イーハトーブ発売からモトリンピック開催へ

仕事と趣味の狭間でトライアルに没頭【ホンダ高山正之のバイク一筋46年:第3回】

ホンダ広報部の高山正之氏が、この7月に65歳の誕生日を迎え、勇退する。二輪誌編集者から”ホンダ二輪の生き字引”と頼りにされる高山氏は、46年に渡る在社期間を通していかに顧客やメディアと向き合ってきたのか。これを高山氏の直筆で紐解いてゆく。そして、いち社員である高山氏の取り組みから見えてきたのは、ホンダというメーカーの姿でもあった。 連載第3回はトライアル普及に取り組んだ時代について振り返る。


●文/写真:高山正之(本田技研工業) ●写真:藤田秀二(国際スタジアムトライアル) ●編集:市本行平(ヤングマシン) ●協力:本田技研工業/ホンダモーターサイクルジャパン ※本内容は記事公開日時点のものであり、将来にわたってその真正性を保証するものでないこと、公開後の時間経過等に伴って内容に不備が生じる可能性があることをご了承ください。※掲載されている製品等について、当サイトがその品質等を十全に保証するものではありません。よって、その購入/利用にあたっては自己責任にてお願いします。※特別な表記がないかぎり、価格情報は税込です。

1979年、トライアルの普及担当になりました。当時、トライアルの技術を身に着けるために、会社所有の軽トラックとレースマシンを借用して、神奈川県の早戸川トライアル場で練習していました。練習が終わると、トライアルライダー達が私のところに集まってきます。マシンをしげしげと眺めています。聞いてみますと、私が借りていたトライアルマシンは、元RSC契約ライダーで、全日本チャンピオンも獲得した近藤博志氏が乗っていたマシンと分かりました。へたくそな初心者ライダーが、ワークスマシンに乗っていたのですから、さぞかし奇妙に映ったのだと思います。

その当時は、トライアルを楽しみたいと思っていても、中古車のTL125を探すしかありませんでした。そのような環境の中、本社の営業部門から、TL125の再販売について研究所に提案がありました。その会議の席上に、トライアル普及担当として出席しました。この会議の決裁者から「技術的には問題はないが、日本でどれだけの市場があるのか? 最低でも1年で3000台は確保できないとOKできない」とコメントがありました。営業部門の担当者は、「では、3000台の販売見込みがあれば検討していただけるのですね」という流れで、本社側で3000台の根拠を研究所に提示する必要に迫られました。

本社に帰り、所属長に報告すると、「では、高山君が全国のモーターレクショップに電話して、何台注文されますか、と聞き取りなさい」というアドバイスを受けました。モーターレクショップとは、モータースポーツやツーリングなどに熱心な販売店様で、リスト化していました。北海道から順番に、モデル概要とおおよその価格を説明して、発売されると仮定して、1年間で何台注文いただけるかを、1店、1店聞きました。ある販売店では、「そうだねぇ。少なめだけれど100台かな」という、信じられない反応。2日程度でまとめた数字は、3000台に達していました。電話だけの仮の数字ですが、これも一因となって開発がスタートしました。

1979年のイーハトーブトライアル大会に出場する高山氏。マシンはXL125Sをトライアル風にカスタマイズ。すでに新車でトライアル車が買えない時期で、翌年は中古のTL125改で参戦した。

1981年、TL125の後継である「イーハトーブ」はトライアル車ではなく、トレッキングバイクとして発売されました。これを機にトライアルの普及活動を盛んにしなければなりません。イーハトーブは、本格的なトライアル走行というよりは、公道を利用しながらの”トライアルごっこ”に向いた性格です。カタログではトレッキングバイクと紹介しています。私は、1979年にXL125S改で、そして翌年の1980年にTL125で、1981年には待望のイーハトーブで、イーハトーブトライアル大会に参加しました。岩手県の牧歌的でかつ雄大な景色を見ながらのトライアルは格別でした。東京近郊でもイーハトーブを使ったレジャーができないものかと思案していました。

あたりを付けたのは、モトクロスのメッカとして人気を集めていたセーフティパーク埼玉近郊です。ここで、レッドホンダミーティングを開催するときに、モトクロスだけでなく、トライアルファンにも楽しんでいただきたいという趣旨で「イーハトーブミーティング」を企画運営しました。まずは、新車で購入したイーハトーブでの試走です。セーフティパーク埼玉を起点として、入間川沿いの河川敷の道路などを走りながら、全長約20キロのイーハトーブコースを設定しました。5か所ほどセクションを設けて、採点してもらいます。岩手とは比較できませんが、気分はツーリングトライアルです。このような遊びを試してみて良かれと思ったことは、全国の支店や代理店経由で販売店の方々にも遊び方について伝えられたことです。

【HONDA IHATOVO(イーハトーブ) 1981年式】1973年に日本初のトライアル公道車として発売されたバイアルスTL125の後継機。カタログには「ツーリングマシンとトライアルマシンの新しい結合」とPRされた。写真は高山氏で、イラスト用に使うウエア写真の撮影時のもの。

一方でこのミーティングは、「走っている人しか楽しめない」という声もあり、1982年にはゲーム感覚を取り入れた「モトリンピック」なる競技を試行錯誤しながら実施しました。イーハトーブで、人工セクションを通過しながらタイムも競うというものです。これは、スピード感がありますから見ている人も楽しめ、しかも進行も早いです。しかしながらセクションを造るノウハウや機材が無いとできませんので、イベント毎に出張して運営をお手伝いしていました。そして、私が最初にトライして要領を説明するのが役目でした。私が作ってさんざん練習したセクションですから、実力以上のテクニックが発揮できました。

イーハトーブ発売前の社内の反応は、「3000台に達すれば大健闘だね。そこまで売れなくても仕方ないね」というもの。モーターレク本部の活動も後押しし、発売1年間で9000台という、社内関係者の予想を大きく上回りました。当時の発表リリースには、年間4800台の計画台数がありますが、計画の約2倍が販売されました。このヒットが1983年4月に発売し、トライアルブームを巻き起こしたTLR200につながっていきます。

1982年、モトリンピックでデモ走行する高山氏+イーハトーブ。 1973年にバイアルスTL125の発売と同時にモーターレクリエーション推進本部が発足し、鈴鹿サーキットなど全国20か所以上に「ホンダバイアルス・パーク」が設置された。マシンだけでなく乗る場所を提供したのだが、高山氏はエンターテイメント要素も加えている。

モトリンピックでルール説明をする高山氏。バイアルスパークとともにトライアルの普及に乗り出したTL125は徐々に下火になり、1979年に生産終了に。一方、後継機のイーハトーブは好調なセールスを記録。’70年代からの普及の取り組みが、’80年代の試行錯誤を経て花開くことになったのだろう。

その伏線として1983年1月、日本で初めてスタジアムトライアルを開催することになり、企画から運営まで携わることになりました。HRCが設立された1982年に世界チャンピオンを獲得したエディ・ルジャーン選手を招聘しての国際大会。多摩テックに仮設のスタンドを設置して、人工セクションによるエンターテイメントにあふれた大会です。企画から競技運営までに関わりました。TLR200のプロトタイプ出場など、話題も多くあり、日本のトライアルに大きなムーブメントを起こした大会になりました。1メーカーの枠にとらわれずに、トライアルの魅力やすごさを、広く伝える意義深いものになりました。

1983年1月に、東京都日野市にあった多摩テックで初めて開催されたスタジアムトライアルに、’82年の世界チャンピオンであるエディ・ルジャーン選手が参戦。ワークスマシンRTL360で最高峰のテクニックを披露した。同じく世界戦に参戦していた服部聖輝選手には発売前のTLR200プロトタイプで参戦させ、話題作りも欠かさなかった。

翌1984年に多摩テックで2日制となったスタジアムトライアルでの黒山一郎選手。人工セクションを設置し、観客のアクセスのいい所で実施することで集客に結びつけるスタジアムトライアルは、当初、晴海で開催される予定だった。開催に向けた試行錯誤についての高山氏の手記は、トライアル誌『ストレートオン』’20年5月号に詳しい。

自分で作ったトライアルセクションにはまる

1983年に多摩テックで初めて開催された国際スタジアムトライアルは、1984年、フジテレビ主催の国際スポーツフェアにも波及します。会場は、原宿本社から歩いてもいける距離です。ホンダではトライアルをスポーツとして認知していただくためのイベントを企画することになりました。代々木体育館の手前には、100人くらいの観客スペースも確保できる広場があります。体育館に入る前に、トライアルの魅力を少しでも知っていただきたいと、ミニサイズのスタジアムトライアルセクションを作って、披露することにしました。セクションを作るのは自信がありました。国際A級の丸山胤保(たねやす)選手が鮮やかにクリーンできる、少し難解なセクションです。本番の前日に、アイデアマンの本部長から呼び出しがありました。

本部長「高山君、どんな状況かね」
私「はい。丸山選手が華麗にクリーンできる設定です。お客さんも喜ぶと思いますよ」
本部長「そうじゃないんだ。丸山選手はチャンピオンだから、上手いに決まっている。その凄いテクニックがお客さんには伝わらないんだ」
私「でも、他に方法が…」
本部長「高山君は、トライアルライダーだよね。ノービスかもしれないけど、自分が造ったセクションだからある程度走破できるのでは。その後に丸山選手が走ると、違いが分かるから、お客さんはもっと喜ぶに違いない」

そんなやり取りが交わされた後に、翌日から本番です。デモンストレーションエリアには、解説者が居てトライアルテクニックについて観客に説明します。こんな感じです。「さあ、いよいよトライアルのデモンストレーションを見ていただきましょう。初めは、一般的なトライアルライダーからです。一般的と言いましても、日夜訓練に明け暮れるほどのライダーですから、相当のテクニックを持ち合わせています」とハードルが上がります。

さあ、私が造ったセクションにトライします。頭の中ではオールクリーンです。しかし、最初のセクションから躓いてしまいます。どんなに必死にやっても攻略できません。丸太から落ちるわ、台には上がれないわで、何とかゴールにだけはたどり着きました。お客さんには、必死に走っても攻略できない”一般のトライアルライダー”を見て、「難しそうだ」という先入観が与えられました。

そして、全日本チャンピオンの丸山選手の登場です。お客さんは固唾をのんで注目します。丸山選手にしてみれば、片目をつむっても攻略できる難度です。最初のセクションから鮮やかなクリーンです。解説者も盛り上げます。お客さんからは大歓声です。そして、次々と華麗にクリーンし、完璧なゴールを決めますと、会場は拍手喝采です。

本部長は見抜いていました。真剣にやっても成功できないシーンを見せることで、チャンピオンの凄さが際立つと。総責任者であった当時の本部長の哲学を学んだかけがえのない経験でした。その後トライアルは、フジテレビが主催する「国際スポーツフェア」の競技種目として採用され、’85年には念願の代々木体育館の中で行われることになりました。

代々木体育館の前に自ら設置したミニサイズのスタジアムトライアルセクションに臨む高山氏。マシンは2ストロークのTLM50。スタジアムトライアル初開催の1983年には「都心だから」という理由で晴海会場での実施が見送られたが、翌年に念願の都心、その後、’85年には代々木体育館屋内での開催が実現したのだ。

本田宗一郎さんがトライアルのデモンストレーションを見た

1985年8月19日、青山本社の1階にある「Hondaウエルカムプラザ青山」がオープンしました。オープニングフェアの企画では、モーターレク本部のトライアル担当としてデモンストレーションを仕掛けました。ピロティというスペースに、私が手がけた移動・組立式の人工セクションを持ち込みました。ライダーは、世界で活躍する服部聖輝選手です。デモ走行の解説は、私がシナリオを書き自らマイクを片手にあれこれ話します。デモ走行エリアをお客様がぐるっと取り囲みます。服装から、ほとんどトライアルを知らないというお客様です。

その中に、派手なアロハシャツを着た本田宗一郎さんが居ました。大勢のお客様の中でもひときわ目立っていました。ちょっとしたアクションでも大声を上げて喜んでいる姿を見ますと、こっちも張り切ってしまいます。この1年後に、モーターレク本部から、ウエルカムプラザ青山を運営する本田総合建物に異動することになるわけですが、この時の仕事が異動に影響したのかもしれません。仕事の内容が「遊び人」ですから、ウエルカムプラザ青山に来るお客様を遊ばせるのは得意だろうと。

ウェルカムプラザ青山でのセクションは、高山氏が考案した組み立て式や移動式のものも一部使われていた。マシンは1985年3月に発売されたばかりの2ストローク車TLM200Rで、山本弘之選手がデモンストレーションを行った。多摩テック→代々木体育館→青山一丁目とトライアルの開催場所がどんどん都心に進出していった。

【高山正之(たかやま・まさゆき)】1974年本田技研工業入社、狭山工場勤務。’78年モーターレクリエーション推進本部に配属され、’83年には日本初のスタジアムトライアルを企画運営。’86年本田総合建物でウェルカムプラザ青山の企画担当となり、鈴鹿8耐衛星中継などを実施。’94年本田技研工業国内二輪営業部・広報で二輪メディアの対応に就き、’01年ホンダモーターサイクルジャパン広報を経て、’05年より再び本田技研工業広報部へ。トップメーカーで40年以上にわたり二輪畑で主にコミュニケーション関連業務に携わり、’20年7月4日に再雇用後の定年退職。【右】‘78~’80年に『ヤングマシン』に連載された中沖満氏の「ぼくのキラキラ星」(写真は単行本版)が高山氏の愛読書で、これが今回の連載を当WEBに寄稿していただくきっかけになった。

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