バイクやライディングスタイルでタイヤの評価は大きく変わる

山田宏の[タイヤで語るバイクとレース]Vol.3「1990年、初めてレーシングスリックに携わる!」

ブリヂストンがMotoGPでタイヤサプライヤーだった時代に、その総責任者として活躍。関係者だけでなく一般のファンにも広く知られた山田宏さんに、かつてのタイヤ開発やレース業界にまつわる話を、毎回たっぷり語ってもらいます。今回は、それまで公道用タイヤの試験を担当していた山田さんが、ロードレースの分野に踏み込んだ1990年の話。

TEXT: Toru TAMIYA

「チャンピオンを獲ったタイヤなのだから、悪いはずは……」

1990年に、ブリヂストンが全日本ロードレース選手権のサポートを強化したことを受けて、私は新たにレース用タイヤの設計に携わるようになりました。活動の中心となったのはGP250。私はそれ以前にも、溝付きのいわゆるSPタイヤを担当したことはあったのですが、スリックタイヤはこのときが初めてでした。当時の業務内容としては、技術者としてレーシングライダーのコメントを聞いて理解し、それをもとにタイヤ評価をして、次につくるタイヤの仕様を決めるというのがメイン。その仕様に基づいて、開発チームが新たなタイヤを製造していました。その頃は、ライダーのフィーリングを聞いて「この部分の剛性が不足しているな」とか、「コンパウンドが柔らかすぎだな」とか、感性に頼った部分が多かったです。

1990年の全日本GP250は、前年にホンダ・サテライトチームのキャビンレーシングでシリーズタイトルを獲得した岡田忠之選手がTEAM HRCに入って、青木宣篤選手がカップヌードル-ホンダで参戦し、田口益充選手や宇田川勉選手がエンデュランス・レーシングチームにいて、彼らがホンダのNSR250に乗っていました。そこにヤマハからリクエストが来て、TZ250の難波恭司選手も加わり、この5名を中心にサポートすることになりました。

ところが当初、難波選手からは「こんなタイヤでは速く走れません」と……。それを聞いたうちの設計者たちは、チャンピオンを獲ったタイヤなのだから悪いはずはないと考えていましたが、私は難波選手のコメントを聞いていて、このタイヤはヤマハのTZ250に合わないということに気づきました。岡田選手のNSR250はパワーがあるため、コーナーを小回りしてマシンをすぐに起こし、加速重視で乗るのがセオリー。当時のキャンバー角が何度くらいだったかは忘れましたが、例えば最大50度だとしたら、40度のときに接地面積が大きくてトラクションが稼げるタイヤで、50度になると接地面積が極端に減るタイヤだったわけです。

ところがTZ250は、コーナリング速度で勝負する乗り方が必要。つまり50度(あくまでも仮の数字です)での接地面を大きくし、横力を出してスピードが稼げないと、速く走れないわけです。全キャンバー域で接地面積を大きくするのは難しいので、岡田選手は最大キャンバー角での横力を犠牲にしても、少し起きたところでのトラクションを重視したタイヤ形状を好んだのです。もちろんその後、難波選手の要望に対応したニュータイヤを投入していきましたが、バイクやライディングスタイルによってもタイヤの評価は大きく変わるものだということを、あのときに実感しました。公道用タイヤの試験をやっているときにもこういう経験はしてきましたが、レースほど顕著に結果が表れることはありませんでした。

1990年の全日本。手前がTZ250の難波恭司選手、奥がNSR250の田口益充選手。

毎レースのように新しいスペックのタイヤを持ち込む

現在の全日本ロードや鈴鹿8耐などでは、レースウィークに入るまでの段階で、使用するタイヤが2種類とかその程度に絞られていることがほとんどなのですが、当時はどんどん新しいスペックのタイヤを持ち込んでいました。現在だったらそんなことは絶対にありませんが、初めて走らせるようなタイヤもレースウィークに投入するような状態。少しでも速く走れるタイヤを見つけるべく、気温や路面温度やラップタイムやライダーのコメントなどを、とにかく細かくチェックしていたし、タイヤの種類が多いことから、現場にいる技術者としての裁量はかなり求められていました。

ちなみにその当時から、スリックタイヤのコンパウンドを設計する人というのは、構造を開発する設計者とはまた別にいました。ゴムというのは化学の世界で、本当に難しい分野なのですが、一方でタイヤにとっては超重要な要素。そのため、コンパウンド専任の開発者も帯同し、毎回のように新しいゴムを投入していました。もちろん、これとは別にタイヤの構造や形状も進化させているので、それらを組み合わせたタイヤを、レーシングライダーが実走で評価することの繰り返しです。

あの頃のレーシングチームというのはとにかくピリピリしていて、とくにHRCのピットなんかは、とてつもなく張り詰めた空気。しかもホンダというのは、評価や打ち合わせなどを実施したら、次に誰が何をやるかということを明確にする傾向にあり、レースで勝ったときでさえ、次回に向けた課題を設定するようなメーカーです。負けた後の反省会で、タイヤが悪いなんて話になったときには、それはもう大変です。だからレースに携わるようになって初めて、本当の意味で仕事に対して大きなプレッシャーを感じるようになりました。

岡田忠之選手(#1)と原田哲也選手(#4)のバトルに日本中が熱狂した時代。

大変なプレッシャーと、忘れられない日

ずっと忘れられないエピソードがあって、あれはスポーツランドSUGOでの全日本ロードレース選手権。ブリヂストンタイヤを履いていた岡田選手は、原田哲也選手とチャンピオン争いをしていて、条件は忘れてしまいましたが、とにかく筑波サーキットでの最終戦を前に岡田選手のチャンピオンが決まる可能性がある状態でした。岡田選手というのはとてもさっぱりした性格で、最後は「自分が何とかするから」というプロ意識の高いライダー。だからいつも、多数ある中から決勝で履くタイヤを、「山田さん、決めてください」と言うんです。よいほうに解釈すれば、それだけ信頼してくれていたということですが、チャンピオン争いのタイヤを私が決めるというのは、それはもう大変なプレッシャーでした。

そのレースは結局、岡田選手がトップに立ってリードしていたのに、3コーナーでクラッシュ。レース後、「タイヤは問題ありませんでしたよ」と言ってくれましたが、私もライダーと同じように悔しくて、悔しくて……。今でも、あれがいつの日だったか覚えています。1990年10月7日が決勝日。まあ、その日を忘れようもないのには負けた悔しさ以外の理由もあって、それで落ち込んでいるところに連絡が来て、「無事に生まれました」と……。その日は、長女の誕生日なんです! 仙台駅から病院へ直行して、娘と対面したのを覚えています。

結局、岡田選手は最終戦で勝って、シリーズタイトルを防衛したわけですが、その年そしてその後も、岡田選手と原田選手のバトルは本当にスゴかった。同着なんてことまでありましたから。そういう、本人だけでなくファンや関係者みんなが痺れるようなレースで、「山田さん、タイヤ決めて」ですから。いつだったか忘れましたが、前日に酒を飲んでもないのに、決勝日の朝にプレッシャーで吐いたことも……。自分は精神的に強いほうと思っていたのですが、レーシングライダーやチームやメーカーが背負っているものを感じた結果だと思います。レースに向けての組み立ての中で、次のテストタイヤを瞬時に判断しなくてはならず、現場の担当者に権限が与えられる。苦しいことが多い反面、勝った時は一緒に喜び合い感謝される。だからこそ、レースの仕事というのはおもしろいんですけどね。

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