1985年に見た10年後の夢……東京モーターショーで「ファルコラスティコ」が刻んだ近未来図!【設計編】<ある技術者兼テストライダーの回想記>

スズキ|ファルコラスティコ

時速300kmを現実にした世界最速のメガスポーツ、スズキ・ハヤブサ(GSX1300R)の登場は1999年。第二次世界大戦での日本陸軍一式戦闘機と同名を冠したマシンだが、それより14年前、スズキに“ハヤブサ”が存在していたのをご存知だろうか? 学術名Falco-rusticolus(ファルコ・ラスティコラス)=シロハヤブサに由来する造語を付けられたファルコ・ラスティコ(FALCORUSTYCO)のことだ。同車は10年後の近未来を目標に思いつく限りの新機構を盛り込み、1985年東京モーターショーのスズキブースをにぎわしたコンセプトモデルだったが、その斬新さ溢れる38年前の夢のモデルに賭けた、若きスズキ技術者の足跡を振り返ってみたい。


●記事提供:モーサイ

※同記事は、別冊オールドタイマー21号(2016年7月号)掲載の記事に加筆し、再構成したものです。

10年後を見据えた近未来モデル

’85年東京モーターショーで配布されたファルコラスティコの画像。車名の由来は、シロハヤブサの和名から先に決まった。「スズキの試作モデルなどの製作を請負う外部の板金業者に野鳥好きの親父さんがいて、ほぼデザインの固まったスケッチを見せたら、シロハヤブサっていう貴重な鳥がいるんだぜなんて話になったんです」。

モーターショーは、各メーカーが登場間近の注目モデルや、自社の現状の技術力やその可能性を盛り込んだコンセプトモデルの出展の場として注目される。出展比率に多少の差こそあれ、そうした出展内容は今も変わらないが、レーサーレプリカブームに火がつき、鈴鹿8耐が活況を呈し、バブル景気が絶頂を迎える前の1980年代半ば、バイク乗りはほかの時代以上に技術の進歩に目を輝かせた。そんな熱狂があった’85年に姿を見せたスズキのファルコラスティコ(※以下ファルコと表記)は、当時のバイク乗りのとりわけ熱い視線が注がれたことを鮮烈に思い出す。

「スズキのモデルが各バイク誌の表紙で主役のように扱われたこの時は、確かにすごく印象に残っています」と語るのは、本項の主人公であり、ファルコの立ち上がりと末路に深く関わったスズキのデザイナー兼実質的なテストライダーだった高垣和之さんだ。’81年に入社し’88年にスズキを退職した若きデザイナーだったが、在職中は社内チームからSS400やF1クラスのロードレースに出場するなど、業務とレースを両立しながらバイクとの関わりをおう歌した。そんな高垣さんの社員生活の中で、実に濃密だったという経験のひとつがファルコ開発チームでの活動だった。

FALCORUSTYCO

当時の記事には「造ったのは、デザイナーや技術者、わずか7人、平均年齢27歳あまりの、若いスタッフだ」とあり、「2年ほど前、昼休みに集まって会合をもっていた彼らがまず問題にしたのは、『自分達の欲しいマシンが、市場にはない』ということだった」と、書かれている(別冊モーターサイクリスト’86年3月号掲載)。

「メンバーは、スズキ技術センター内の2輪商品企画部デザイングループから私と先輩デザイナーの2名、2輪設計部エンジングループから設計と実験担当の計2名、そして車体設計グループから設計と実験の計2名、電装設計から1名という総勢7名でした」(以下「」内は高垣さん)

’85年の東京モーターショーを目標に若くて生きのいい技術者が集められ、コンセプトモデルの開発が立ち上がったが、その仕掛けには当時の国内営業サイドも深く関わっていたという。

「’84年ごろのスズキは、ちょうど売り上げが1兆円に届くか届かないかの企業で、ブランド力や技術力をさらに上げるにはどうしたらいいか、社長室プロジェクトの名目で各部署の社員が集められ、何チームかに分けられて色々と話し合って提案する活動がありました(当時の社長は鈴木 修氏)。チームでの産物は、具体的なモデル開発というより、モデルの方向性とか営業戦略の提案だったんですが、その中から何人かが選ばれ『君たちで何かやってみろ』と声をかけられたんです」

その頃、スズキ2輪技術センターの在籍社員は、バイク好きを自称する人間がほとんどで、前述した“自分たちの欲しいバイク”の議論は、相当白熱して長い時間がかけられた。そして漠然と得られたイメージが、当時過熱に向かっていたレーサーレプリカとも違う、近未来を目指したモデル。あまりに遠い未来を描くと、絵に描いた餅になる。具体的には’85年時点から10年後に、現実的にあったらいいなと思えるバイクを目指したという。

「この企画のコードネームが“EARER1995”と言いました。10年後にEARER(=いいらー、遠州弁で“いいでしょう”の意)と思えるものという意味(笑)。短絡的ですが、実際のモデルにはその時期盛り込みたい技術や試したい技術を真面目に詰め込んだと思います。ただし、設計屋というのは、通常の業務で現実的な品質保持に多くの時間を割くので、新たなものに対して臆病になりがちなんです。機能的なアイデアを出す段階で、この提案でクレームの嵐の矢面に立つ心配はないかと考えてしまい、独創的なアイデアが出にくくなるんです。それをいかに開放して、自由にイメージを膨らませられるかが、一番苦労したところだったと思います」

左下端に「earer(イーラー)1995」の開発コードが入ったデザイン画。運輸省(現国土交通省)の風防解禁以来カウル付きモデルが一気に増え始めた時代ゆえに、反動でネイキッドモデルが流行るのは予見できたが、それは技術屋としては後戻りのようで面白くない。メカも見せつつ空力も考えて、新たな方向を模索するというテーマで創られた。カウルは単なるカウルではなく、前後スイングアーム付近で支持され、モノコック構造で艤装品を支える強度部材の一部であった。V字ラインはデザインのみならず強度的にも理にかなっていたという。

平均年齢27歳という若きファルコラスティコ開発陣(当時)。左から平田千秋(エンジン実験)、高垣和之(デザイン)、高次信也(デザイン)、北川 浩(車体設計)、村松昭彦(車体実験)、新海達也(エンジン設計)、高崎行博(電装設計)※敬称略。

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