バイクの楽しみを親子&女性にも

バイクと人を結びつける手探りの試み【ホンダ高山正之のバイク一筋46年:第2回】

ホンダ広報部の高山正之氏が、2020年7月に65歳の誕生日を迎え、勇退する。二輪誌編集者から”ホンダ二輪の生き字引き”と頼りにされる高山氏は、46年に渡る在社期間を通していかに顧客やメディアと向き合ってきたのか。これを高山氏の直筆で紐解いてゆく。そして、いち社員である高山氏の取り組みから見えてきたのは、ホンダというメーカーの姿でもあった。 連載第2回はモーターレクリエーション推進本部配属時代を振り返る。


●文:高山正之(本田技研工業) ●編集:市本行平(ヤングマシン) ●協力:本田技研工業/ホンダモーターサイクルジャパン ※本内容は記事公開日時点のものであり、将来にわたってその真正性を保証するものでないこと、公開後の時間経過等に伴って内容に不備が生じる可能性があることをご了承ください。※掲載されている製品等について、当サイトがその品質等を十全に保証するものではありません。よって、その購入/利用にあたっては自己責任にてお願いします。※特別な表記がないかぎり、価格情報は税込です。

1978年、モーターレクリエーション推進本部に配属され、最初に見せられたのはアメリカのYMCAの活動映像でした。YMCAのロサンゼルス支部に勤務している青年ケース・デービス氏が提案して取り組んでいた「Y-RIDERS」という、不良少年達をバイクで更生するプログラムです。傷害事件に加え、麻薬の使用など日本では考えられない不良度です。少年達が刺激を受け冒険心を駆り立てられるものは、野球やバスケットボールではなく、バイクでした。1969年に、テストケースとしてアメリカンホンダが用意した50台のバイクによってはじめられました。QA50やミニトレール(日本ではモンキー)、DAXなどの小さなバイクです。

限られたコースを、走行ルールに従ってバイクに乗る楽しさを身に着けることで、ルールの大切さや、麻薬以外にも楽しい世界があることを知り、更生していったのです。そして、自分たちが乗るバイクの整備を通して、責任ある仕事を理解していくのでした。この取り組みは、全米に広がり、アメリカンホンダは1万台のバイクを提供してこの活動をサポートしていきます。

YMCAは、Young Men’s Christian Association=キリスト教青年会の略称。布教ではなく”愛と奉仕の精神”を実践することを旨とし、行政などが取り組まない教育活動の一環として「Y-RIDERS」が提案され、アメリカンホンダがサポートするに至った。

本部長は、「少年達にバイクを乗せることは、日本では逆効果になってしまう可能性がある。日本でも次第に親子の会話が少なくなっている。バイクを親子の絆づくりに役立てる活動を任せたい。バイクの指導は、本田航空で貸出用バイクの整備をしている唐沢栄三郎さんが適任だろう。彼はモトクロスの国際A級でテクニックは申し分ない。そして優しい性格だから親御さんに信頼されると思う。クラブ組織などをつくる方法もあるね」と、これ以上具体的な指示はありません。ですが、私にとっては雲をつかむようなものです。

研究所で子供たちにバイクの手ほどきをしている方に相談しても、「そんなに甘いものじゃない」と突き放されます。週末はモトクロス場のセーフティパーク埼玉に赴き唐沢選手に挨拶した後は、モトクロス場を見ながら「どうやればカタチにできるんだろう?」と途方に暮れていいました。答えも見つからず、ただ佇むだけの日々が続いたある日、コース脇でぼーっとしている私に話しかけてくれる親御さんがいました。

親御さん「すみません。ホンダの人ですか。桶川で子供たちのバイクスクールを計画しているという噂を聞いたのですが、ご存知ですか」
私「はい、私はホンダの人間でして、唐沢選手に先生役になってもらうことまでは決まったのですが、どうやって活動したらよいのかがわからないんです」
親御さん「ちびっこクラブを作ると聞いたのですが、クラブ員になればスクールなんかに入れるのでしょうか」
私「まだ決めていませんが、クラブを作るとしたら、親子で参加していただくのが基本になります。子供だけのクラブではありませんので」
親御さん「では、クラブに入れてください」

というような会話があって、クラブ名も決まっていないのに、入会第1号のご家族が現れました。そのあとは、ともに同じ思いを持つ親御さんたちから入会の希望があり、あっという間に20家族を超えることになりました。クラブ名は、本田航空のパイロットクラブのアルバトロスにちなんで、「アルバトロスミニライダースクラブ」と名付けました。クラブの会長には、親御さんになっていただき、会則も決めました。先生は唐沢氏。事務局は私1名です。セーフティパーク埼玉(桶川)を活動の場として、オフロードバイクで親子のコミュニケーションを深めていただく活動として、毎月1回のミーティングを開催しました。

ホンダ社報 No.155(1979年11月号)の表紙を「アルバトロスミニライダースクラブ」が飾った。現在では各メーカーで当たり前のように開催される親子のバイク教室も、最初の立ち上げは暗中模索だったのだ。

こちらは社報の裏表紙。同編集後記では「表紙は、セーフティパーク埼玉でのチビッコライダー。彼等が大人になったとき、より楽しく二輪に乗れる社会、それをめざして活動していきましょう」と締めくくられていた。

マシンは、モンキー、XR80、CR80Rなど。このクラブの活動で、唐沢選手からオフロード走行の手ほどきを受けました。CR80Rを初めて乗った時に、80ccがこんなにすごい力があることに驚くばかり。模擬レースをすると、決まって何人かはスタートでフロントウイリー状態になり大転倒するほどにじゃじゃ馬なバイクでした。

時には、夏休み合宿として、テント泊と勉強の時間も設けました。算数が苦手な子には、容積を求める計算式で、自分のバイクの排気量を計算するテキストなども作りました。約3年の活動を行い、発展的解消となりました。 プロライダー養成のクラブではありませんでしたが、クラブ員から国際A級ライダーになり活躍した人も数名いました。

この活動が、航空会社の国際線で放映されるニュース映像の取材を受けました。国際線の機内だけで放映されるものですから、実際に見たことはありません。後日、会社の先輩が海外出張から帰国する便の中で、たまたま見たのだそうです。外国人が「日本では、子供たちに子供が教えているのか?」と不思議な様子でしたので、「いや、教えているのは大人だよ。小さいけどね」と返してくれたとの事。身長160センチの私は、子供にしか見えなかったのでしょう。

活動は’78~’80年の3年間。 親子で一つのことに夢中になって絆を深めるという、単に移動の道具としての域を超えたバイクの効能を発揮させる活動が実を結んでいたことは、子供たちの表情にも表れている。

女性にもツーリングの魅力を訴求

モーターレクリエーション推進本部では、ロードパルの発売後に、ロードパルと船の旅というバイクとフェリーの「コンビツーリング」の普及活動を1977年から実施していました。旅行の主催は、毎日新聞社系の旅行代理店で、ホンダとしてはロードパルの貸出と、参加者の運転指導を担当していました。これまで、北海道や九州をツーリングし、1979年、ようやく私に番が回ってきました。

旅の舞台は四国です。早速、四国の下見です。人生で初めて乗った飛行機は、羽田発高知行きのYS11機でした。高知営業所からロードパルを借用して、旅行代理店の担当とコースを下見しながら、昼食場所や宿泊場所などを確認します。3日間ほどで終了して、ツーリングに備えます。

ツーリング本番には、10名ほどの女性が参加されました。行きのサンフラワーのデッキでは、パルフレイによる船上でのレッスンです。バイクに一度も乗った事がない人もいて、苦戦。高知に到着後、翌日のスタート前に、朝の特訓です。ようやく、10名の隊列により、パルフレイでの四国4泊5日の旅は無事終了しました。今から思えば、リスクが多いイベントでしたが、免許さえあれば、小さなバイクでもフェリーを使えば大きな旅を楽しめる。という魅力を伝えることができたと思います。

1976年、ソフィア・ローレンのCM「ラッタッタ」で大ブームになったロードパルの発売で、多くの女性がバイクに乗るようになった。写真は、1978年発売のパルフレイでレッグシールドやフロントバスケットが標準装備の発展型。

後方右側が高山氏。この後、’80年代には女性も牽引役となって空前のバイクブームを迎えるが、’70年代後半のロードパルやヤマハのパッソルの存在がその呼び水になっていた。加えて、このような新しい取り組みも行われていたのだ。

初めて書籍のあとがきに名前が紹介された

1981年3月に、山海堂から太田克彦氏著作の『ロングロマンチックロード』という、ツーリングへいざなう書籍が発行されました。ツーリングの手引書として、初心者にもわかりやすい内容となっています。モーターレクリエーション推進本部でコンビツーリングや林道ツーリングトライアル(後述)などに仕事として携わった経験や、高校時代から趣味としてのツーリング体験などを取材でお話ししました。

本の一文を紹介すると、「ずっと以前からバイクに乗る人は、ファッションから年齢層、パーソナリティまでひとつの固定化された視点でとらえられてきた。映画にもオートバイは、青春もののある典型としてよく登場した。そして行きつくところ、マーロン・ブラント主演の『乱暴者』だった。

ところが(~中略~)買い物バイクとかファミリー・バイクと呼ばれているタイプや(~中略~)いろいろのバリエーションが登場してから、バイクをひとつのイメージでくくることが難しくなった。もちろんバイクに乗る人もいろいろの性格の人がいると考えたほうがいい。だからツーリングの楽しみ方も多様化してくる。本田技研のモーターレクリエーション推進本部が作成したツーリングの資料には、つぎのような分類があった」という前置きがあり、

  1. ディスカバーツーリング(近所の発見) 
  2. コンビツーリング(目的地までカーフェリーや貨車、またはトラックなどを組み合わせて利用するもの)
  3. ロングツーリング(長い日時を費やす)
  4. キャンプツーリング(テントで野営、自炊をする)
  5. グランドツーリング(海外を走る)

この5つのパターンが紹介されました。当時は、ツーリングの楽しさや有用性を広く伝えるために、理屈をつけて分類したものでした。それでもツーリングに限らず、私たちが模索しながら取り組んできたことは、バイクと人の新しい関係づくりに多少なりとも貢献できたのではないかと思います。

『ロングロマンティックロード』のあとがきに協力者として名前が記載され、「理屈抜きに嬉しかった」と高山氏。著者の太田克彦氏は、出版社での編集者経験を経てフリーランスとなり同書を執筆。 今読むと、膨大な取材と情報量に圧倒される。

【高山正之(たかやま・まさゆき)】1974年本田技研工業入社、狭山工場勤務。’78年モーターレクリエーション推進本部に配属され、’83年には日本初のスタジアムトライアルを企画運営。’86年本田総合建物でウェルカムプラザ青山の企画担当となり、鈴鹿8耐衛星中継などを実施。’94年本田技研工業国内二輪営業部・広報で二輪メディアの対応に就き、’01年ホンダモーターサイクルジャパン広報を経て、’05年より再び本田技研工業広報部へ。トップメーカーで40年以上にわたり二輪畑で主にコミュニケーション関連業務に携わり、’20年7月4日に再雇用後の定年退職。【右】‘78~’80年に『ヤングマシン』に連載された中沖満氏の「ぼくのキラキラ星」(写真は単行本版)が高山氏の愛読書で、これが今回の連載を当WEBに寄稿していただくきっかけになった。

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