2000年初夏、GP500プロジェクトが発足!

山田宏の[タイヤで語るバイクとレース]Vol.8「最高峰クラス挑戦の夢は突然に」

  • 2019/12/25

ブリヂストンがMotoGPでタイヤサプライヤーだった時代に総責任者を務め、2019年7月にブリヂストンを定年退職された山田宏さんが、かつてのタイヤ開発やレース業界について回想します。いよいよ今回から、ロードレース世界選手権最高峰クラスにおけるブリヂストンの挑戦物語がスタート。当時の舞台裏を、詳細に振り返ってもらいます!

TEXT: Toru TAMIYA

低迷期を脱した頃、ネットの普及でWGPの活動が日本に伝えやすく

1999年、ロードレース世界選手権(WGP)のGP125クラスでチャンピオンを輩出するという悲願こそ達成できませんでしたが、ブリヂストンは1991年に参戦を開始してから最多となるシーズン8勝を挙げ、低迷期を脱しました。そしてこの年あたりから、社内におけるWGPに対する認識も、以前とは少し変わってきていました。まず当時は、NHKのBS放送でWGPを視聴できる時代となっていて、WGPがどのようなレースなのかを理解してくれる人が、社内でも増えてきていました。インターネットを活用したeメールが急激に普及したことで、我々も自分たちのWGPにおける活動を多くの役員などに配信しやすい環境となりました。

このような変化もあって、私はツインリンクもてぎで開催された1999年第2戦日本GPの決勝翌日に、当時の社長を含めたブリヂストンの上層部に、シーズン開幕戦で勝利を収めてこの大会に臨んだ東雅雄選手を紹介するアポイントメントを取っていました。結果的に、東選手はもてぎでも勝利を収め、開幕2連勝という最高の状態だったので、会社の首脳陣はみんな大喜びで東選手を迎えてくれました。そしてこれが、いま振り返ればWGP最高峰クラスに挑戦するひとつの伏線にもなったのです。

2000年シーズン開幕戦、南アフリカグランプリで東選手は、予選12位から決勝では9位に入る。ブリヂストン社内でもWGPへの関心が高まっていた頃。

東選手の会社訪問や情報通信環境の変化などが追い風となり、社内ではWGPに対してさらに興味を持ってもらうことができました。同時に「WGPにはGP500、GP250、GP125と3カテゴリーがあるのに、なぜウチは入門クラスと呼ばれるGP125にしか参戦していないのか?」と、会社上層部の中で疑問に思う方々も現れました。そして、そのような要因が重なった結果、東選手の会社訪問から1年が経った2000年には、当時の副社長がついに欧州のサーキットまで視察に訪れることになりました。大会は、4月末に開催された第4戦スペインGP。そう、数あるWGPの中でも観客の熱狂ぶりがとくに激しいヘレスサーキットまで、副社長が訪ねてくれたのです。

私自身は、1991年からのWGPにおける活動で、欧州におけるブリヂストンのシェアを伸ばすためのプロモーション活動として、WGPの最高峰クラスに参戦することは有効な手段のひとつになり得ると実感していました。副社長も、あの10万人の観客のラテン的なものスゴい盛り上がりを実際に見て、感じたものが多かったよう。日本に戻ってからゴールデンウィーク明けに、私は副社長に呼ばれました。「視察の模様を社長に報告するのだが、内容はこれでよいか?」と確認され、そこには欧州におけるWGPの認知度や盛り上がり、そこに参戦することによる販売面でのメリットなどが書かれていました。それからしばらくして……といっても同じ5月中、私は再び副社長の部屋に呼ばれました。そしてこのとき、副社長からこう言われたのです。「GP500に参戦するためにはどうすればよいか、それを考えてください」と。

第7戦カタルーニャGPで東選手は2位を獲得。ヘレスでは4位だったが、スペインの熱狂を本社に伝える追い風となった。

5年でチャンピオンを獲る!? 会社からは思わぬGOサイン

副社長のヘレス視察からそこまで、わずか数週間。あまりの急展開に驚きましたが、とにかく技術部門のスタッフを集めて議論を重ね、GP500に挑戦するための戦略を練り、資料を作成していきました。そして6月20日の経営会議で提案。わずか1ヵ月ほどで参戦計画をまとめたことになります。このとき提案したのは5ヵ年計画。2001年に開発をスタート。2002年は開発を目的に数レースの実戦参加。2003年に本格参戦開始。2004年には勝てるチームまたはライダーに供給し、2005年にはシリーズタイトルを獲得するというものでした。正直なところ、それまでGP125とGP250でWGPに携わり、とくにGP250では挫折も経験していますから、「まあ5年でそこまでは難しいだろうなあ……」というのが偽らざる気持ちでした。しかし、10ヵ年計画なんて会社が認めてくれるわけがありません。5ヵ年計画を、なるべくそれに近い状態で進めるしかないと決意していました。

もちろんこの計画書には、参戦の目的や、この計画について必要となる“人・モノ・金”についてもまとめてありました。計画の目的は「ブランドイメージの向上と、技術力の構築」。ブランドイメージについては、まだまだ弱かった欧州でのブリヂストンのイメージを、F1とは異なり若年層のファンを取り込むことにより向上できるとしました。技術力の構築では、タイヤに過酷な条件下での競争で先端技術を開発し、それを最高峰の場でのアピールにつなげ、なおかつ市販製品へフィードバックすることを目的として挙げました。技術部門は、いいタイヤを開発するためにリソースを割かなければなりませんし、最終的な目標を絶対に達成するという意識が非常に強いので、いまもそうかもしれませんが、予算に関してはかなりの見積もりがされていました。「えっ、こんな金額を会社が認めてくれるのか?」というような数字でしたが、結果的には通りました。まあ、ちょうどあのころは、時代もよかったのだと思います。

ブリヂストンは、タイヤメーカーとして世界トップを目指していましたが、欧州ではまだ知名度が足りていない状態。そしてシェアを争う相手はミシュランでした。GP500に参戦することになれば、ミシュランが直接的なコンペティターとなることも、上層部に響いたのかもしれません。

1999年型ホンダ NSR500V。入手しようと思えばできる市販GP500マシンだったが、タイヤテストにはもっとレベルの高いGP500マシンが必要だと考えた。

ステップアップするか、GP500に行くか……

開発や工場の体制をどうするか、現地でのサービスに関する構想、あるいは勝つために必要なチームやライダーの数など、ある程度のことを1ヵ月ほどの間に参戦計画としてまとめました。もちろん時間なんてまるでありませんから、ある程度の部分はざっくりとした状態。そして、それらを遂行するためにプロジェクトチームを立ち上げるということも盛り込んでおきました。じつはこの計画をまとめるとき、GP500にいきなり挑戦する以外に、大きくわけてふたつの計画案も検討しました。

ひとつは、GP250にもう一度挑戦して、ステップアップしていくプラン。これはセオリーどおりといったところですが、とてもじゃないけど5年間でGP500の勝利までたどり着けません。もうひとつは、それまで我々にはスーパーバイクのタイヤも一応あったので、GP500と比較的タイヤサイズやパワーが近いこのカテゴリーで力をつけて、3年ほどの間に技術を磨き、GP500にスイッチする方法でした。しかしこれも、与えられた時間を考えると目標達成は難しそう。そこで、最初からGP500のタイヤを開発して、実戦で技術を磨いていくことになったのです。

開発陣には、しっかりリソースを投入することが可能なら、他メーカーに負けないタイヤを完成されられる技術力を我々は持っているという想いがあり、このプロジェクトが正式に発足すると、かなり士気を高めていました。私も同様に、これまでは我々担当者の力だけで挑戦していたからGP125以外では成績が残せなかっただけで、全社一丸となってタイヤを開発すればミシュランにだって負けないと信じていました。

2000年6月20日の経営会議でGOサインが出てすぐに、タイヤ開発部隊はプロジェクトグループの組織、人事に着手。また、時間の掛かる室内評価試験機の開発発注や、生産設備の増強等を進めました。さらに現有設備でGP500用のタイヤを試作し、室内評価を開始していました。

このように、開発部隊の動きはかなり速かったのですが、一方で私には大きな不安がありました。ある程度のレベルのタイヤが試作できたら、その後は実際のマシンでスキルのあるライダーに評価してもらわないと開発が進まないのですが、レベルの高いGP500マシンをタイヤテスト用に借りられるかどうかさえ、テストチーム結成の仕事を担当した私は、まだ知らない状態だったのです。

2000年の東選手は勝てないレースが続き、4度のリタイヤでランキング4位に終わったが、最終戦のオーストラリアGPではシーズン初優勝を挙げ、有終の美を飾った。

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山田 宏

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ブリヂストンでタイヤ開発を経てレース部門へ。ロードレース世界選手権では1991年のWGP125ccクラスへのスポット参戦からMotoGPへのワンメイクタイヤ供給まですべてを統括した。その後は世界耐久選手権シリーズで、ブリヂストンサポートチームの初優勝、初タイトルを見届けた。2019年7月をもって定年退職。視線はモータースポーツの未来へ。