初めて本気で夢見たシリーズタイトル獲得

山田宏の[タイヤで語るバイクとレース]Vol.31「あのクラッシュさえなければ……」

TEXT:Toru TAMIYA

ブリヂストンがMotoGP(ロードレース世界選手権)でタイヤサプライヤーだった時代に総責任者を務め、2019年7月にブリヂストンを定年退職された山田宏さんが、そのタイヤ開発やレースを回想します。ブリヂストンのMotoGPクラス参戦5年目となった2006年、ブリヂストンはシーズン序盤から好成績を連発。ミシュランと肩を並べはじめたのですが……。

年間タイトルが射程圏内になること、そんな結果が求められた2006年

ブリヂストンとしてMotoGP参戦5年目となった2006年は、前年と同じくドゥカティ、スズキ、カワサキのワークスチームにタイヤを供給することになりました。ドゥカティは継続起用のロリス・カピロッシ選手とホンダから移籍してきたセテ・ジベルナウ選手、スズキは同チーム4年目のジョン・ホプキンス選手と前年までホンダのマシンでスーパーバイク世界選手権に参戦していたクリス・バーミューレン選手、カワサキはこのチームで3年目となる中野真矢選手と250ccクラスからMotoGPにステップアップしてきたランディ・ド・ピュニエ選手という布陣でした。

思い返せば、2000年6月20日の経営会議にロードレース世界選手権の参戦計画を提出したとき、私は5ヵ年計画を提案。その内容は、2001年に開発をスタートして、2005年にシリーズタイトルを獲得するというものでした。この計画どおりに進んでいれば、前年にチャンピオン……だったわけですが、現実はそれほど甘くありません。もちろん私も、参戦計画を会社に提出する段階で、わずか5年では難しいだろうという気持ちのほうが強かったわけですが、とはいえそろそろシリーズタイトルが射程圏内になるような結果を残すことが求められていたのが2006年でした。

この年は、シーズン開幕前にMotoGPチームの連盟であるIRTA(インターナショナル・ロードレース・ チーム・アソシエーション)によるテストが計12日も実施され、さらにレース後の事後テストも多く組まれていました。加えて我々は、ドゥカティとの契約によりプライベートテストも多数実施。これらにより、タイヤ開発は順調に進んでいきました。ちなみにプライベートテストに関しては、テストライダーとして伊藤真一選手も起用。レース開催コースでのテストが禁止されていたことから、イタリアのバレルンガサーキットやフランスのポールリカールサーキットなどを走行しました。ポールリカールには散水設備もあったので、ウェットでのテストも何度か実施したと記憶しています。

開幕を目前に控えたIRTAテストでは、ドゥカティのカピロッシ選手とジベルナウ選手が、ベストラップタイムでワン・ツーを記録。カワサキの中野選手が3番手、ド・ピュニエ選手が6番手をマークしたテストもあり、ブリヂストンとしてはシーズンに向けてかなり期待が持てる状態でした。そして迎えたスペイン・ヘレスサーキットでの開幕戦では、カピロッシ選手が優勝。シーズンオフの好調を維持して、幸先のよいスタートを切ることができたのです。

前年まで、MotoGPクラスにおけるブリヂストンの勝利はブラジル、日本×2、マレーシアとすべてヨーロッパ以外のサーキット。このうちブラジルは最大のライバルだったミシュランも事前テストを実施しておらず、日本はブリヂストンのホームなのでこちら側のみさまざまな対応が可能で、マレーシアのセパンサーキットでは何度もIRTAテストが実施されていたことから我々にもある程度のデータが揃っていました。これらの背景を考えると、我々にも勝てる可能性が十分にあったわけです。しかしヨーロッパのサーキットに関しては、ミシュランのほうが保有するデータが豊富。そんなヨーロッパのレースで、カピロッシ選手がポールトゥウインを達成して、さらに予選ではジベルナウ選手が2番手、中野選手が3番手に入って決勝スタートのフロントローを独占できたのです。

レースではカピロッシ選手がスタートから飛び出し、2周目にファステストラップを出して、4周目には約2秒のリードを得てレースを終始コントロールするという、圧倒的な勝利でした。ブリヂストンとしてはMotoGP5勝目でしたが、このヨーロッパでの開幕戦優勝は大きな意味を持っていました。

セテ・ジベルナウ選手。1997年に500ccクラスへとステップアップし、レプソルホンダ、スズキファクトリーチーム、ホンダサテライトのテレフォニカ・モビスター・ホンダを経て2006年よりドゥカティへ。 [写真タップで拡大]

ロリス・カピロッシ選手。1995年にホンダから500ccクラスへ昇格。1997年に250ccクラスへと戻ったが、2000年から再び最高峰クラスへ。2003年からドゥカティを駆り、2005年からブリヂストンユーザーになった。 [写真タップで拡大]

勢いづいた矢先に……

そしてこの開幕戦優勝をきっかけに、カピロッシ選手はシーズン序盤から勢いづき、好成績をマークします。第2戦カタールGPでは3位入賞、第3戦トルコGPは6位で第4戦中国GPは8位と若干リズムを崩しましたが、第5戦フランスGPと第6戦イタリアGPでは連続2位入賞。シーズン17戦中6戦を終了したこの段階で、ランキングトップにつけていたのです。

さらにカピロッシ選手以外のライダーも、決勝では第2戦カタールGPでジベルナウ選手が4位、第4戦中国GPではホプキンス選手が4位、予選では第4戦中国GPでホプキンス選手が2番手、第6戦イタリアGPでジベルナウ選手がポールポジションを獲得するなど、契約ライダー全員が決勝や予選で上位争いに絡める速さを発揮していました。ドゥカティワークスチームのマネージャーを務めていたリビオ・スッポさんも、カピロッシ選手がランキングトップに立っていることでとにかく気合が入っていましたし、ブリヂストンとしても今後のレースに心から期待していたのです。

ところが第7戦カタルニアGPで、状況は一変。決勝スタート直後のアクシデントで、シリーズタイトル獲得の夢はほぼ消え去りました。このレースのスタート直後、カピロッシ選手とジベルナウ選手がチームメイト同士で接触して転倒。両者ともメディカルセンターに運び込まれる事態となってしまったのです。原因は、予選13番手からタイミングよくスタートダッシュを決めたジベルナウ選手が、予選6番手スタートだったカピロッシ選手に追いついた際に、フロントブレーキレバーをカピロッシ選手の車体に引っかけたことにありました。これにより、ジベルナウ選手は前輪がロックして前転。カピロッシ選手は、接触の反動で右隣にいたマルコ・メランドリ選手と接触して転倒。さらにド・ピュニエ選手やホプキンス選手がこれに巻き込まれ、レースは赤旗リスタートになりました。

2012年から写真のようなブレーキレバーガードの装着が義務化されたが、2006年時点ではまだ無防備だった。現在はRIZOMAなどのメーカーから市販車用も発売されている。 [写真タップで拡大]

このアクシデントにより、ジベルナウ選手は鎖骨を折り、カピロッシ選手は大きなケガこそなかったものの全身に重度の打撲を負い、両者ともリスタートのグリッドに並ぶことはできませんでした。ちなみに現在のMotoGPでは、全車にフロントブレーキレバーガードの装着が義務付けられていますが、このカタルニアGPにおける接触事故がレギュレーション適用に向けたきっかけにもなっています。

そしてタイミングが悪いことに、次戦の第8戦ダッチTTはカタルニアGPの翌週に設定されていました。ダッチTTは6月最後の土曜日に実施されるのが慣例で、つまりアクシデントの4日後には最初のフリープラクティス走行があり、6日後には決勝レース。深刻なケガがなかったカピロッシ選手はこの大会に出場したのですが、わずか数日ではそこまでの回復は望めず、痛みの激しさから走行するのがやっとの状態でした。それでもなんとか、決勝を15位で完走して1ポイントを獲得したのですが、チャンピオン争いからは……。スッポさんもシーズン後、「あれさえなければ絶対にタイトルを獲れていた」と何度も口にしていましたが、カタルニアGPでのアクシデントは本当に悔やまれる出来事になってしまったのです。


※本記事の内容はオリジナルサイト公開日時点のものであり、将来にわたってその真正性を保証するものでないこと、公開後の時間経過等に伴って内容に不備が生じる可能性があることをご了承ください。 ※特別な表記がないかぎり、価格情報は税込です。

最新の記事

WEBヤングマシン|最新バイク情報