ブリヂストンがMotoGP(ロードレース世界選手権)でタイヤサプライヤーだった時代に総責任者を務め、2019年7月にブリヂストンを定年退職された山田宏さんが、かつてのタイヤ開発やレース業界について回想します。2002年、ブリヂストンは最高峰のMotoGPクラスに参戦開始。終盤には好成績も得ましたが、一方で翌年の体制はなかなか決まらずにいました。
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BS初のポールポジションはデータ不足が奏功?!
MotoGPクラス参戦初年度となった2002年、シーズンも残り2戦となった第15戦オーストラリアGPの予選で、ブリヂストンがタイヤを供給した3選手ともが好タイムを記録し、全員が決勝スターティンググリッドのフロントローに並んだことで、私たちは翌年に向けて確かな自信を得ました。最大のライバルにして当時の絶対的王者だったミシュランを、シーズン終盤になって少しは焦らせることができたのではないかと感じていました。ただし、これはいまになって振り返ればという話ですが、ブリヂストンがこのときに好成績を残せたのは、コースに対するデータ不足がむしろプラスとして働いた結果かもしれません。
オーストラリアGPが開催されているフィリップアイランドサーキットは、とくに最終コーナーでリヤタイヤにかなり負荷が掛かり、発熱という点に関して非常に厳しいコース。そのため、長年にわたる最高峰クラスへの参戦でフィリップアイランドの特徴を熟知していたミシュランは、安全マージンを確保するためハードな構造またはコンパウンドのタイヤを使用していたのではないかと想像しています。ところが最高峰クラス参戦初年度の我々には、そこまでのデータがありませんから、とくに気にすることなく予選でソフトなタイヤを導入。これが全選手フロントローにつながったというストーリーだったのかも……と。ちなみに、ブリヂストンが公式タイヤサプライヤーとして独占供給していた2013年には、このコースに路面全面改修が施されたことで、タイヤに対してよりシビアになったことから耐久性が問題となり、決勝中にピットイン&マシン交換を義務づける異例のレギュレーションを導入したこともあります。
まあそれはともかく結果として我々はこのレースで、プロトン・チームKRのジェレミー・マクウィリアムス選手が予選でブリヂストン初のポールポジション、決勝ではカネモトレーシングのユルゲン・ファンデン・グールベルグ選手がブリヂストンとしてのベストリザルト更新となる5位を獲得して、翌年のさらなる躍進に向けて士気を高めていました。
カネモトレーシングに代わるチームを探さねば……!
ところが、翌年の参戦に向けた体制づくりは、最終戦間近になってもまだ難航していました。準備活動はシーズンが後半戦に入った段階でスタートしていましたが、カネモトレーシングを率いるアーヴ・カネモトさんからは「来年はもうやりたくない」という回答。2002年のカネモトレーシングは、メインスポンサー不在のまま参戦していて、マシン貸与やアーヴさんおよびグールベルグ選手の給与などもブリヂストンが受け持っていたとはいえ、期待していたスポンサー獲得はならず、ブリヂストンとの契約金だけではチーム運営が厳しかったのでしょう。加えて、シーズン序盤にはグールベルグ選手のタイヤ不満ぶちまけ問題もあり、アーヴさんのモチベーションは完全に低下していました。
もちろん我々としては引き止めましたし、何度も話し合う機会を設けましたが、アーヴさんの意思は変わりませんでした。オーストラリアGPの予選フロントロー(グールベルグ選手は4番手)や決勝5位がもう少し早い時期だったら、表彰台登壇を夢見てアーヴさんも「あと1年!」なんてことになったかもしれませんが、夏の段階では……。
そこで我々は、ブリヂストンタイヤで戦ってくれる新たなチームを探すことに。そこで浮上してきたのが、イタリアのプラマックレーシングとスペインのポンスレーシングでした。プラマックというのは、元々は芝刈り機をはじめとするホンダ汎用製品の大手カスタマーで、ホンダとのつながりが深く、ホンダからの推薦もありました。2002年設立の新しいチームだったので、彼らとしてもブリヂストンの契約金は渡りに船という状態だったはずです。一方のポンスレーシングは同じくホンダ系で、ロリス・カピロッシ選手やアレックス・バロス選手を擁して最高峰クラスでの優勝経験もあるチーム。ただし、実績のないブリヂストンに対して契約金に対する要求が強い印象でした。
実績のあるトップライダーは難しい、ならばともに歩める日本人ライダーを
両チームとの交渉を続けるなかで、我々のほうにもひとつの条件がありました。それは、起用するライダーに関して我々の要望を聞いて欲しいということ。参戦2年目ですから結果を求めたいし、さらにタイヤ開発も進めなければなりませんが、結果を出せるような上位の実績があるライダーと契約するのは、非常に難しい状態でした。であれば、我々を理解してくれて、一緒にタイヤ開発を進めてくれるライダーが望ましく、それならコミュニケーションの問題などから日本人ライダーがよいと考えたのです。
我々としてもいろいろ考慮し、ホンダとも相談するなかで、2002年当時は全日本ロードレース選手権のトップクラスを戦っていた玉田誠選手が候補に挙がっていました。しかし、そもそもチームが決まっていない段階で玉田選手自身に打診することもできず、本人の知らないところで話を進めていました。ちょうどこの年、玉田選手はスポット参戦したスーパーバイク世界選手権の日本GPで優勝(レース2)。実は我々も玉田選手に関しては未知の部分が多かったのですが、この結果もあって彼に賭けてみようと、このあたりを強調しながら資料を作成し、プラマックレーシングおよびポンスレーシングと交渉を続けました。
しかし結局、ポンスレーシングのお金に対する要求は変わりませんでした。しかも、チームが提案してきた数名のライダー候補は地元スペインのライダーで、「このライダーはこんな点で素晴らしい!」などと薦めてくるのですが、その選手は我々からしたら話にならない選手だったとか、我々が推薦した玉田選手に関しては一蹴されるなど、なかなかこちらの思う条件に落ち着く気配がなく、ポンスレーシングとの交渉を中止。そしてプラマックレーシングとの最終交渉段階に入りました。しかし、2002年最終戦バレンシアGPの直前になっても、まだ合意には至らず。バレンシアGPの水曜日から毎夜に話し合いを重ねましたが、とくに起用する選手に関して、向こうからしたら「誰、それ?」という状態なわけで、なかなか進展しません。それでもしぶとく説得を続けて、ようやく玉田選手を起用することを認めてくれたのは日曜日のことでした。
もちろん、この段階でもまだ玉田選手には何の話もしていません。それどころか、私はほぼ彼との面識がなかったので、携帯電話の番号すら知りません。ようやくプラマックレーシングがOKしてくれたのを受け、HRC(ホンダレーシング)のスタッフから玉田選手の電話番号をゲットして、初めて彼に電話したのは、バレンシアGP決勝日の昼前だったのです。
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