ブリヂストンがMotoGP(ロードレース世界選手権)でタイヤサプライヤーだった時代に総責任者を務め、2019年7月にブリヂストンを定年退職された山田宏さんが、そのタイヤ開発やレースを回想し、今だから話せる裏話も暴露。MotoGPクラス参戦3年目の2004年、第7戦リオGPでブリヂストンは最高峰クラス初優勝、さらに第12戦日本GPで2勝目を挙げます。
初優勝後のお祝いをしたかどうか、覚えていないのには理由があった
2004年第7戦リオGP(ブラジル)で獲得した、キャメル・ホンダから参戦していた玉田誠選手とブリヂストンにとって初めてのロードレース世界選手権最高峰クラス優勝。その瞬間は、当事者である我々も予想できない状況で突如として訪れましたが、このドラマにはまだ続きがありました。当コラムの第18回で紹介しましたが、玉田選手はレース活動の契約に関して、彼のお母様が代表となっている会社にすべて任せており、そのため2003年シーズンに向けて玉田選手とブリヂストンが契約を結ぶ段階から、私は彼のお母様と契約交渉を含めたさまざまなやり取りをしてきました。
玉田選手の初優勝を見届けてすぐ、私はブラジルから日本へ電話して、「勝ちましたよ!」と、お母様に優勝報告。電話の向こうでは、涙声で「ありがとう、ありがとう……」と繰り返されていました。じつはこのとき、お母様は病気を患って入院していたのですが、テレビで息子の勇姿を観戦するため一時的に帰宅していたようです。そしてそのわずか数日後、お母様は病気により他界されました。
愛する息子の初優勝を見て安心してしまったのかもしれませんが、もしもリオGPで勝利していなければ、玉田選手はお母様に優勝する姿を見せてあげられなかったことになります。そういう意味では、神様がプレゼントしてくれたような1勝でもありました。帰国後、私はお母様の葬儀に出席。その前々日に玉田選手から依頼されて、人生で初めて弔辞を読ませていただきました。前日に葬儀業者の方と打ち合わせをして、夜遅くまで内容を考え抜いて、ホテルで和紙に筆で弔辞を書いた記憶があります。不思議なことに、初優勝後にブリヂストンのスタッフやキャメル・ホンダのチームメンバーとお祝いをしたかどうかはまったく記憶にないのですが、私にとっての2004年リオGPは、この葬儀までがワンパックの出来事でもあったのです。
「隠さず、正直に」
このリオGPにおけるブリヂストンのMotoGP初優勝は、もちろん我々にとって非常にうれしいことでしたが、同時にメディアの反響がすごかったことを覚えています。イタリアとスペインを中心としたヨーロッパのメディアは当時、デイリーの新聞でもMotoGPの話題を扱うほどの状態。ムジェロサーキットで開催された第4戦イタリアGPの決勝レースで、カワサキ・レーシングチームから参戦していた中野真矢選手が装着していたブリヂストンのリヤタイヤが300km/hの速度域で壊れ、中野選手が大クラッシュしてからというもの、さまざまなメディアがひっきりなしにコンタクトを取ってきていました。言い方は悪いですが、彼らにとって我々は格好の餌食。ムジェロでのアクシデントは、それほど注目を集めてしまう事態でした。
もちろん我々としては、タイヤが壊れた理由は隠しておきたいし、触れてほしくないし、できることなら現実から逃避したい事態。企業によっては、そういう判断をしたかもしれません。しかし我々はそうせず、ムジェロの翌戦(第5戦カタルニアGP)でブリヂストンのホスピタタリティテントに記者を集め、質疑応答の場を設けました。個々の記者にそれぞれ対応するのは時間的に難しいですが、それなら可能という判断。開発本部長と私が、言えることはすべて公表したのです。もちろん、事前に社内でオーソライズされた問答集を準備して臨みました。10人程度の主要記者が参加し、かなり長時間に及んだ記憶があります。その結果、事故直後には「ブリヂストンはもうダメだ」という記事が多かったのですが、その後は質疑応答の内容をまとめて事故の原因と対策について言及する記事が多く、我々の対応を紳士的だと評価してくれるメディアもありました。
このように、トラブルに関することをオープンにし、そしてそのわずか2戦後に初優勝を挙げたことから、「ミラクルだ!」という大反響につながったようです。これは、その当時から開発本部長や私が心がけていたことなのですが、その後も我々はメディア対応に関するポリシーに、「OPEN&HONEST(=隠さず、正直に)」というスローガンを掲げてきました。この姿勢を素晴らしいと言ってくれていたスペイン人のある記者とは、MotoGPへのタイヤ供給終了後もコミュニケーションを続けており、彼は現在も現役としてMotoGPに関する執筆を続けています。
ロッシ選手と真っ向勝負!
リオGPでの初優勝後、メディアの評価も上々でしたが、ブリヂストンがサポートするライダーたちの戦績も上向きに。これは、もちろんタイヤも少しずつ改良を加えていきましたが、ワークスチームやトップチームの適応力によるところも大きかったと思います。
第8戦ドイツGPでは玉田選手が6位、中野選手が7位、チームスズキMotoGPのケニー・ロバーツJr選手が8位でジョン・ホプキンス選手が9位、そしてカワサキ・レーシングチームのアレックス・ホフマン選手が10位でゴールし、全員がトップ10圏内でフィニッシュ。第9戦イギリスGPではホプキンス選手の8位が最高位でしたが、第10戦チェコGPでは玉田選手が4位に入賞しています。そして第11戦ポルトガルGPでは、玉田選手がポールポジションを獲得。決勝ではオープニングラップからバレンティーノ・ロッシ選手やマックス・ビアッジ選手とトップ争いを繰り広げ、2位表彰台に上がりました。
優勝こそ逃しましたが、間違いなく当時のトップライダーだったロッシ選手やビアッジ選手と真っ向勝負した結果の2位。我々としても、確かな手ごたえを得ていました。そして迎えた第12戦は、ツインリンクもてぎを舞台とした日本GP。前年、玉田選手が3番手でゴールして表彰台に登壇しながらも、その後に失格となった因縁の大会です。日本を拠点とする我々にとってこのもてぎは、物流や設備に関するアドバンテージがあることに加えて、MotoGPチームの連盟であるIRTA(インターナショナル・ロードレース・ チーム・アソシエーション)のテストが実施されていないため、ヨーロッパメーカーであるライバルのミシュランに対して有利なコース。ここまで調子も上向きで、2勝目に対する期待も高まっていました。
そしてそれに応えるように、予選では玉田選手がポールポジションを獲得。さらにホプキンス選手が2番手となり、ブリヂストン勢がワン・ツーとなりました。決勝では、予選3番手だったロッシ選手がオープニングラップでトップに立ち、これを玉田選手が僅差でマーク。早めに仕掛けて6周目にトップへ浮上した玉田選手は、レース後半にロッシ選手をじわじわと引き離し、自身とブリヂストンにとっての2勝目をマークしました。さらにこのレースでは、予選では12番手だった中野選手が、1周目に4番手まで浮上する驚異のスタートダッシュ。4周目にひとつ順位を落としながらも、前のライダーを僅差で追い続けた中野選手は、10周目に4番手回復。そして残り6周となった19周目にマルコ・メランドリ選手をパスして、3位フィニッシュを果たしました。
玉田選手にとっては、前年の雪辱を果たす優勝。中野選手にとっては500cc時代の2001年第9戦ドイツGP以来の最高峰クラス表彰台で、カワサキにとってはMotoGP初表彰台。我々ブリヂストンにとっても、多くの日本人ファンや社員が応援に詰めかけたもてぎで優勝と3位を獲得し、2名の日本人選手が地元で表彰台に上がる活躍に貢献でき、とにかく喜びいっぱいの大会となったのでした。
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