ウエルカムプラザで鈴鹿8耐生中継

強いホンダを見てもらう新たな試みを青山から発信【ホンダ高山正之のバイク一筋46年:第5回】

ホンダ広報部の高山正之氏が、この7月に65歳の誕生日を迎え、勇退する。二輪誌編集者から”ホンダ二輪の生き字引”と頼りにされる高山氏は、46年に渡る在社期間を通していかに顧客やメディアと向き合ってきたのか。これを高山氏の直筆で紐解いてゆく。そして、いち社員である高山氏の取り組みから見えてきたのは、ホンダというメーカーの姿でもあった。 連載第5回は、ウエルカムプラザ青山での鈴鹿8耐生中継、F1ブーム時代のイベント企画について振り返る。

1986年7月に、モーターレク本部から青山本社ビルなどを管理する本田総合建物に異動し、ウエルカムプラザ青山の企画担当になりました。これまで経験してきたノウハウを活かしてほしいというものでした。まず最初に取り組んだのは、7月後半に開催される鈴鹿8耐の衛星生中継の企画書を作成することでした。レース主催者と衛星中継の会社とは話がついているものの、社内の関係部門に見せる企画書が何もできていないということでした。私が異動してくるのがわかっていましたので、それから特急仕事でやらせようと。まさしくそれは特急仕事でした。手書きの企画書を作り、社内関係部門の部長から承認のサインを取り付けるまでが仕事です。

この年は、青山と多摩テックの2か所で開催し、青山は入場無料にしました。ウエルカムプラザには、二輪専用駐車場は数台程度しかなかったため、バイクで来場するお客様の駐車場を確保しなければなりません。鈴鹿サーキットに行けなくても、青山で少しでも臨場感を味わっていただくためには、駐車場は必須でした。まず、地下1階の四輪駐車場を全て二輪に開放しました。300台くらいは駐車できます。そして歩いて5分程度のところに、NTTの倉庫があります。衛星回線で仕事を行う関係から、この倉庫の駐車場を臨時として借用することができました。ここには、四輪で来たお客様にもご案内できます。会社の敷地に、直径5メートルほどのパラボラアンテナが設置され、回線が束になってプラザに流れ込みます。映像は、プラザの9面マルチビジョンをメインに、プラザの外にもモニターを6台ほど。2階の商談ロビーに2台、大会議室のホンダホールに4台、4階の特別ルームに2台、6階の社員食堂に4台など、考えられる場所にモニターを設置しました。そして、観客用の椅子もレンタルで補充しました。入場無料といっても、PRを兼ねた入場整理券を作って配布しました。この券を持っていなくても入場できるのですが、椅子席に優先的に座れるとか、特典も用意しました。そして、食事の手配です。特別に6階の社員食堂で昼食をとっていただけるように、食堂運営会社と調整して、メニューを決めて準備に入りました。もちろん、昼食は有料です。

衛星回線のテストも完了して、あとはお客様を待つばかりです。そろそろ夜も更けてきましたので、バイクで家路に向かおうと準備をしていると、プラザの周りにバイクウエアに身を包んだ人たちがいます。23時を回った頃でしょうか。「すみません。もうプラザは閉館しているのですが」と声をかけると、「明日の鈴鹿8耐を見に来たのですけど、どこに並んだらいいのでしょう」という予想もしなかった答えでした。早速責任者が気を利かせて、万一雨が降っても濡れない場所を確保しました。そして夜中でもトイレを使用できるように、一部のドアを開放しました。これで、ようやく家路につくことができました。

本番の翌日は、私が到着したころには、ビルを取り囲むくらいのお客様が並んでいます。バイク用の駐車場は早めに開けてもらい対応してもらいました。我々スタッフ全員にとって初めてのことなので、ある程度は想定していましたが、お客様の期待度や来場数など、全てが想定外でした。

スタートの11時半には、どの会場も満員です。我々も初めて衛星生中継で鈴鹿8耐のスタートを見ることになります。心配していた来場者数への不安は消えましたが、スタートの後は、「果たしてホンダは勝てるのか? もし勝てなかったときは、エンディングをどうしようか」という不安が高まってきました。私は、第1回の1978年から台風直撃の1982年まで鈴鹿サーキットで見ていました。前年1985年は、ロバーツ/平組がゴール30分前までトップを走行したもののトラブルに見舞われ、ガードナー/徳野組が優勝。ホンダの絶対的な強さは年を追うごとにライバルに詰められていました。

1985年の鈴鹿8耐は、ゼッケン21番のK・ロバーツ/平忠彦組(ヤマハ)がスタートに躓きつつも、鬼神の挽回でトップを奪取し、残り30分でエンジントラブルによるリタイヤという劇的な幕切れとなった。優勝したのは、ゼッケン3番のW・ガードナー/徳野政樹組(ホンダ)だが、ヤマハの脱落で得た勝利だった。

そんな状況ですから、ガードナー/サロン組の快走も油断はできません。「もし負けたら、来年の衛星生中継はないだろうな」と考えたりしていました。夕闇が迫っても、鈴鹿の熱い戦いは続きます。ようやく勝負がつき、ヤマハのロバーツ/ボールドウィン組を退けて優勝のゴールを切りました。プラザのお客さまも大喜び。表彰式と花火をマルチビジョンで放映した後にエンディングとなりました。我々スタッフは、バイクで帰るお客様に手を振って感謝を伝えました。来場者の集計は、出たり入ったりする人もいるため正確には計測できませんが、2万人に迫る勢いでした。

ヤマハが満を持して鈴鹿8耐にワークスマシンFZR750を持ち込んだ翌1986年は、ホンダRVF750(NW1C)が圧倒的な速さを見せつけ、W・ガードナー/D・サロン組がポール・トゥ・ウィンを達成。ヤマハのK・ロバーツ組は転倒リタイヤ、同社もう1台の平忠彦組はエンジンブローに見舞われた。

1986年に始まった鈴鹿8耐衛星生中継は、その後も毎年休まずに開催されてきました。私が担当した1993年までは、8戦4勝という成績でした。ホンダが半分も負けていたのです。でも、エンディングでは、お客様の拍手があり、「やっぱり開催してよかった」と感じられるイベントになりました。当時は、二輪ジャーナリストの人たちもプラザに来て、レース状況を取材されるなど、貴重な生中継でした。青山の夏の風物詩として、これからも継続されることを願っています。

高山氏が立ち上げに携わった鈴鹿8耐生放送は現在も継続されており、こちらは2018年の様子。「LIVE in AOYAMA 鈴鹿8耐パブリックビューイング」として、レースファンが盛り上がる場となっている。映像はCSチャンネルの生放送を流しており、当時のように巨大なパラボラアンテナからの配線を引くようなことはない。

二輪ロードレースだけではなく、当時のホンダはパリ・ダカールラリーでも強さを発揮し、’86~’89年に4連覇を達成。これも、ウエルカムプラザ青山でファンイベントを開催して、選手との交流の機会を用意した。写真の’87年は、優勝したシリル・ヌブー選手が来日。

(左)現在に至るホンダ青山本社ビルは1985年8月に竣工。同時に1階に「Honda ウエルカムプラザ青山」がオープンした。(右)高山氏がそれまで勤務したモーターレクリエーション推進本部が入っていた原宿本社ビル。’74年からこのヤシカビルをホンダの本社としていたが、’85年に青山本社ビルに統合され、現在は京セラ原宿ビルとなっている。

F1ブームの真っただ中で

ホンダが初のF1コンストラクターズチャンピオンを獲得した1986年から、F1を撤退した1992年までの7年間は、ウエルカムプラザでもF1のPRにあの手この手で応えていました。私に与えられた使命は、F1レース翌日の月曜日のお昼休み時間に、フジテレビの中継番組を15分にまとめて、マルチビジョンで放映することでした。フジテレビに録画テープを取りに行ったのでは、間に合いません。モータースポーツ部門が交渉してくれて、担当者が編集したものを放映しても良いことになりました。そこで、毎戦自宅のテレビで見ながら録画です。そのテープを会社にもっていき、編集機械で15分以内にまとめる作業が待っています。番組のテーマ曲であるT-SQUARE「TRUTH」は、カットせずにそのままです。

前夜に見たシーンを思い出しながら、あの追い抜きシーンは絶対入れよう…などとやっていますと、15分では収まりません。ウエルカムプラザに来場する近隣の会社員が見るのには、15分くらいがちょうど良い長さです。いつも、12時から12時15分までのNHKニュースが終わった後に放映するのが、タイミングとして最も良かったのです。NHKニュースが流れると、さあ大変。上司から「高山君。みんな待ってるよ。早くね」と催促が来ます。このシーンを入れないとお客様が納得しないんだろうなぁ…などと考えつつ、タイムリミット。ホンダレディ(現ホンダスマイル)がアナウンスします。「皆さま、お待たせいたしました。これより、昨日行われましたF1●●グランプリのダイジェストを放映いたします。時間は約15分です。最後までお楽しみください」私がそれに合わせて、ビデオデッキのスタートボタンを押します。TRUTHのテーマ曲が流れると、私も解放され、昼ご飯を食べられます。でも最後まで見ないと何が起きるか分かりませんから、見続けたまま昼ごはんを逃してしまうことも結構ありました。

また、イベントも大盛況です。中嶋悟選手がF2チャンピオンを獲得した年のトークショーは、100名くらいの来場者でしたが、’87年にF1ドライバーの中嶋悟選手として招いたトークショーは、ウエルカムプラザ始まって以来の濃密状態。これ以上は入れません。といった具合で危険すら感じるほどでした。この経験を踏まえて、翌年からは2階の大会議室を使い、1日2回のトークショーを企画しました。

入場できるのは、往復はがきで申し込みされ、当選した方のみです。一回あたり400名でした。会社の配送センターから「段ボールが10箱ほど届いているので取りに来てほしい」と電話があり、身に覚えがないのですが行ってみますと、それは往復はがきがぎっしり詰まった段ボール箱でした。すべて中嶋選手のトークショーに応募された方のはがきです。800名のところに、たしか6万枚届いたと記憶しています。何日もかけて、仕分けをしながら抽選です。当選者には発送をしなければなりません。このような準備を経て、無事にF1中嶋選手のトークショーは終了しました。 私も、1987年から1990年までは、毎年鈴鹿サーキットでF1GPを観戦しました。結構なお金を使いましたが、強いホンダを見ることが生きがいでもありました。

日本にF1ブームをもたらした中嶋悟選手の1988年シーズン後のウエルカムプラザ青山 F1フォーラムでの記念写真。中嶋選手は’88年、ロータス・ホンダで2年目のシーズンを戦い、日本GPで予選6位になるなどの活躍を見せた。中嶋選手の左側に写っているのが高山氏だ。

【高山正之(たかやま・まさゆき)】1974年本田技研工業入社、狭山工場勤務。’78年モーターレクリエーション推進本部に配属され、’83年には日本初のスタジアムトライアルを企画運営。’86年本田総合建物でウェルカムプラザ青山の企画担当となり、鈴鹿8耐衛星中継などを実施。’94年本田技研工業国内二輪営業部・広報で二輪メディアの対応に就き、’01年ホンダモーターサイクルジャパン広報を経て、’05年より再び本田技研工業広報部へ。トップメーカーで40年以上にわたり二輪畑で主にコミュニケーション関連業務に携わり、’20年7月4日に再雇用後の定年退職。【右】‘78~’80年に『ヤングマシン』に連載された中沖満氏の「ぼくのキラキラ星」(写真は単行本版)が高山氏の愛読書で、これが今回の連載を当WEBに寄稿していただくきっかけになった。


●文/写真:高山正之(本田技研工業) ●編集:市本行平(ヤングマシン) ●協力:本田技研工業/ホンダモーターサイクルジャパン ※本内容は記事公開日時点のものであり、将来にわたってその真正性を保証するものでないこと、公開後の時間経過等に伴って内容に不備が生じる可能性があることをご了承ください。※掲載されている製品等について、当サイトがその品質等を十全に保証するものではありません。よって、その購入/利用にあたっては自己責任にてお願いします。※特別な表記がないかぎり、価格情報は税込です。

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