テストライダー、設計者、そしてMotoGPマネージャーへ

山田宏の[タイヤで語るバイクとレース]Vol.1「BS入社の理由と、テストライダーだったころ」

ブリヂストンが世界最高峰二輪ロードレースのMotoGPでタイヤサプライヤーだった時代に、その総責任者として活躍。関係者だけでなく一般のファンにも広く知られた山田宏さんが、2019年7月末で定年退職されました。その山田さんに、あんな秘話やこんな逸話を、毎回たっぷり語ってもらいます。いまだから公開できる超絶裏話も飛び出すかも!?

TEXT: Toru TAMIYA

ブリヂストン入社、“試験部”というタイヤを評価する部署に

“元”ブリヂストンの山田です。2019年7月末に、60歳で定年退職しました。在職中は、大変多くの方々に多方面でお世話になりました。感謝申し上げます。まあ、7月というのは鈴鹿8耐がある時期ですから、じっくり退職に向けた準備を進めたというよりは、最後まで8耐関連の準備と後処理をバタバタとやって、感慨に浸る間もなく退職日を迎えたんですけどね。

そのブリヂストンに私が入社したのは1980年。じつは最初は、公道用二輪タイヤの性能を評価する試験部という枠での入社でした。私は東京都の世田谷区で生まれた都会っ子だったのですが、小学5年生になったときに、親父が冷間鍛造加工の会社を起業した関係で、埼玉県の川越市に引っ越しました。親父が会社をつくったのは、周囲に当時は田んぼしかないような場所。バイクやクルマはそんな親父の会社の敷地内で、小学5年生のころから乗っていました。バイクはスーパーカブ50、クルマは何台もあった2トントラックが最初だったと思います。そのうち、兄貴がミニトレ(ヤマハ・GTシリーズ)に乗るようになり、クラッチ付きのバイクも覚えました。もはや時効でしょうから白状しますが、ミニトレではたまに敷地内も飛び出して、河川敷なんかにも……。

山田さんは、世田谷育ちで学生時代はテニスに明け暮れた爽やか少年だったのだ。

勝負事への関心は、学生時代のスポーツで培われたのかも?

中学卒業後、私は高専(高等専門学校)に進学しました。いま振り返れば、親父の背中を見て育ったんだと思います。家業を継ぐとかそういう気持ちはなかったのですが、技術者になりたくて、専門的な技術を学ぶために機械工学科を選んだんです。八王子にある東京高専で寮生活をスタートしてから、ヤマハのRD250を中古で購入にして乗っていましたが、それほどバイクにはハマらず、当時はテニスの部活三昧。

高専というのは5年制なんですが、僕が3年生のときにテニスの高専全国大会というのができて、これに出場することを目指して、3年生からずっと部長をやっていました。「勝つためにとにかく頑張るぞ!」と……。学生のころから、みんなで一丸となって勝負するなんてことが好きだったのかもしれません。最終的には、5年生のときに団体戦で全国2位、個人戦はシングルとダブルスともに3位となりました。

そんなわけで、ロクに勉強もしない5年間。技術者になるという夢を果たすためには、学力が足りませんでした。そんな私が就職活動中に見つけたのが、ブリヂストンの募集要項にあった、タイヤのテストをする部門。記載が「試験」だったか「評価」だったのかは忘れてしまいましたが、テニスをずっとしていたこともあり、学力だけなら負けちゃうけど、運動と頭脳の総合力ならライバルたちに勝てるかもと考えました。で、仕事内容をあまりよくわからないまま応募しました。

私たちが就職する少し前から、高専卒は東京都小平市にある技術センターの枠で採用されるようになっていて、全体で5名程度の募集。試験部は四輪と二輪で1名ずつの採用でした。試験部を希望していたのは3~4名で、私も含めて全員が4輪希望。学科試験のあとに4輪と2輪の実走テストがありました。その入社試験会場には、二輪のチーフをやっていた人もいたのですが、その人がテニス好きで、私の履歴書にテニスのことが書いてあったことから、昼休みにテニスを一緒にやりました。本人には聞いてないですが、あれで気に入られて合格したんじゃないかと想像しています。なんでも真剣にやっておくもんですね!

テスト走行と設計を掛け持ちで担当、時はHY戦争の只中だった

入社後、二輪タイヤの試験部が実走テストを実施する機会というのは意外と少なくて、月に1~2回程度。試験車をトラックに積んで、富士(富士スピードウェイ)や谷田部(日本自動車研究所がかつて所有していたテストコース)などによく行っていました。ブリヂストン社内のテストコースは当時、四輪が中心で、バイクはあまり走らせてくれなかったんです。ただし時間的には、実走よりも室内でのテストが圧倒的な割合でした。入社当初に私がよくテストしていたのは、アメリカンクルーザー系やナナハン以上のビッグバイクにOE装着するタイヤ。当時のクルーザー系は高速安定性に欠けることが多く、タイヤによって走行性能にかなり違いが生まれることから、これにはかなり力を入れていました。

入社後、社内テストコースでウェット性能テストを実施する山田さん。

数年後には、今回のタイトルカットに証拠写真として使いましたが、私のテスト走行シーンが海外用のカタログ(1984年11月発行)に採用されたこともあるんですよ!

そしてあの当時は、いわゆるHY戦争の真っただ中ということもあり、タイヤの設計者も足りないという話になり、私だけ設計にも籍を置いて実際に設計を担当することに……。L305とか、ヤマハやスズキのOE装着用タイヤなどを手がけました。当時は、同じサイズとパターンでも機種ごとにタイヤを専用開発していて、一方で車両のほうは新車が発売されても数千台で打ち切りなんてことが多々。そりゃもう、とんでもない工数でした。最初は先輩に教えられながら、実際に自分で図面を描き、デザイン室からの案をもとに設計者の感性で若干のアレンジを加えて、試験の一方で設計にも携わりました。急激にマシン性能が向上していた時代ですから、タイヤにも思いがけないトラブルが発生することもあるわけです。一方で某メーカーさんのように、「マシンの安定性が足りないから、タイヤでなんとかしてください!」なんてことも……。思えばこれと似たような話は、MotoGPタイヤの開発時にもたくさんありました。

というわけで、そんな苦労話はまた次回以降に。