
1970年代のスーパーカーブーム。主役はたいてい、フェラーリ512 BBやランボルギーニ・カウンタックだったかと。跳ね馬や猛牛たちはエキゾチックカーとしての圧倒的な存在感を示し、当時のちびっ子たちを熱狂させたのですが、その陰で野に咲く一輪の花かのようなマシンもありました。まったく異なる思想が込められ、理性的かつ官能的な大人のグランツーリスモ、それがマセラティ・ボーラという地味派手なスーパーカーなのです。
●文:石橋 寛(ヤングマシン編集部) ●写真:RM Sotherbys
技術的チャレンジ精神の結晶
まずは、特徴的なスタイリングこそボーラの目玉。ウェッジシェイプの鋭利なプロポーションでありながら、ステンレス製ルーフの質感や柔らかなリアフェンダーの曲線に、ジウジアーロの気品が漂います。とはいえ、この美貌の下に隠されたメカニズムこそが、自動車史に残る「技術への飽くなき挑戦」の塊だったのです。
ジウジアーロによるスタイリングはエキゾチックより、むしろシックなグランツーリスモを目指したと言われます。
ルーフはステンレスが使われ、絶妙なコントラストを醸しています。素地の質感もしっかりレストアされて、実に美しい仕上がり。
当時のマセラティは資金難からシトロエンの傘下に吸収されていた時期。好意的に受け取れば、モデナの伝統的なクラフトマンシップと、パリの先進的なハイドロリック・テクノロジーのハイブリッドが生まれる下地。その結果、ボーラにはシトロエンの超高圧油圧システム「LHM」が車両全体に張り巡らされることに。
その白眉はなんといってもブレーキで、一般的なマスターバックによる倍力装置ではなく、緑色の鉱物油(LHM)を満たした高圧アキュムレーター(蓄圧球)から、常に強大な圧力が送り込まれる仕組み。ブレーキペダルを踏むと、ペダルはほとんど沈み込むことなく足の裏の「踏力(圧力)」だけで制動力をコントロール可能な、「ゼロ・トラベル」なタッチを実現しています。
跳ね馬や猛牛が追随をあきらめた⁉
当時のメディアやライバルはこれに驚くとともに、戸惑ったといいます。イギリスの専門誌は「最初は慣れが必要だが、馴染めば通常のブレーキが恐怖に思えるほど正確」と絶賛。一方でフェラーリやランボルギーニは、「複雑すぎるフランス製システムは重量を増やし、路面のダイレクト感を損なう」と冷徹に無視を決め込んだのでした。イタリアの技術者にとって、ハイドロの配管回路はブラックボックスであり、信頼性の面からも追随することを嫌ったのでしょう。
しかし、マセラティとシトロエンの狙いはピュアスポーツというより、大陸を圧倒的な速度で移動できる「洗練」にあったといいます。それゆえ、油圧の恩恵はブレーキにとどまることなくリトラクタブルヘッドライトをはじめ、シートの上下、さらにはステアリングコラムの調整まで可能としていたのです。とりわけペダルボックスは今の視点からも優れていて、シートを固定したまま、ペダル側がドライバーの体型に合わせて手前に迫ってくるという合理性&利便性を実現しています。
ヘッドライトのポップアップにも油圧が使われているのは、やはりシトロエンの意地かもしれません。
50年以上前に確立した走りのコンセプト
1973年を迎えると、ボーラは主戦場である北米の排ガス規制をクリアするため、ストロークを伸ばした4.9リッターV8 DOHCへとスープアップ。最高出力こそ規制で300馬力前後に抑えられたものの、真価は数値ではなく極上のトルク特性に表れています。低回転から湧き上がるトルクは、重いハイドロシステムを意識させることなく滑らかな加速を実現したのでした。
さらにキャビンとエンジンルームを隔てる隔壁には、遮音材を挟んだ二重ガラスが奢られています。フェラーリが12気筒を咆哮させ、カウンタックが乗員に忍耐を強いる中、ボーラはあたかもノイズキャンセルしたかのような静寂を手に入れました。V8の鼓動を背中で感じながら、パッセンジャーは声を荒らげることなく本革シート上で会話を楽しめたといいます。
オーバーヒート気味だろうと、このグラスハッチのカッコよさは捨てがたい。クロームの4本出しマフラーもレトロな雰囲気です。
それでも、オイルショックとシトロエンの撤退により、このハイドロ・スーパーカーは一代限りでディスコンの憂き目に。その後の市場ではLHMの複雑さから「維持不能のオバケ」と恐れられたものの、現代ではシトロエンのパーツ流用ノウハウや専門店の技術向上により、その価値は再評価されている模様。
スピード&タコメーターの間には命綱の油圧計。近年ではレストアパーツも流通していて、昔ほど故障は怖くなさそう。
それもあって、近年のオークションでは高コンディションの売り物が数多く出品されています。本格的なレストレーションが施されたカナリヤ・イエローのこちらは20万~25万ドル(約3250万~4000万円)と、フェラーリのV8モデルにも等しい指し値。高熱になるといわれるリヤのエンジンルームも、大型ラジエーターの導入などで解決済みだそうですから、機械と油圧という早すぎたハイメカを味わいたい方にはぜひおすすめしたい1台となっております。
マセラティ ボーラ
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