人生論的WGP500王者インタビュー②エディ・ローソン

皇帝・エディ先生が熱血時代を語る

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頂点を極め、ロードレース史にその名を刻みつけた男たち。荒れ狂う2スト500ccのモンスターマシンをねじ伏せ、意のままに操った彼らのスピリッツは、現役を退いて時を経た今もなお、当時の熱を帯びている。伝説の男たちが生の声で語る、あのライディングのすべて──。ヤングマシン’12年11月号掲載の「THE CHAMPION TECHNIQUE」より、ステディ・エディと呼ばれたエディ・ローソンのインタビューをお届けします。


●インタビュー:高橋 剛 ●インタビュー撮影:真弓悟史 ●レース写真:YMアーカイブス ●取材協力(当時):株式会社モビリティランド/ヤマハ発動機株式会社

僕のおばあちゃんでも乗れるよ(笑)

シニカルな笑顔を浮かべながら、決して多くはない言葉を放り投げてくる。 偽りのない率直な言葉は柔らかい放物線を描き、心の奥まで染み渡る。 かつて4度世界王者になったエディ・ローソンの物静かな語り口調は、 時おり走るシャープな眼光と相まって、独特な凄味を発散した。

寝ても覚めてもレース。レースにすべてを捧げた

── あなたは「ステディ・エディ」と呼ばれ、手堅い走りが特徴的でした。ご自身でもそういう走りを意識していたのでしょうか?

エディ・ローソン(以下EL) ああ。痛い思いはしたくないからね(笑)。実際、クラッシュだらけの他のライダーたちよりもコンスタントに走っていたと思う。 ただ、僕もいつもドッカリとシートに腰を下ろしてるわけじゃない。時にはステディではなく、シートから腰を浮かしていたよ(笑)。

── アグレッシブ・エディになる時もあるわけですね。

EL ああ。僕はワイン・ガードナーやウェイン・レイニー、ケビン・シュワンツ、フレディ・スペンサーというスゴいヤツらと戦っていたんだ。アグレッシブになるべき時もあったし、慎重に走らなくちゃいけない時もあった。「ここ!」という山場では、もちろん極限まで攻めるしね。

ただ、僕はマシンのすべてをコントロールしているように見えたんだろう。もし僕にテクニックがあるとしたら、それは「すべてをコントロールしているように見せるワザ」じゃないかな(笑)。

── 実際のところ、どのようにコンスタントな走りを実現していたのでしょうか?

EL さあ(笑)。自分のスタイルってだけだからねえ。ただ、トレーニングはかなりしたよ。だから僕はレースの後半でも集中力が途切れることなく、速さを維持できた。ラストスパートをかけることもできたのも強みかな。最初から最後まで、リラックスして走り続けられた。体力は助けになったように思う。

あと、マシンフィーリングの好みははっきりしてたかな。ガードナーやシュワンツは細かいことを気にしない。「ノープロブレム。オレは行くぜ!」ってなものだ。でも僕はそうじゃなかった。嫌なフィーリングが気になって仕方ないんだ。

── どんな車体セッティングを求めていましたか?

EL 硬い車体で、リヤは低め。遅めのリバウンドが好きだったね。ステアリングダンパーもキツく締めてたよ。フロントが振られるのが嫌いだったから。みんなのに比べると車高が低くて動きが遅いバイクだったと思う。コーナーでスムーズに安定させたかったからなんだ。

クイックなマシンを好むライダーが多かったが、僕は気にしなかった。そういう動きは、自分の体で作り出せるものだからね。

セッティングなんか人それぞれだから何でもいいんだよ(笑)。でも僕のセッティングはタイラ(忠彦)のものとほとんど同じだったんだ。シャケ(河崎裕之)も同じだ。3人のセッティングは違いがなかった。

これはタイラと組んだ鈴鹿8耐はもちろん、GPでも非常に有利に機能したね。彼らはGPマシンのテストを担当していたから。彼らの好むマシンは、僕も好きだったんだ。

── あなたは常にブレーキレバーに指をかけていましたが、何をしていたのでしょうか?

EL 僕のGP最後の年に、ブレンボが初めてテレメトリーシステムを導入したんだ。彼らがそのデータを見せてくれたんだけど、僕はブレーキをすごくゆっくりかけていて、ノーズダイブもゆっくりだった。初期の動作がとにかく穏やかで、それから徐々にハードになっていくんだ。他のライダーがいきなり「ガツッ」とブレーキをかけるのと対照的にね。

ブレンボは僕のブレーキングが好きだったようだ。でも、自分ではよく分からない。ただ自分のやり方がそうだってだけの話だからね。

ブレーキングの時、ケビンはものすごい勢いで抜いていくんだ。テレメトリーのデータも、そりゃあスゴいことになっていた。ウェインはそれを見て、「ワオ、何だよケビンのブレーキングは!」なんて言ってたけど、僕はまったく気にしなかったな。ただ「キンタマでけぇな!」と思うだけでさ(笑)。

──当時のマシンと今のモトGPマシンはどう違いますか?

EL 2スト500ccマシンのエンジンは、パワーバンドが9000〜1万2500rpmととても狭かった。9000rpm以下は、パワーなしだ。そして9000rpmに、突然すべてが押し寄せてくる。すごく難しかったよ。旋回中、マシンが寝ているうちにその領域に差し掛かった時は、立ち上がっていなしていたんだ。

タイヤもよくなかったし、そんなので雨のレースもあるんだよ? もちろん電子制御もなしで。ひどかったけど、楽しかった。’60年代から現代まで振り返ってみて、あの時代はもっともライダーに「乗ること」が求められた特別な時代だったね。

今のモトGPマシンはどうだい? パワーバンドは6000〜2万rpmと広大だ。さらにトラクションコントロールがあり、ウイリーコントロールがあり、信じられないほど高性能なタイヤがあって、信じられないほどのシャーシがあり、信じられないほどのサスペンションがある。本当に信じられない! 僕のおばあちゃんでも乗れるよ(笑)。

── ほ、本当ですか!?

EL ウソだよ(笑)。でも、傾けて開けるだけだからね(笑)。モト3なんか本当に誰でも乗れるんじゃないかな。まったく問題なくね。

── マシンが乗りやすくなるのは、GPにとってよいことでしょうか?

EL うーん……、分からないな。いい面も、悪い面もあるだろう。

── では、今と昔ではどちらがいいと思いますか?

EL 僕に聞くのかい?(笑) 500ccの頃は運営費も安く、35人のライダーが競い合っていた。今は何もかもが高く、ライダーは15人しかいない。すべてがコンピュータに奪われて、スライドもウイリーも監視下だ。どっちがいいか? 分かってるだろう(笑)。

僕は一生懸命に仕事をしたし、すべてをレースに捧げた。朝起きた瞬間からレースのことを考えていた。寝ていても、突然目が覚めるんだ。「3〜4速のつながりを500rpm変えたい。ギアボックスを交換しよう!」ってね。寝ていてもこれだ。レースのために生きていたんだよ。

あらゆる時間がレースに勝つためだけにあった。トレーニングといえば心臓が破裂しそうなぐらい走ったし、自転車に乗ってる時は「フレディを負かしてやる!」と思っていた。……フレディ以外もね(笑)。

レースにすべてを捧げていたんだ。それがレーサーってものだろう?

セッション中もタイムシートを見て、「レイニーがこのタイム!? オレたちには何ができる? フロントフォークを換えて、ギアボックスを換えればタイムが出せるはずだ。とにかくやるぞ!」という具合だった。

今はどうだろう?「ヘルメットのカラーリングは……」「サングラスが……」「昼飯は……」とかかな。 実際はそんなことないよね(笑)。でも、そう見えてしまうんだよ。

僕たちは、レース以外のことは、まったく意に介さなかった。勝つこと。ただそれだけに集中していた。脳が勝利に縛り付けられていたんだ。

今とは違う時代の話さ。

自らの右手を指し「オレのトラクションコントロールはここにある」と語ったエディ。54歳となった現在も、強烈な覇気を内秘めているように感じられた(※この記事は’12年11月号に掲載されたものです)。

Eddie Ray Lawson/1958年3月11日生まれ アメリカ出身 ロサンゼルスの近郊・アップランド生まれのエディ・ローソンは7歳からミニバイクレースに慣れ親しみ、ダートトラックなども経験。21歳でAMA(全米モーターサイクル協会)の250クラスでランキング3位の成績を残す。翌年の’80年からカワサキでAMAスーパーバイクに参戦し、’81年と’82年にAMAスーパーバイク王者に登りつめた。また’81年はWGP250クラスの西ドイツ戦でGP初デビューを飾り、イタリア戦とフランス戦のスポット出場で貴重なGPの経験を積む。’83年からはWGP500クラスに参戦し続け、’92年の引退までに4度のシリーズタイトルを獲得した名ライダーとして、今なお根強い人気がある。


※本稿は2018年4月2日公開記事を再編集したものです。 ※本記事は“ヤングマシン”が提供したものであり、文責は提供元に属します。※掲載内容は公開日時点のものであり、将来にわたってその真正性を保証するものでないこと、公開後の時間経過等に伴って内容に不備が生じる可能性があることをご了承ください。※掲載されている製品等について、当サイトがその品質等を十全に保証するものではありません。よって、その購入/利用にあたっては自己責任にてお願いします。※特別な表記がないかぎり、価格情報は税込です。

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