誰も賛成してくれない?! 逆風スタートの”西風伝説”

始まりは”Z2復刻計画”だった!〈不滅の国産車黄金伝〉カワサキ ゼファー開発秘話

始まりは”Z2復刻計画”だった!〈不滅の国産車黄金伝〉カワサキ ゼファー開発秘話

カワサキZの系譜として、今も大人気のゼファーシリーズ。だが、大ヒットが約束されて誕生したかと思いきや、その生い立ちには隠された秘話が! ゼファー生みの親たちが平成時代に明かした貴重な証言を令和の時代に再び紹介しよう。


●まとめ:高野英治(ヤングマシン編集部) ●取材協力:プロショップKIYO(取材当時)

この記事はヤングマシン2008年10月号に掲載されたものを再編集して構成しています。

レプリカ全盛期に違う視点を持つ男がいた

1986年4月、それまでイギリスへ赴任していた中島直行氏が、日本国内でのマーケティングを担うカワサキオートバイ販売(現カワサキモータースジャパン)の販売推進部長に就任した。日本市場でどんなバイクが売れるのか? レーサーレプリカ全盛どころかこの後もさらに盛り上がらんと国内4メーカーがこぞって新型投入を続け、勢いを見せていたこの時に、すでにその男だけはまったく違う視点を持っていた。

【中島直行氏】1940年兵庫県姫路市生まれ。1965年川崎航空機工業入社。ゼファーを生み出したカワサキ国内モデルのヒットメーカー。1990年代以降も、エストレヤやW650など今のネオレトロブームを先取りした新機軸モデルの投入を実現させた仕掛け人。

「最初の着想は、Z2を限定1000台で復刻するというものでした。それで製造原価を計算したんですが、金型の金額をひとケタ間違えた。それを会議で当時の技術部長に突っ込まれまして、まともに計算したら1台当たり200万円ぐらいの単価になってしまった(笑)」

まだ大型バイクが限定解除を通してしか乗れなかった時代、選ばれしライダーたちが乗る硬派な象徴として、Zはレプリカ人気の裏で着実に人気を集め、中古車価格も上昇傾向の動きを見せていた。中島が立てた目論見では、1台100万円ほどのプライスをつけたプレミアム商品として復刻Z2が販売されるはずだったというが…。

「ただ、Z2の復刻版をそのまま出す案にも懸念はありました。高い金額で中古車を買ったユーザーから反感を買うだろうな、失礼だろうなと。それと、Zのクランクシャフトは組み立て式になっているんですが、これを再生産するとなると、うまくバランスを取るのにとても手間がかかるんです。昔の金型もとっくにないし、あったとしても製作コストは高くついてしまう」

1986年6月の出来事である。この案は残念ながら会議で却下され、安価な400cc案に切り替えられることとなった。

1973年に発売されたカワサキ750RS(Z2)。ゼファー開発の発端が”Z2復刻計画”だったとは驚きで、もし実現していたら…と感じる方も多いのではないか。

〈1986年〉ゼファー開発に至るカワサキ社内の動向まとめ

水冷のGPZ400Rが好調にセールスを伸ばしていた1986年、ゼファーへと繋がる商品企画はスタートした。そして中島さんの思いから3年後の1989年にゼファーはデビューする。

そしてZ2復刻計画は姿を変える

「さらにそれ以前、1982年か1983年ぐらいですかねぇ、当時の上司が『今後エンジンは水冷だけに整理して、一部空冷機種のエンジンを廃止しようか』と言いだしまして。理由は水冷化への移行、他機種にわたる金型のメンテ等ですが、私は大反対しました。商品が高価になり過ぎてしまうことを懸念したわけです」

その頃のカワサキと言えば、GPZ900Rを筆頭に、GPZ400&600R、GPZ250RにKR250、果てはAR125と、上から下まで水冷化に大きく舵を切る直前である。だが、水冷化で高性能を手にできた一方、中島が懸念したとおり、彼が販売推進部長に就任した1986年当時、巷を走る400ccスポーツ車の車両価格は70万円をオーバーせんとするまでになっていた。

「ここで私はいかにして安い商品を提供するかを考えたわけです。販売店で声を聞くと、とくに中年以上のユーザーは『乗りたいバイクがない』と。それに当時流行していたレーサーレプリカのポジションはキツすぎる。『こんなバイクには長時間乗れたもんじゃない』という声は社内でも上がってきてまして、メーカーは幅広い層のニーズに応えた商品を提供すべきだと。

そこで私は、空冷の400ccで、ごくスタンダードなバイクも用意しようと企画会議で提案したんですが、誰も賛成しない。当時の事業本部長に『どれだけ売る予定なのか』と聞かれて、私は『初年度5000台、2年目3000台、3年目2000台の合計1万台は売ってみせます』と啖呵を切った。すると『それならやってみろ』となりまして、この企画は通ったんですが、私には『安価で乗りやすく、老若男女が扱えるバイクなら必ず受ける』という自信がありました。これがゼファーのそもそもの発端なのです」

中島氏が選んだ空冷400。それはとりもなおさず直4を意味していた。クラス初のDOHCヘッドを搭載し、爆発的な人気を誇ったZ400FXから続く伝統ユニットだ。この時点で中島氏の頭に描かれていたマシンは、同時に廃案となったZ2とダブっていたのかもしれない。だが、中島氏の反対の影響もあり生き残った空冷直4ユニットを生かして、一体どんなバイクを実際に造ればいいのか?

開発のゴーサインは手にしたが、高性能化をひたすら追及するそれまでの流れに反する製品作りに、指令を受けた商品企画の吉田武氏をはじめ現場の開発陣たちは頭を悩まされることになる。

水冷のGPZ400Rが好調にセールスを伸ばしていた1986年に、ゼファーの企画はスタートした。

開発番号は究極の“999”

【吉田武氏】1949年香川県高松市生まれ。1972年川崎重工業入社。ゼファー400/750育ての親。品質保証や実験を経て、GPZ900R以降多くの商品企画に携わる。ゼファーの開発では、中島氏が道を作った “プライス400”を、Zイメージを強く意識しながら作り上げていった。後にゼファー(初代C1)を愛車とし、ふだんの通勤にも使用した。

中島氏の案は、“空冷400プライスバイク開発指令”という形で、川重商品開発課・吉田武氏の元に下った。「上から『安いバイクを造れ』という指示はあったけど、具体的に何をどうすればいいかは分からなかった。その答えを探すため右往左往したところから始まったんです」

下の図は開発当時における400ccクラスの勢力図である。シェアの6割近くをフルカウルのレーサーレプリカが占めていた時代で、カワサキはGPZ400Rが絶好調の頃。まだ“ネイキッド”という言葉すらなかったレプリカ全盛期に、プライス400の開発指令は下った。

「1986年の6月、東京の高円寺営業所でZ2に乗っていたセールスマンと話をしたのですが、そこで彼にZ2がいかに素晴らしいかを吹き込まれまして。絶対性能だけじゃなくて造型の良さとか、手をかける楽しみとかね。その時こういう世界もあるんやなと認識しましたね。そして彼と同じような考えを持つ人が意外に多いことも分かりました」

1987年4月にカワサキ社内で作成された、400ccマーケットの状況把握マップ。市場の6割以上を占める圧倒的なレプリカ全盛期に、”999”の位置づけを模索。狙うべき場所が定まり、 ゼファーの大まかなコンセプトが出来上がった(TTL=TOTALの略)。

商品化にあたり、Zのイメージを盛り込むという構想ができつつあった。「当時はゼファーと同じ1989モデルとして、ZXR400も同時進行で企画されていたんですが、開発の人材はむしろそちらに集中していました。一方でプライス400担当は、なんというか好き者の集まりでして(笑)。最先端を担う精鋭チームという感じじゃなかったですね。でも開発コンセプトにかける思いは熱く、開発番号を999にしました、究極のキューやと」

ゼファーは当時最新の技術で設計されたものの、目新しいメカニズムは何ひとつ持たなかった。だが、Zの血統を感じさせる、それでいて若々しいスタイリングは特筆に値する。

999のほぼ最終段階のスケッチ。さまざまな案が検討され、中にはダイヤモンドフレームやモノサス案もあった。このスケッチは左向きのため、マフラーが見えるように描かれている。

「デザインは山内リーダーを中心に、当時代前半だった植本/青木/玉島/猪野らがいました。そういえばマフラーにはこんな案もありまして…(と写真を見せる)」

お見せできないのが残念だが、エンジン下にサブチャンバーが設けられ、そこから左右に4本の細いテールパイプが出ていた。これは新しいマフラーのカタチではあったが、格好悪いと若手デザイナー勢の猛反対にあったという。

「当時販社にあったKFR=カワサキフレッシュレポーターという若手らの意見も、デザイナーと同じでした。それと乗り味についてですが、これを普通のテストライダーが評価したら、ボロンボロンに言われるのは明らか。そこで本機のコンセプトを理解してくれる人…、斉藤昇司氏を指名したのです」

■ゼファーが重要視したポイント

  • 美しい空冷直4エンジンの誇示
  • 各パーツの存在とその美しさの誇示
  • 流行に左右されないロングライフモデル
  • 常用域のスポーツ性重視
  • 楽なライディングポジション
  • Kawasakiイメージの雰囲気作り

カワサキによるゼファーの重要ポイント。レプリカとはまったく異なる価値観を追求したことが分かる。

生みの親も驚いた、まさかの爆発的ヒット

1988年9月、モックアップ最終版を事業部長が承認。プロジェクト999は折り返し地点を越える。しかし同時に、999の発案者である中島氏がアメリカに赴任。コンセプトを理解する売り手がいなくなってしまった。「技術やビジュアルの面で新規性がないので、販売からは発売直前まで『本当にこれで行くのか? 何か新しいセールスポイントはないのか?』と言われました。そういう商品じゃない、レプリカとは戦う土俵が違うんだ、と何度も説明したんですが、そのたびに販売計画台数は減っていきました」

左から商品企画を行った吉田武氏/エンジン設計の安近信氏/車体設計の藤本幸憲氏/デザイン担当の山内徹氏/ゼファー750の車体設計全般&サスペンション担当の永安 雅さんら、”好き者”たち(1992年撮影)。

逆風の中、コードネーム999は完成。しかし、名前がまだなかった。「認定申請の期限が近づく中で、どうしてもいいアイディアが浮かばない。そこでウチの広告宣伝を担当する会社のアメリカ人にモックアップを見せ、コンセプトを説明した上で案を数項目出してもらいました。そこに“Zephyr”があった!」

候補の中には、「ストレイファー」や「Z-コブラ」などもあったという。「販社向けの新年発表会ではすでに完成していたけれど、後任の担当は売れないだろうと判断して発表を控えたそうです(笑)。ま、それほど期待されてなかったんですな。媒体向けの発表会は東京のヒルトンホテルでやりましたが、明石から赴いたのは私と開発陣と広報マンぐらい。偉い人は誰も来てない」

ところが、これが異常なほど売れた。1989年(初年度)7300台/1990年1万3499台/1991年1万6261台/1992年1万6861台、そして5年目となる1993年は1万2906台。まさに大爆発だった。「アメリカでその報せを聞いたんですが、日本の雑誌を見るまでとても信じられなかったですね。まさかここまで売れるとは思ってもみなかった。中年以上が買うかと思ったら、若年層に人気が集中したのも驚きでした」(中島)

1989年に発売されたゼファーには、1979年発売のZ400FXを祖とするエンジンが搭載された。直4DOHCながら空冷2バルブというメカニズムは、水冷4バルブが当たり前となっていた1986年当時でも”過去のもの”と思われていた。中島さんの英断がなければ消えていたかもしれない。

国内400ccマーケット・ゼファー発売前後の動向

ゼファーがデビューした1989年を境に、レプリカの勢力が一気に衰退していくのが分かる。ゼファーは1990〜1992年までベストセラーとなり、以降はネイキッドとアメリカンの時代に突入していくのであった。

ZXR400の販売計画は年間約1万台。一方、ゼファーは年間1500台程度の目算でしかなかったという。嬉しい誤算は、Z2世代ではなく若者の圧倒的な支持。若手デザイナーの発奮がそのニーズを的確に捉えていたのだ。

「最初のラインでは生産が追いつかなくて、後に増産に対応して、年間1万5000台程度はいけるようになりました」(中島)

1988年の暮れに帰国した中島は、改めてエストレヤ/ZRX/W650の販売計画を推進する。

「正直なところ、ゼファーは“ひょうたんから駒”でしたね。ダメな子だと思っていたら意外に出世したというケースです。ある程度の見込みはあったにせよ、1万台も売れないだろう、せいぜい隙間を埋めるだけの商品…。そう思っていました」(中島)

【3兄弟でZ1/Z2レプリカ】400であるゼファーのヒットにより、引き続いてカワサキは 1990年に750、1992年に1100を投入。3兄弟が揃うことで、Z1/Z2レプリカとしてのキャラクターを確固たるものとした。

吉田武氏/中島直行氏

 レプリカブームの衰退とシンクロしたゼファーは、絶好のタイミングで誕生し、以降の価値観は大きく変貌した。当時は「ゼファー現象」などと呼ばれ、ある4輪メーカーはその好調ぶりを解明するためにマシンを全バラしたという。もちろん部品を観察したところで、そこに秘密は何もない。中島はゼファーを「ただのありふれたバイク」だと言う。だがそれこそがユーザーの求めていたバイクであり、後のゼファー750/1100やZRXなどの平成版Zを生み出す原点となった。

ネイキッドブームが去った後も、ゼファーは排ガス規制が押し寄せるまで長きにわたり生産を継続。4バルブとなったχ(カイ)の2008モデルでファイナルを迎えたが、その直後から中古がプレミア価格になったのは、もはや説明するまでもないだろう。

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