ラチェットハンドルはバイクや自動車のメンテナンス用工具として不可欠な存在だ。昨今は多ギヤ化がトレンドとなっているが、ギヤ数が多いだけで作業性が向上するというわけでもない。ソケット工具専門メーカーの山下工業研究所(コーケン)では、歯数競争を追うことなく独自の理想を追求した製品を開発。5年の歳月を掛けて生まれた72歯の新型ラチェットハンドルに込められた専業メーカーのこだわりとは?
●文/写真:栗田晃 ●取材協力:山下工業研究所
空転トルクの軽さはコーケン製ラチェットの伝統
バイク/クルマを問わずメンテナンス用工具の中心にあるのがソケットレンチ。その使い勝手に大きな影響を与えるのがラチェットハンドルである。第二次世界大戦直後の1946年に創業した山下工業研究所は、ソケットレンチ専門メーカーとして「コーケン」のブランド名とともに歩んできた。
ラチェットハンドル選びで重要視されるのがギヤの歯数である。24歯ならハンドルひと振りに15度必要だが、36歯なら10度、72歯なら5度、90歯になれば4度でギヤを送れるため、狭い空間でもボルトナットを回せるようになる。一方でラチェットハンドルには「空転トルク」という評価軸もある。ギヤの歯数が多くても、ギヤの逆転を防ぐ爪とのフリクションロスが多ければ、緩め途中、締め途中のボルトナットを回し続けることができない。
コーケンでは伝統的にこの空転トルクにこだわり続けてきた。空転が軽いことで、緩め途中や締め途中のボルトナットと一緒にソケットが戻ってしまうことがなく、最初から最後までラチェットハンドルを使ってボルトナットを回すことができる。24歯の二枚爪や36歯の同社製「Z‐EAL」シリーズの一体爪は、歯数という分かりやすいスペックでは表現しにくい。しかしラチェットハンドルの使い勝手を大きく左右する空転トルクの軽さが魅力となった。
ギヤの直径は36歯と変えず72歯の研究に着手
2010年、コーケンは次世代のメカニックスタンダードとしてコンパクトさにこだわったZ‐EALシリーズをリリース。工具界ではラチェットハンドルの多ギヤ化がトレンドとなっていたが、空転トルクが軽い歯の実用性は高く評価された。しかしながらハンドル振り角が制限される作業環境では、絶対的な歯数がものを言う場合もある。そうした中で多ギヤ化の研究を始めたのが、Z‐EALのラチェットハンドルを開発した岡本博貴氏。
「Z‐EAL発売後、お客様からオートサービスショーの会場で『コーケンも多ギヤ化すればもっと使いやすくなるし、買いますよ』という意見をいただきました。36歯でも使いやすいという自負はありますが、世の中から求められるなら研究する価値があると思って考え始めました。私自身クルマいじりが好きで、ラチェットが振れずにボルトが回せない状況にも遭遇したこともあります。自分が不便を感じるなら、ユーザーさんも同じように感じることもあるだろうと思ったのです」
ギヤ数を増やせばハンドル振り角が小さくなるが、本質的にラチェットの多ギヤ化と空転トルクの軽さは相反する。ギヤの径が同じで歯数を倍にすれば、ギヤの山は低くなり爪の掛かりは浅くなる。そこで滑らないよう爪を強く押し当てると、ハンドルを戻す際に引きずるため空転トルクが重くなるのだ。それを避けるためにギヤの直径を大きくすれば、山が高くなり爪としっかり掛かるため空転トルクを軽くできるが、その分ラチェットヘッドのサイズが大きくなる。Z‐EALラチェットを開発した岡本氏には「ギヤの径を大きくすれば設計は楽ですが、そもそもその選択はあり得ません。また技術者として『36歯が72歯になったので空転トルクは重くなりました』と言いたくもありません」と譲れないこだわりがあった。
決め手は2ピース構造の爪。クサビは中心で仕事をする
ギヤの径を変えずに36歯を72歯にした場合、ギヤと爪の掛かりが浅いことが大きな壁になる。そのため多ギヤ化と空転トルクの軽さを両立するための研究は5年にも及ぶものとなった。
「開発初期は単純に爪の山の数を倍にして噛み合わせを増やしましたが、掛かりが浅くギヤの力を受け止めきれず、ラチェットヘッドの壁を押してヘッドが歪み、ギヤと爪の位置がずれて滑ってしまいました」
歪みといっても弾性変形なので、力を抜けばヘッドは戻るが、剛性を上げるため補強を入れてヘッドが大柄になるのはZ‐EALのコンセプトと矛盾する。そこで考え至ったのが、爪でギヤを支えるのではなく、ギヤに食い込ませる”クサビ式”だった。
「この原理は他社製品でも採用されていますが、同じ方法では面白くないし、空転トルクの軽さを実現するには別のアイデアも必要です。さらに開発者としてはまだ世の中にない方法で問題を解決したいと思い研究を続けました。そしてたどり着いた答えが、2ピース構造の爪だったのです」
写真の樹脂モデルで分かりやすく色分けしている通り、新型ラチェットハンドルの爪は二層構造で、合わせ部分の小さな隙間によりギヤと接する赤色の爪は僅かに動くことができる。ギヤが回ると赤色の爪は黄色の爪とギヤの間にクサビのように刺さり込み、力が大きくなるほど強く食い込んでいく。この時、赤色の爪は黄色の爪に押しつけられるが、ギヤの力を受けるのはあくまでクサビとして機能する赤色の爪であり、黄色の爪がラチェットヘッドの外側を押すことはない。
赤色の爪に注目すると、差込角の中心から回転切り替えレバーを貫くハンドルの中心線まででギヤを支える機能が完結しているのが重要なポイントだ。さらに赤色の爪は、力を加えた時には強く食い込むが、黄色の爪との僅かな隙間によりハンドルを戻すと簡単に力が抜けて、空転トルクは36歯のZ‐EALと同じ軽さとなるのも特長である。
ソケットレンチ専門メーカーだからと言ってしまえば身も蓋もないが、開発に賭ける情熱と執念には目を見張るものがある。72歯というギヤ数自体は目新しいものではないが、実用性能の高さはズバ抜けており、高邁な”コーケンイズム”を具現化した道具としても大変に魅力的である。
36歯と同サイズのヘッドに72ギヤを内蔵。製品番号は36歯時代を継承するこだわり
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