玉田誠選手、まさかのBS離脱!

山田宏の[タイヤで語るバイクとレース]Vol.28「イタリアンに悩まされた2005年前半戦」

  • 2020/10/25

ブリヂストンがMotoGP(ロードレース世界選手権)でタイヤサプライヤーだった時代に総責任者を務め、2019年7月にブリヂストンを定年退職された山田宏さんが、そのタイヤ開発やレースを回想します。MotoGPクラス参戦4年目となった2005年に向けて、ブリヂストンはドゥカティのワークスチームと契約。その一方で、継続を望んだ玉田誠選手との契約は……。

スズキ、カワサキ、ドゥカティの3ワークスチームと契約

ドゥカティが加わったことで、ブリヂストンは2005年のロードレース世界選手権最高峰クラス(MotoGP)で、3つのワークスチームと契約することになりました。チーム・スズキMotoGPがケニー・ロバーツJr選手とジョン・ホプキンス選手、カワサキ・レーシングチームが中野真矢選手とアレックス・ホフマン選手、ドゥカティ・マルボロチームがロリス・カピロッシ選手とカルロス・チェカ選手という布陣です。ところが、それまで2年間サポートしてきた玉田誠選手との契約は、残念ながら打ち切りとなってしまいました。

2004年の第7戦リオGPで自身およびブリヂストンにとってのMotoGPクラス初優勝を達成し、第12戦日本GPで2勝目を挙げた玉田選手に、私はタイトルを獲得するライダーとしての十分なポテンシャルを感じていました。玉田選手とともにMotoGPクラスでチャンピオンになるというのが、2004年段階で描いた私のプラン。これは、2002年秋に玉田選手と契約したときから彼のお母様とも話していた夢でした。しかし、2005年に向けて玉田選手のチーム(2004年当時はキャメル・ホンダ)と交渉をスタートしたところ、「ライダーがミシュランを使いたがっている」という話が浮上。それは、2004年夏ごろのことでした。

玉田選手というのはとても自信家で、それが彼の長所でもありました。7月第1週のリオGPが開催されたネルソン・ピケ・サーキットは、なぜかブリヂストンにとって相性の良いコースでしたが、好成績に対して「タイヤのおかげ」と言われたことが、面白くなかったのかもしれません。2004年というのは、王者として君臨していたバレンティーノ・ロッシ選手がホンダからヤマハに移籍した年でしたが、玉田選手としてはロッシ選手あるいは母体こそ違うものの同じチーム名称のキャメル・ホンダから参戦していたマックス・ビアッジ選手と同一銘柄のタイヤを履いて、自分の実力を証明したいという気持ちもあったようです。また、我々のタイヤは性能が向上してきたのですが、まだまだミシュランと比べると、どのコースや気温でも性能が発揮できるという安定性には欠けていたのも事実で、タイトルを取るには安定したタイヤのほうが良いと判断したのかもしれません。

しかし我々としては、そう簡単に諦められるようなレベルのライダーではありません。そのため、10月第2週に開催されたマレーシアGPのときには直接本人と打ち合わせして、「我々ともう1年一緒に戦ってほしい」とリクエストしました。しかしその返答は「はい」でも「いいえ」でもなく、「チームが決めることなので……」というものでした。結局、2005年の玉田選手は前年までプラマック・レーシング(2004年はキャメル・ホンダのうち玉田選手の母体)でチームマネージャーを務めていたジャンルカ・モンティロンが代表を務めるJIRコニカミノルタ・ホンダという新チームから、ミシュランタイヤを履いて参戦。結局、タイヤ変更について本当の理由を聞いたわけではないのですが、我々は信頼を得ることができず、玉田選手との挑戦はわずか2年間で終了となったのです。

2005年第9戦イギリスGPで7位に入った時の玉田誠選手。フロントフェンダーにはミシュランのロゴが……。

ムジェロでは月2回のペースでテスト

こうして迎えたMotoGP参戦4年目、ブリヂストンはシーズン前からかなりのタイヤテストを実施。これは、ドゥカティワークスと契約したことが大きく影響していました。ドゥカティは当初の契約条件として、タイヤテストチームの設立を盛り込んでいて、我々はその要望に応えました。ドゥカティとの初テストは、2004年シーズン終了後の11月中旬、スペインのヘレスサーキットで実施。ドゥカティのパワフルで独創的な車体のマシンで、我々のタイヤがどのような評価をされるのか、非常に興味がありました。

このときのタイヤは2004年シーズンで使用した数種類のベースタイヤでしたが、カピロッシ選手の第一声は「かなり良いじゃないか!」だったので、安心したのを覚えています。しかし当然ながら、ペースが上がってくればいろいろと要望が出てくるもの。そこからどれだけの短期間で改良できるかが勝負です。2005年に入ってから、ドゥカティのホームコースであるイタリアのムジェロサーキットでは月2回くらいのペースで、さらにブリヂストンとして他のコースでもテストを重ねました。ところが2005年の前半戦は、スズキカワサキのチームを含めて苦戦続き。前年には2勝を挙げたのに、表彰台圏内でゴールすることすらできませんでした。

2005年開幕戦ヘレスにて。左はロリス・カピロッシ選手で、右はドゥカティコルセ代表(当時)のクラウディオ・ドメニカーリさん。現ドゥカティCEOだ。

第3戦中国GPでは、ホフマン選手の代役として参戦したカワサキのオリビエ・ジャック選手が、トップのロッシ選手を僅差で追って2位に入っていますが、これはかなりの雨量があったウェットレースでの成績。レース序盤にはロバーツJr選手がトップを走行するなどの活躍はできたのですが、我々が本当に求めていたのはドライコンディションでの好成績でした。ただしレインタイヤに関しては、前年の不評を受けてこのシーズンに向けてパターンから変更したばかり。そのことを考えると、いきなり結果を残せたわけですし、代役選手が2位に入ったことで「ブリヂストンのレインタイヤはスゴい!」と評価も急上昇しました。

ちなみにレインタイヤの場合、改良によって大きく性能が変化するのはまずコンパウンド。そしてもちろんパターンです。ちょうどこの年あたりから、レインタイヤのパターンはそれ以前のブロック形状に近いものから、溝が流れるような現代的デザインに変更しました。以前のブロックパターン風は水を切っていくイメージで確立されたものでしたが、コンピュータによる解析などから、エッジ効果は高いものの摩耗に対しては弱いという判断になりました。ただし、レインタイヤの評価というのは非常に難しいものがあります。というのも、どれくらいの雨量だとかレース中に路面の状況がどう変化するかとかは、その時々で毎回違うため。条件の設定がとても難しいんです。とはいえ、散水設備のあるコースでのテストなどを実施した結果により、大きな飛躍を遂げられたのがこの年でした。

カワサキワークスの中野真矢選手。写真は開幕前のテスト時のものだ。

第11戦チェコGP以降、好成績が出はじめた

しかしドライコンディションでのレースでは、思うような成績が残せないレースが続きました。ドゥカティと組んでわかったのは、やはり事前に予想していたようにドゥカティは他社のマシンとはかなり特性が異なるということ。そして、頻繁にタイヤテストを繰り返すことでさまざまなことがわかる反面、今度はいろんな細かい改良に手を出したくなりやすいということでした。そういう意味で、2005年の前半戦というのはドゥカティにかき回されていたとも言えます。トップスピードで他メーカーに勝るドゥカティのマシンに合うタイヤの仕様について、我々にも迷いがありました。第5戦イタリアGPではカピロッシ選手が3位で表彰台に上がり、チェカ選手も5位に入賞しましたが、これはドゥカティのホームコースであるムジェロでしたし……。

ようやくドライコンディションでの成績が上向いてきたのは、シーズンが後半に入った第11戦チェコGP以降。このチェコGPでカピロッシ選手が、追い上げのレースで最後はトップに迫る2位に入ると、続く第12戦日本GPでシーズン初優勝。さらに第13戦マレーシアGPで連勝を記録し、カピロッシ選手は全17戦のシリーズでランキング6位となりました。日本GPではチェカ選手が4位でホプキンス選手が5位、マレーシアGPや第15戦オーストラリアGPではチェカ選手が3位表彰台に立つなど、カピロッシ選手以外も好成績をマークできるようになりました。

スズキの#21ジョン・ホプキンス選手。写真は開幕前テスト時のもの。

もちろん、このシーズン後半に向けてタイヤの改良も続けていましたが、大がかりな仕様変更があったわけではなく、どちらかというとライダーやチームがブリヂストンタイヤの特性に慣れてきたというのが、成績向上の要因だったと感じています。またカピロッシ選手の場合は、彼が気分屋……というかポジティブ思考になったときの強さがピカイチだったことも大きいでしょう。ツインリンクもてぎでは、2003年のパシフィックGPで玉田選手が幻の3位フィニッシュを果たし、2004年の日本GPでは優勝。当時すでに“もてぎスペシャル”というネーミングは存在していたと思いますが、「ブリヂストンはもてぎで強い!」とカピロッシ選手は信じていて、その意識が大きくプラスに働いたに違いありません。

日本GPにて、#3マックス・ビアッジ選手を従える#65ロリス・カピロッシ選手。

日本GP表彰台。左から、2位ビアッジ選手、優勝カピロッシ選手、3位には玉田誠選手が入った。

TEXT:Toru TAMIYA
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ブリヂストンでタイヤ開発を経てレース部門へ。ロードレース世界選手権では1991年のWGP125ccクラスへのスポット参戦からMotoGPへのワンメイクタイヤ供給まですべてを統括した。その後は世界耐久選手権シリーズで、ブリヂストンサポートチームの初優勝、初タイトルを見届けた。2019年7月をもって定年退職。視線はモータースポーツの未来へ。