGPでのことでした。もちろん、坂田選手のダンロップ使用に対して藤井監督は猛反対。「うちはチームとしてブリヂストンと契約しているのだから、どんな理由があってもそんなことは許されない。坂田がどうしても他社のタイヤを使うというなら、うちのチームでは走らせない!」と藤井監督は宣言しました。しかし、プラクティスを走った後にタイヤが原因で坂田選手がリタイアしたら、ブリヂストンとしても望ましい状況ではないですし、いくら契約があるからとはいえ、将来あるライダーの可能性を我々が潰すのも……と、私は日本に何度も電話をして、会社といろいろ相談しました。その結果、最終的に坂田選手がダンロップタイヤを装着することを認めて、チームが入手したダンロップタイヤを、メカニックがメーカーロゴをバフで削って使用することになりました。坂田選手はそのレースも2位。私のもとには日本と長時間の国際電話による十何万円の請求書が残りましたが、そんなことよりなにより、ずっと坂田選手のフィーリングに合うタイヤの開発を続けてきたのに、最後までその要望に応えられるタイヤがつくれなかった悔しさのほうが強烈に残ったのです。

あのころの坂田選手は、とにかくこだわりが強く、セッティングなどにしても納得するまで徹底的にやるので、チームやメカニックも大変だったと思います。しかし彼がすごかったのは、人一倍の研究熱心さを持ち、彼の要望でなにかを変更したときなどには、必ず結果を出すということでした。その姿勢が、1994年と1998年の世界チャンピオンにつながったのでしょう。

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