「#19は身体の一部」フレディ・スペンサー、伝説のCB750Fデイトナレーサーを語る【エンジン始動動画付き】

「#19は身体の一部」フレディ・スペンサー、伝説のCB750Fデイトナレーサーを語る【エンジン始動動画付き】

彗星のようにレースシーンに登場し、瞬く間に世界の頂点に駆け上った不世出の天才ライダー“フレディ・スペンサー”。WGP前夜に、彼がAMAスーパーバイクで駆った(勝った)CB750Fデイトナレーサーは、CBファンの憧れに留まらず、空冷4発カスタムを牽引した偉大な存在でもある。


●文:伊藤康司(ヤングマシン編集部)

スペンサーの世界GPでの大活躍がAMAレースの注目度を高めた

旧くからのバイクファンなら、だれもが“ファスト・フレディ”の愛称を知っているだろう。1983年に世界GP500でチャンピオンに輝き「彗星のように現れた」、「レース界の超新星」と、キラ星に例えられたフレディ・スペンサー。

じつは当時の日本のバイク雑誌のレース記事は全日本選手権や世界GPが主体で、アメリカで人気のAMAレースが掲載されるのは極めて稀だった。しかしスペンサーの大活躍は、過去に遡って“CB750Fデイトナレーサー”をもライダーたちの目に映すに至ったのだ。

スペンサーが世界GPチャンピオン獲得に至る足跡と、彼を育てたCB750Fの軌跡を振り返ってみよう──。

CB750Fデイトナレーサー。

ダートトラックで神童と呼ばれAMAで才能を開花

1961年12月20にルイジアナ州シュリープポートで生まれたフレディ・スペンサー。4歳からバイクに乗り始め、5歳で初めてレースに参戦。とはいえ当時のルイジアナ州にはロードレースのトラックは存在せず、フレディ少年はテキサスやルイジアナの数々のダートトラックレースで優勝し、神童と呼ばれた。

1974年にはヤマハの125ロードレーサーに乗ってAMAのアマチュアロードレースに参戦し、1979年にはヤマハTZ250を駆り、AMA250GPのナショナル・チャンピオンを獲得した。

それからフレディ青年はアメリカンライダーの憧れである“デイトナ・スーパーバイク”に、1979年3月にドゥカティの900SSで出場。マシンが持たずに(ギアボックスの不調)リタイアするが、速さに注目されてカワサキから声がかかり、Z1000 Mk.IIベースのファクトリーマシンに乗って年間シリーズで3位を獲得(最初に優勝したシアーズ・ポイントのレース時、スペンサーは18歳と8か月で、AMAスーパーバイクの最年少勝利記録)。

そして1980年、USホンダがワークスチームを結成。フレディ・スペンサーを起用してCB750Fでデイトナデビューを果たす。ちなみに80年のCB750Fデイトナレーサーは、サスペンションやスイングアームは“ノーマル改”の域で、10戦3勝の戦績。また81年までのエンジンの最高出力は135馬力程度で8戦3勝となり、カワサキのエディ・ローソンにチャンピオンの座を奪われた。

そこでAHM(アメリカ・ホンダ・モーター)がプロジェクトを組んで作り上げたのが、82年のデイトナ100で勝利した“最強のF”。今回「Hondaモーターサイクル ホームカミング熊本2025」で展示され、フレディ・スペンサーがエンジン始動を行った車両そのものである。

1982年からホンダ・ワークスでWGP500にフル参戦し、翌83年にチャンピオンを獲得した。

#19 CB750Fは身体の一部、自分の情熱と能力のすべて注いだ

「このバイクは僕の古い友達。そしてこのバイクは“無敗”。1回きりしか走っていなくて、その1回がデイトナで勝っているので」とフレディ・スペンサー。

「僕は18歳だったけど、当時これだけパワーがあって、それをコントロールするのは簡単ではなかった。それをどうやって安定性を追求するか考えながら走る、そのスタートのバイクだった。将来自分が“良いバイク”の開発に携わるにあたり、ライダーの能力を必要とする部分において、ものすごく重要なマシンだったんです」

“ファスト・フレディ”をもってして、コントロールが容易でないと言わしめるCB750Fデイトナレーサー…。

以降の記事はヤングマシン電子版12月号に掲載中! マシンの詳細写真&解説に加え、フレディがスロットルを煽るエンジン始動動画も閲覧できるので、ぜひチェックを。

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