ブリヂストンがMotoGP(ロードレース世界選手権)でタイヤサプライヤーだった時代に総責任者を務め、2019年7月にブリヂストンを定年退職された山田宏さんが、かつてのタイヤ開発やレース業界について回想します。2002年から、ブリヂストンは最高峰のMotoGPクラスに参戦開始。2年目の2003年、新たに玉田誠選手の起用も決まったのですが……。 ※タイトル写真は2003年MotoGP開幕前のテストで、右は玉田誠選手、左は伊藤真一選手。
TEXT:Toru TAMIYA ※本内容は記事公開日時点のものであり、将来にわたってその真正性を保証するものでないこと、公開後の時間経過等に伴って内容に不備が生じる可能性があることをご了承ください。※掲載されている製品等について、当サイトがその品質等を十全に保証するものではありません。よって、その購入/利用にあたっては自己責任にてお願いします。※特別な表記がないかぎり、価格情報は税込です。
変な人から、いきなりワケのわからない電話が……?
「もしもし、ブリヂストンの山田と申します。来年、一緒にMotoGPで戦いませんか? 突然の話で理解しづらいと思うので、後ほどまた電話しますね」
2002年のMotoGP(ロードレース世界選手権)最終戦バレンシアGP、決勝日のお昼ごろ。ようやく、翌年の参戦体制についてプラマックレーシングとブリヂストンが合意に至ったことから、HRC(ホンダレーシング)のスタッフに玉田選手の電話番号を聞いた私は、さっそく彼に電話しました。しかし本人は、水面下で自分が翌年のMotoGPを走るという交渉が進んでいたことも、それがブリヂストンのタイヤ開発も目的としたもので、私がそのプロジェクトに深く関わっているということも、それどころか私のことも、すべて知らない状態。突然の電話に、頭の中が「??」で満たされたそうで、当然でしょうが電話の応対も素っ気ないものでした。
たまたまそのとき、玉田選手は全日本ロードレース選手権の最終戦が終わった後で、ライダー仲間などと一緒に食事中。「いま、何とかの山田さんって人から『MotoGPを走らないか?』って……。変な人から、いきなりワケがわからない電話がかかってきましたよぉ」と、周囲の人たちに話したそうです。ラッキーだったのは、その場に鎌田学選手がいてくれたこと。鎌田選手は、ブリヂストンが2001年の開発テストに先駆けて、前年にHRCを招いて事前テストを実施した際に、ライダーを担当してくれていました。「それ、たぶんブリヂストンの山田さん。MotoGPのプロジェクトを進めている人で、つまり来年のオファーってことだよ!」という話になったそうです。おかげで、私が再び電話をかけたときには状況を理解していて、最初とはまるで違う口調で、はっきりと「ぜひ一緒にやらせてください!」という言葉が帰ってきました。
一緒に世界を獲る! そんな意気込みでウインターテストに突入
バレンシアGPの決勝日が11月3日。翌年まで時間はほとんどありませんから、玉田選手とも早急に契約を結ぶ必要があります。私が日本に帰ってから、玉田選手に一度来社してもらい契約条件などのヒアリングをしました。ところが玉田選手から返ってきた答えは、「僕はとにかくやるだけ。契約条件とか金額の話はしたくありません。契約に関してはすべて、母親に任せます」というものでした。
当時、玉田選手のお母様が代表となっている会社があり、契約に関してはその会社とブリヂストンの間で締結することになりました。そこで今度は、お母様にも来社していただき、まずは挨拶。「一緒に世界一を獲りましょう!」と約束したことを、いまでもよく覚えています。もちろん私は、それが達成できると信じていました。そして、こちらが提示できる条件を提示して、草案の状態から契約書を作成。お母様とやり取りをして、契約を結びました。
2003年に向けたウインターシーズンで、もうひとつ記憶に残っているのは最初のIRTA(国際ロードレースチーム協会)テスト初日を終えたときのこと。その前にプライベートテストが実施されていたかどうか記憶は定かではありませんが、なんにせよ玉田選手にとってホンダMotoGPマシンのRC211Vは初めてのマシンで、ブリヂストンタイヤを履くのも初めて。しかも彼は、そこまでの間にMotoGPどころか海外サーキットでのレースの経験がまったくない状態でした。IRTAテストにはMotoGPクラスに参戦する他のライダーも参加するので、ライバルたちと同じコースを走行するのは、間違いなくそのときが最初。ライバルたちとの比較をするのに絶好の機会となります。
大物なのか何も考えていないのか、その答えはやがて明らかに
そこで初日のテスト終了後、私は玉田選手に質問しました。「ロッシと比べてどこが遅くて、逆にロッシはどこがずば抜けてスゴかった?」と。当時、だれもが認めるMotoGPクラスの頂点はバレンティーノ・ロッシ選手。テストとはいえ、同じコースを走行していたら近い位置を走ることはあります。玉田選手も、きっとロッシ選手を観察したに違いありません。するとこのとき、玉田選手から返ってきたのは、ある意味で衝撃的な言葉でした。「いや、全然たいしたことなかったですよ!」
これを聞いて私は、彼が本当の大物か何も考えていないかのどちらかだと思いました。普通なら、いくら日本トップクラスのレーシングライダーとはいえ、初めて海外のサーキットでGPライダーと一緒に走ったら、多少は気後れすると思うんです。「初めて尽くしなので、1年目は勉強します」なんて……。しかし玉田選手には、そんなそぶりが微塵もありませんでした。現役選手としての晩年、あるいはアジアでホンダの監督になってからも、玉田選手と話す機会はよくありましたが、日本人選手が「勉強します」なんてコメントしているのを聞くたびに彼は、「何を考えているんだ。最初から勝負する気じゃなければ行く意味ないよ!」と言っていました。もっとも玉田選手自身は、これは後に知ることですが適応力が非常に高く、それがメンタルを強く保てる要因のひとつになっていたのかもしれません。
とはいえ、ウインターシーズンのテスト段階では、正直なところ私はまだ玉田選手の速さや実力についてやや懐疑的でした。もちろん、最初にライダーの候補として挙げる段階で、社内の開発メンバーなどと協議を重ね、玉田選手についてリサーチもしています。しかし結局のところ、全日本ロードレース選手権から離れていた私にとっては、まるで知らないライダーなのです。2002年にスポット参戦したスーパーバイク世界選手権でも優勝しているとはいえ、これは日本GPで彼がよく知るスポーツランドSUGOでの開催ですから、あまり参考にはなりません。IRTAテストを見ていても、部分的な速さはあると感じましたが、実際のレースになったらどれくらいイケるのかは未知数。しかしこちらとしても、選んだ以上はやってもらわないと困るという気持ちでした。
当初の5ヵ年計画では、3年目あたりではファクトリーチームに供給できるようにという算段。そのためにも2年目のこのシーズン、我々は結果を残す必要がありました。表彰台圏内でのゴール。これが、最初の目標でした。そしてシーズンが開幕。玉田選手はその序盤戦から、大物の片鱗を見せてくれることになるのです。
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