起死回生の裏側で、翌年に向けた動きも……

山田宏の[タイヤで語るバイクとレース]Vol.27「ドゥカティワークスと秘密の交渉!?」

  • 2020/10/10

ブリヂストンがMotoGP(ロードレース世界選手権)でタイヤサプライヤーだった時代に総責任者を務め、2019年7月にブリヂストンを定年退職された山田宏さんが、そのタイヤ開発やレースを回想し、今だから話せる裏話も披露します。MotoGPクラス参戦3年目となった2004年、翌年に向けた参戦体制づくりは、ドゥカティからの接触で急展開を迎えます。

四輪のF1でフェラーリと組んでいたことが関係?

2004年は、7月第1週にブラジルで開催された第7戦リオGPで、キャメル・ホンダから参戦していた玉田誠選手が、ブリヂストンにとってロードレース世界選手権の最高峰クラスで初となる優勝。さらに9月第3週の第12戦日本GPでは、玉田選手が2勝目を挙げ、カワサキ・レーシングチームから参戦していた中野真矢選手が3位表彰台に上がりました。そしてこれらの成績は、翌年に向けた我々の体制づくりにおいて、プラスの材料となっていきます。我々は、ちょうどリオGPくらいのタイミングから、2005年に向けて各チームとの具体的な交渉をスタートしていました。その中で、まず非常に大きな出来事となったのは、ドゥカティがブリヂストンとの契約を希望してきたことでした。

2004年9月、たしか日本GPの直後だったと記憶しているのですが、ドゥカティの社長からブリヂストンの社長に直接手紙が届き、私は秘書室経由でそれを知らされ、初めてドゥカティがブリヂストンに興味を持っているということを知りました。レースの世界では、現場にいるスタッフ同士からさまざまな話が立ち上がることが多いのですが、そのときはレース部門を仕切っているドゥカティ・コルセの代表を務めていたクラウディオ・ドメニカーリさんからではなく、本社の社長から連絡が来たので、とても驚かされました。あの当時、ブリヂストンは四輪のF1でフェラーリと組んでいました。フェラーリとドゥカティは近い存在だったので、フェラーリからブリヂストンの高いポテンシャルを聞いていたという背景もあるようです。

私は、その手紙に記されていたドゥカティワークスチームの現場担当者にメールを送り、そこから秘密裡に交渉がスタート。まだシーズン中ということで、ミシュランとの契約があるドゥカティ側としては、来季に向けた交渉をブリヂストンとしていることを外部に知られたくないという思惑があり、当初はサーキットでのミーティングを避けていました。

2004年MotoGP・第15戦オーストラリアGPにて。この時点のドゥカティのマシンはミシュランサポートを受けるワークスチームとしては3番手という位置にいた。ちなみにタイトルカットのマシンは2005年開幕戦バレンシアでのデスモセディチGP5だ。 [写真タップで拡大]

マレーシアGP、近隣にホテルに人目を忍んで……

初めて会合の場を設けたのは、10月第2週に開催された第14戦マレーシアGPのタイミングでした。彼らが宿泊していたのは、セパン・サーキットに近いクアラルンプール空港に隣接した、現在はサマサマ・ホテル・クアラルンプール・インターナショナルエアポートという名称で運営されているホテル。その一室がミーティングの場となったのですが、多くのMotoGP関係者が定宿としていることから、なるべく目立たないように、私はチームシャツを脱いで私服に着替え、こっそり彼らの部屋に向かいました。

ところがそのホテルのエレベーターは、セキュリティの問題から部外者が各フロアに立ち入れないようなシステムを導入していて、ルームキーを持っていないと扉が開かなかったのです。私はそれを知らされていなかったので、1回目は目的のフロアで降りることができずに失敗。その後、他の宿泊者がエレベーターに乗り込むのを見計らって同乗し、何度目かのトライでようやく目的のフロアにたどり着くことができました。今になって振り返れば、かなり怪しい人物だったと思います……。

あの当時、ドゥカティワークスチームのマネージャー(MotoGPプロジェクトリーダー)を務めていたのは、2010年に移籍してHRC(ホンダ・レーシング)のコミュニケーションならびにマーケティング・ダイレクターとなり、2013~2017年はレプソル・ホンダ・チームの代表も兼任してきたリビオ・スッポさん。さらに、ドゥカティ・コルセのテクニカルダイレクターだったフィリッポ・プレジオーシさんもいて、私と3人で秘密のミーティングを実施しました。

日本でのミーティングで、実質的な契約交渉を開始

初会合の後、マレーシアGPの翌週に開催された第15戦オーストラリアGP直後の10月19日(火)にはドゥカティ側に来日してもらい、その夜にホテルニューオータニの鉄板焼きレストランで会食。翌日には東京都小平市にあるブリヂストンの技術センターに招き、工場の概要を見学してもらってからミーティングを始めました。ドゥカティはスッポさんに加えて、ドメニカーリさんとテクニカルマネージャーのコラード・チェッキネーリさんも同席。ブリヂストン側は開発本部長を含む10名体制でした。マレーシアでの会合では私が先方の希望に関する概略を聞いただけなので、この日本でのミーティングが実質的な契約交渉開始の場となりました。

このときにドゥカティ側から提示されたのは、ブリヂストンと3年間の優先契約を結び、この期間はホンダヤマハのワークスチームにタイヤを供給しないというもの。さらに、タイヤ開発テストチームを一緒につくるという項目もありました。ブリヂストンとしては、これらの条件をどうするかが難しく、社内でかなり議論を重ね、その後の交渉は難航しました。我々としてとくに大きな問題となったのは、3年間の優先契約という項目。ドゥカティと同じくブリヂストンも、レースでの勝利そしてシリーズタイトルの獲得が目標であることは間違いありません。しかし、ドゥカティがチャンピオンを獲れるという保証はどこにもありませんから、ドゥカティとの優先契約にはかなりのリスクがあります。

また、これは今後詳しく触れますが、この当時はタイヤ供給に関するさまざまなレギュレーションが確立される過渡期でもあり、それらのことを考慮すると、ドゥカティ側が主張する3年優先契約を認めてしまうと後々自分たちの首が絞まるだろうという思惑もありました。さらにタイヤ開発テストチームを作ることに関しても、費用負担が大きく社内でも常務クラスの決裁が必要な状況でした。

ドゥカティ側に来日してもらった翌週、10月26日(火)に今度は我々がイタリアのドゥカティ本社を訪ねて再び協議。翌日は、最終戦バレンシアGPの会場で再び極秘ミーティング。30日の土曜日にも協議を続けて、ようやくここで2005年の契約が基本合意されました。バレンシアでは、レースウィークだったので極秘ミーティングの開催に苦労。ピットと別の建物にある部屋を借りて、そこへの出入りにも人目に気を遣いました。

結局、タイヤ開発テストチームに関しては費用負担も含めて完全にドゥカティ側の要望を受け、3年間の優先契約という項目に関しては、3年契約は受けたものの、ホンダヤマハのワークスチームには供給しないという優先契約は外すことで同意してもらいました。MotoGPの運営権利を所有するドルナスポーツがタイヤ社に対して要求している、最低数供給義務(タイヤメーカーが3社の場合、要望されたら33%の台数以上に供給する)というのが規則化しそうな状況だったことを説明して、なんとか納得してもらいました。

当時のドゥカティとしては、ミシュラン陣営の中ではホンダヤマハのワークスに次ぐ3番手という位置づけで、勝てるタイヤが供給されづらい状況。それなら、将来性に期待してブリヂストンでナンバー1の存在になったほうがよいという考えを持っていたスッポさんが、ドゥカティ社内の上層部やスタッフを説得してくれてブリヂストンと契約することを決めたようです。

3メーカーのワークスチームにタイヤ供給が決まった一方で……

今になって考えてみれば、MotoGP時代のチーム契約に関する仕事の中では、このときのドゥカティとのやり取りが、2か月程度の短期間でしたがもっとも大変だったように思います。やはりそこには、相手が海外メーカーであるということも大きく影響しています。日本のメーカーだと、当然ながら最終的な契約書はしっかり作成するのですが、そこまでの過程で気心が知れた部分もありますから……。もっとも、2000年に翌年の開発チームを立ち上げるためにアーヴ・カネモトさんと交渉したときは、HRCやライダー・メカニックなど多くの人との調整が必要だったことから時間もかかったので、契約をまとめるという意味ではもっと大変だったわけですが。

2004年は、スズキカワサキのワークスチームと契約していましたが、これらのチームとは2005年も関係性を継続することが決定済み。カワサキとは2年契約をしていて、スズキとは単年契約だったものの、2005年に向けてはさらにテストチームでタイヤ開発テストを実施することに合意していました。この2社に加えてドゥカティと契約できたことで、2005年は3メーカーのワークスチームにタイヤを供給できることになり、より強力な体制を築くことができました。ところがその一方で、2004年に2勝を挙げてくれたキャメル・ホンダの玉田誠選手との契約は、まさかの暗礁に乗り上げてしまったのです。

2004年MotoGP・第11戦ポルトガルGPにて玉田誠選手と。 [写真タップで拡大]

TEXT:Toru TAMIYA
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ブリヂストンでタイヤ開発を経てレース部門へ。ロードレース世界選手権では1991年のWGP125ccクラスへのスポット参戦からMotoGPへのワンメイクタイヤ供給まですべてを統括した。その後は世界耐久選手権シリーズで、ブリヂストンサポートチームの初優勝、初タイトルを見届けた。2019年7月をもって定年退職。視線はモータースポーツの未来へ。