ウエルカムプラザ青山を拠点にした取り組み

創業者・本田宗一郎氏との一問一答【ホンダ高山正之のバイク一筋46年:第6回】

ホンダ広報部の高山正之氏が、この7月に65歳の誕生日を迎え、勇退する。二輪誌編集者から”ホンダ二輪の生き字引”と頼りにされる高山氏は、46年に渡る在社期間を通していかに顧客やメディアと向き合ってきたのか。これを高山氏の直筆で紐解いてゆく。そして、いち社員である高山氏の取り組みから見えてきたのは、ホンダというメーカーの姿でもあった。連載第6回は、ウエルカムプラザ青山を訪れる創業者・本田宗一郎氏とのやりとりや、トークショーイベント「バイクフォーラム」について振り返る。

ホンダの創業者・本田宗一郎さんは、最高で最大の広報・宣伝マンでした。青山本社のショールーム「Honda ウエルカムプラザ青山」には、たびたび訪れていました。1986年に、ウィリアムズホンダがコンストラクターチャンピオンを獲得した年のことです。本田さんが青山に来るという連絡があり、我々は、展示しているF1のパーテーションロープを外して待っていました。本田さんは、ロープを張って触らせない展示は大嫌いだったのです。しかし、大事なF1を預かる我々は、ロープで触ることを規制するしかありません。

本田さんがショールームに入りますと、我々は5メートルほど離れ、自由に見てもらっていました。そばに関係者がたくさん付くのも嫌がりました。F1の前に来ると、「おい! これがチャンピオンマシンだな。お客さんが喜んで乗っているか?」と言われました。その場の雰囲気から、コックピットにお客さんが乗り込んで喜んでいるシーンを想像しているのでしょう。私はどう答えて良いのかわからず、答えを濁して別の話題にしました。

「本田さん、F1のチャンピオン記念のテレホンカードを作りました。お客様に好評なんです。どうぞ」と、F1の写真をあしらったテレホンカードを渡したところ、「おお! これを電話機に入れるとF1の音が聞けるんだな」という答え。たぶん、本田さんはテレホンカードを使ったことがないと思ったのですが、奇抜な発想かジョークだったのか、本当にそう思っていたのかは、今でも不明です。

その日に、モータースポーツ部門に本田さんの言われたことを伝えたところ、チャンピオン獲得記念として、ウエルカムプラザにて時間限定のコックピット乗車体験をやろう、とすぐ決まりました。当然、言い出した私がお客様の対応係です。毎日2回ほど、看板をだして一人ひとりコックピットに入る手伝いをして、ポラロイドカメラで撮影し、記念に渡していました。今ではよく見かける光景ですが、この時がホンダとしては最初なのかもしれません。本田さんにとっては、レースで勝つことも大事ですが、お客様が喜ぶ姿が一番の目的だったのではないかと思います。

また、一般来場者のお客様への対応も見事でした。私は、本田さんが来るときには、マジックをポケットに入れていました。とある日、本田さんがバイクや四輪車を自由に見ていますと、遠くにライダージャケットを着たお客様がいらっしゃいます。しばらくしますと、

お客様「すみません。あの方は本田宗一郎さんですか?」
私「はい。そうです。今日は、新型の四輪車を見に来ました」
お客様「あのぅ、自分の息子に宗一郎と名前をつけたんです。大の本田さんのファンなんです。こんなことお願いしても無理なんでしょうが、サインとかいただけないでしょうか?」
私「はい。本田さんに聞いてみます」

そんなやり取りがありまして、本田さんは「いやぁ、俺は字が下手だからなぁ」と言いながら、私が用意したマジックでお客様のヘルメットに漢字でサインを書いてくれました。私にマジックを持たせた部長もすごいですが、ミスター本田は、とにかく人を驚かせたり、喜ばせたりするのがとても好きな人だという印象でした。

1989年10月にウエルカムプラザ青山で開催された彫刻展「情熱発電所」を見に訪れた本田宗一郎氏と傘を持つ高山氏。小雨が降る中、彫刻家の星野敦氏が本田氏に自分の上着をかけながら自ら案内している様子だ。本田氏と高山氏が収まる数少ない写真の1枚。

本田氏のひと声でコックピット体験会は定着。こちらは1990年シーズンにタイトルを獲得したマクラーレンホンダのMP4/5Bだ。アイルトン・セナ選手が2度目のタイトルを獲得したシートに記者やお客さんが収まることができるイベントを、高山氏が取り仕切っている。ちなみにコックピットはハンドルを取り外さないと体が入らない。

手弁当のバイクフォーラムは二輪文化の一端に

ウエルカムプラザ青山は、単なるショールームではなく、情報発信基地として双方向でのコミュニケーションを実践する場という位置づけです。1986年1月に始まったトークショー「バイクフォーラム」は、その目玉のひとつ。当初は冒険家の風間深志氏を司会者に、風間氏の友人をゲストにお招きして、毎月1回の開催です。私は、第7回から関わることになりました。私の使命は、企画から運営までを社内で行い費用を圧縮して、継続的にできる体制を作ることでした。ゲストとの交渉からシナリオの作成、マルチ画面に映し出すスライドの作成や、PR誌への情報掲載などを担当しました。

バイクフォーラム本番では、音響や照明の調整、そして話に合わせてスライドや映像を流すことも担当です。お客様が多すぎれば「後ろから見えにくかった」と苦情をいただきますし、観客が少ないと上司から「PR方法が悪い」と言われました。そんなイベントを継続していますと、さまざまな縁が生まれます。風間氏の交友関係から舞台演出家の蜷川幸雄氏をお招きしたり、私の生命保険の担当をしてくれた保険外交員の方から格闘家の前田日明氏を紹介いただくなど、著名な方々と打ち合わせをする機会を得ることができました。

月1回のバイクフォーラムに加え、チャンピオンライダーやドライバーのスペシャルトークショーなども手がけていましたので、頭の中ではシナリオがいつまでも完了しない状態でした。私が担当だった時代、ウエルカムプラザ青山で85回のバイクフォーラムを担当し、継続の大切さを知りました。継続できた要因はほとんど内製で行っていたためで、費用も驚くほど低予算でした。上司の口癖「高山君、お金はないけれど、アイデアは無尽蔵だからね」 この名言には抵抗できません。バイクフォーラムは2冊の書籍にもなり、二輪文化の一端を担うことができたと感じています。

1986年頃のバイクフォーラムの会場。’86年1月19日に根津甚八氏と宇崎竜童氏を招いた「アドベンチャー・バイク談義」が第1回。演出家の蜷川幸雄氏は’86年12月14日の「道が舞台だ」(第12回)に、格闘家の前田日明氏は’89年5月13日の「格闘技とオートバイ」(第40回)に登壇した。

バイクフォーラムとは別にチャンピオンフォーラムも高山氏は担当。写真は1987年全日本モトクロスチャンピオンの東福寺保雄選手のトークショーだ。この時の司会は、オフロード誌『GARRRR(ガルル)』編集長の打田稔氏(写真左端)が担当していた。

1988年2月に発行されたバイクフォーラムの書籍『風のように、少年のように』(風間深志著/CBS・ソニー出版)の表紙。’86年に出演したゲストの中から10名の談話が紹介されている。著者の風間氏は、’86年に実施されたバイクフォーラム全12回の司会者でもあった。

「MOVE ホンダモーターサイクルデザインワールド」に携わる

1989年の夏1か月間、ウエルカムプラザは朝霞研究所のデザイン室に一変しました。二輪のデザインの魅力を発信する「MOVE ホンダモーターサイクルデザインワールド」です。きっかけは、朝霞研究所のデザインメンバーと、広報部のメンバーが訪ねてきたところから始まります。話は「夏の間、青山を貸し切りたい。特に若者に二輪のデザインについて知ってもらい、将来はデザイナーを目指してもらえるような展示イベントにしたい。もちろん、一般の方が見ても楽しめる内容にします」というもの。この大胆な提案を聞いたときに、「面白いけど、全部二輪で埋め尽くすと、四輪部門からクレームが来るだろうなぁ」と思っていました。

しかしながらとても熱い提案でしたので、早速上司に相談したところ「面白いねぇ。青山もオープンして5年目だから、何か斬新なイベントが欲しかったところだから、進めてみてよ」という反応。すぐに手書きの企画書を作成して、社内の関連部門の部長たちに承認のサインをもらいに行きました。皆さん、反対意見はありません。やはり斬新な企画を欲していたのだと思いました。あとは、研究所メンバーが、ウエルカムプラザをデザイン室に見立てて、モックアップモデルや門外不出の試作モデルを相当数持ち込みました。

今では見られない手書きの企画書は、ホンダ総建企画部高山氏が1989年7月14日に作成したもの。内容には「今まで実際に見ることができなかったHGA(本田技術研究所朝霞)デザインルームを特設スタジオとして再現し、一般にも初公開する」と書かれている。

ウェルカムプラザ青山は1989年8月でオープンから4年が経過。総来場者数は250万人に達しようとしており、恒例となっていたサマーフェスティバルにもより力を入れたいということで「MOVE ホンダモーターサイクルデザインワールド」が実現するに至った。 会期は’89年8月1日~27日。

お客様に「こんなに多くの展示モデルを製作するには大変だったでしょうね?」と聞かれましたが、「これらは研究所の倉庫に眠っていたもので、製品につながらなかったモデルたちです。たぶん、一部の人しか見たことがないものばかりです」と答えました。そんな貴重な機会になりました。

この展示イベントは、公開に先駆け報道関係者にお披露目しました。お蔵入りになったモデルたちを公開するのは、前代未聞のことです。このMOVE展は1か月に渡り開催し、大変な好評を得ました。特に人気だったのは、来場者の要望に合わせた文字や数字をステッカーに仕立てることでした。デザイナーがカッティングマシンを操ってその場で作ってくれました。ステッカーを通して、デザインの世界を知ってもらえる機会にもなりました。この年に開催された、東京モーターショーのホンダ二輪ブーステーマは「MOVE」に決定。より広く二輪デザインの魅力を発信できました。研究所メンバーの熱すぎる想いや信念、そしてチャレンジに接していると、みんなが納得してくれるカタチにできるように頑張らなければならないと感じたイベントでした。

門外不出モデルの一部はこちら。上は「CO-29」で、空冷2スト単気筒90ccエンジンを搭載した近未来リトル・ランナバウト。暗証番号で始動するキーレス設定だった。下は「CR-1」で、1984年に作られたプロトタイプを展示。モトクロッサーCR500のエンジンを搭載し、HRCよりも先にツインチューブフレームを採用していた。

公開前日、報道向け発表会見の様子。左上写真が発起人の中野耕二氏(HGA)。元々は、ヤマハ製品を手掛けるGKダイナミックスが1988年に開催した「人機魂源」展に対抗する狙いもあったという。しかし、デザイン室の全貌を見せるという前代未聞の展覧会実現は研究所側で困難を極め、それでも邁進する中野氏の熱意に打たれた高山氏は会場担当として根回しに奔走したのだ。

【高山正之(たかやま・まさゆき)】1974年本田技研工業入社、狭山工場勤務。’78年モーターレクリエーション推進本部に配属され、’83年には日本初のスタジアムトライアルを企画運営。’86年本田総合建物でウェルカムプラザ青山の企画担当となり、鈴鹿8耐衛星中継などを実施。’94年本田技研工業国内二輪営業部・広報で二輪メディアの対応に就き、’01年ホンダモーターサイクルジャパン広報を経て、’05年より再び本田技研工業広報部へ。トップメーカーで40年以上にわたり二輪畑で主にコミュニケーション関連業務に携わり、’20年7月4日に再雇用後の定年退職。【右】‘78~’80年に『ヤングマシン』に連載された中沖満氏の「ぼくのキラキラ星」(写真は単行本版)が高山氏の愛読書で、これが今回の連載を当WEBに寄稿していただくきっかけになった。


●文/写真:高山正之(本田技研工業) ●写真:星野敦(2枚目画像) ●編集:市本行平(ヤングマシン) ●協力:本田技研工業/ホンダモーターサイクルジャパン ※本内容は記事公開日時点のものであり、将来にわたってその真正性を保証するものでないこと、公開後の時間経過等に伴って内容に不備が生じる可能性があることをご了承ください。※掲載されている製品等について、当サイトがその品質等を十全に保証するものではありません。よって、その購入/利用にあたっては自己責任にてお願いします。※特別な表記がないかぎり、価格情報は税込です。

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