レジェンド・ロッシは制約も厳しくて……

山田宏の[タイヤで語るバイクとレース]Vol.44「ロッシを使えるのは1日だけ!?」

ブリヂストンがMotoGP(ロードレース世界選手権)でタイヤサプライヤーだった時代に総責任者を務め、2019年7月にブリヂストンを定年退職された山田宏さんが、そのタイヤ開発やレースの舞台裏を振り返ります。2007年、ブリヂストンは翌年からバレンティーノ・ロッシ選手へタイヤを供給することを決定。しかしその契約はとにかく大変で……。


TEXT:Toru TAMIYA ※タイトル写真は2007年最終戦バレンシアGP

同じチーム内で異なるタイヤメーカーは前代未聞

ちょうど現在、MotoGPではバレンティーノ・ロッシ選手の去就に関する話題で持ち切りです。ロードレース世界選手権の最高峰クラスだけでも22年、125ccクラスと250ccクラスを含めるとこれまで26年というキャリアは、彼でなければ成し遂げられないものでしょう。ロッシ選手が、「ブリヂストンタイヤを履けないならレースを辞める」とヤマハに訴えたのは、いまからもう14年も前のこと。その2007年、ロッシ選手のシリーズランキングは3位でした。前年は同2位で、2001年から5年連続でシリーズタイトルを獲得してきた後に2年連続でチャンピオンを逃したわけですが、それでもやはり当時のロッシ選手は、人気と実力ともにMotoGPトップの特別な存在でした。

2021年現在、去就についての決断が迫っているとも噂されるバレンティーノ・ロッシ選手。

2008年に向けて、ブリヂストンはヤマハと、ロッシ選手に対するタイヤ供給の契約を結ぶことになるわけですが、これが本当に大変でした。そもそも、MotoGPでの活動に関して我々は、ライダーと直接契約するわけではなく、メーカーまたはチームと契約を結んでいました。そしてその契約の中で、ライダーに対してやってもらいたい内容を盛り込むわけです。例えば、タイヤを供給する対価としてプロモーションに起用させてもらいたいとか、写真や映像を使わせてほしいとか、ライダーはそのための活動に協力してほしい……など。細かい契約を事前に結んでおくことで、我々の宣伝に利用できる状況を確立するわけです。

ところがロッシ選手の場合、ヤマハですら契約の中でやれることが非常に限られていました。ですから、我々がヤマハに要望しても、ヤマハがロッシ選手に関してその権利を有していないことも多々ありました。あの当時、ロッシ選手というのはライダーの中でもダントツでバリューが高い状態でしたから、ロッシ選手とヤマハの契約がそうなっていたのも理解できます。しかしそのおかげで、ヤマハと契約を締結するまでにはかなりのやり取りをすることに……。

ロッシ選手が来季はブリヂストンを履くと決まったのは10月中旬で、11月下旬のテストでは初めてブリヂストンタイヤを履いてテストしていますから、わずか1ヵ月ほどの間に契約を結ぶ必要があったのですが、1ヵ月ではとても本契約締結は無理で、当面はテストでブリヂストンタイヤを使用することができる覚書を交わして対応しました。覚書といっても、本契約に入れる主な条項を簡単にしたもので、内容の合意が必要です。覚書から契約書作成までの間、ブリヂストンとヤマハの法務部担当者は何度もミーティング。もちろん、内容を交渉するために私もヤマハの運営担当者も同席しました。期間としては短かったのですが、最終的な契約に至るまでかなり時間がかかったという印象が残っています。

2008年モデルのヤマハYZR-M1・#46号車には、晴れてブリヂストンのステッカーが貼られることになった。

同じチームでもピットは完全に分ける?!

また、2008年に向けたヤマハとの契約が簡単ではなかった背景には、ロッシ選手という特別な存在があったことに加えて、ヤマハワークスチームが翌年、ロッシ選手がブリヂストンでホルヘ・ロレンソ選手がミシュランという、異なるタイヤメーカーを同じチームで走らせるということも影響していました。それまで、同じチームでタイヤメーカーが異なるという状況は、我々もヤマハも経験がありませんでした。そこで我々はヤマハに対して、機密保持に関して強く要望。例えば、同じチームとはいえピットは完全にわけるとか、スタッフ間の情報交換は一切禁止するとか、第三者に対してタイヤを接触させないなど、かなりの制約を設けさせてもらい、それらも契約に盛り込みました。もちろん、本当に漏れて困るような情報はチームにも提供していませんが、かなりのレベルでチームに伝えているので、やはり漏れてしまっては困るのです。

このように、ロッシ選手に関するヤマハとの契約は本当に難航しましたが、2007年11月下旬にスペインのヘレスサーキットで実施されたテストで、ロッシ選手は初めてブリヂストンタイヤを履くことになります。じつは、11月上旬に開催された最終戦バレンシアGPの決勝翌々日から、翌年に向けた公式テストがバレンシアで実施されたのですが、これはミシュラン側からロッシ選手の参加をNGとされてしまいました。もっとも、このときはまだヤマハとの契約あるいは合意には至っていなかったのですけどね。

ちなみに、もちろん現在のロッシ選手がチームとどのような契約を結んでいるかは知りませんが、当時のヤマハとの取り決めでは、使える写真のシーンまで細かく決まっていました。コースを走っているときとスターティンググリッドにいるときはOKだけど、たしかピットボックスにいるときの顔写真は使えなかったはず……。使える状況のほうが少ないというイメージで、それらはロッシ選手とヤマハの間で細かく表になっていました。

そのような制約が多かったことから、たしか2009~2010年に、ブリヂストンヨーロッパがロッシ選手と直接契約を結びました。ブリヂストンとして、MotoGPライダーに対してこれは最初で最後のこと。やはりヨーロッパのブリヂストンとしては、絶大な影響力があるロッシ選手がせっかくブリヂストンタイヤを履いてレースをするなら、積極的にプロモーションの素材として使いたいと考えたのです。そこで、たしか年間1億円くらいの契約金を払い、宣伝素材として撮影の場もセッティングしたのですが、ロッシ選手を拘束できるのは年間でたった1日という……。さすが、別格です!

ブリヂストンとして実施したロッシ選手の撮影は、まずミサノサーキットで走行シーン、そこからロッシ選手の自宅へ行ってガレージなど、さらにまた移動してスタジオの撮影という感じ。ほぼ1日連れ回したと思います。そのときに私も、彼の自宅に行きました。クルマには詳しくないのですが、なんだかスゴそうな黄色いフェラーリがガレージにあったのを覚えています。その後、ロッシ選手の映像や写真を使ってたくさんの広告素材やCMなどを作成。欧州で活用して、タイヤの販売にも大きく貢献しました。

ロッシ選手との直接契約ということでは、2009年にタイヤがワンメイクとなってチームメイトのロレンソ選手もブリヂストンを履くことになるわけですが、後にロッシ選手とブリヂストンの直接契約をロレンソ選手が知って、「なんだよ、オレとも契約しろよ。オレもチャンピオン(250ccクラスの)だぞ!」と激怒していたのも覚えています。あの当時、ロレンソ選手のマネージャーは格闘技でもやっていそうなカラダの大きな黒人で、ロレンソ選手とそのマネージャーのふたりにずいぶんイジメられましたよ……。

当時のヤングマシン名物コーナー「MotoGP瓦版」でもロッシ選手のブリヂストンへの転向は大きなニュースとして報じている。記事は2008年2月号。新たに加入するチームメイトをホルヘ・ロレンゾと表記しているが、現在はホルヘ・ロレンソが一般的だ。


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