多くのライダーを鍛え上げた、伝説の市販レーサー

1985 ヤマハ TZ250に試乗!【まさか、鉄フレームのTZを体験できる日が来るなんて!】

1974年生まれの僕にとって、1985年のレーシングマシンはリアルタイムの憧れではない。しかし、多くの先輩方に話を聞くほどにTZの偉大さに惹かれていった。’85年式のTZ250は鉄フレーム&スポークホイールの旧車然とした佇まいだが、今見ると懐かしいというよりは新鮮。そして試乗させていただいて思ったのは、当時のライダーの凄さだった。やはり乗るのがとても難しいのだ。乗りにくい、というか毎回同じように走らせることができないシビアさを持ち、その操作はとても繊細だった。


●文:ミリオーレ(小川勤) ●写真:ケイファクトリー ●外部リンク:ケイファクトリーブルーポイント

鉄フレームのTZ250の最終型となる1985年式。この後TZ250はアルミフレームへと進化していく。

数えきれないほどのライダーを育んだヤマハTZ250

’80年代に入ってからのTZ250は、日本でレース&バイクブームを巻き起こし、さらには世界GPの黄金期を支えた。そして、そこで培った技術は市販車にも投入。バイクを加速的に進化させ、プロからノービスまで様々なライダーを育んでいった。

年々パワーや速度が上がるに連れてフレームやサスペンション、タイヤなどにも求められるものが変わってくる。その進化のスピードは現代の比でない。この時代のレースの盛り上がりとバイクの開発スピードの早さといったらなかったのだと思う。

ホンダの市販レーサーであるRS250Rがプライベーターに渡るようになったのは’85年だが、ヤマハは250cc市販レーサーであるTD1を’62年から発売。プライベーターに供給し続けてきた。そして’73年にはエンジンを水冷化したTZ250(350も同時発売)を発売。’76年にはリヤサスをモノサス化するなど進化。市販レーサーはTZをおいて他になかったのである。

レースシーンでメーカーやコンストラクターのスペシャルに乗るチャンスを得たライダーはほんの一握りで、TZこそが多くのライダーのレース活動を支え、ブームを築き上げてきたといえるだろう。

’82年あたりからレースシーンは急速に盛り上がり、’83年の予選は4〜5クラスの激戦時代。もちろんバイクはすべてTZだ。’84年には国内だけでTZ250が400台(135万円)も販売されていた時代の話だ。新車にはシリンダー、ヘッド、クランク、ピストンリングなどのスペアパーツなども同包され、プライベーターが1年戦うには十分だったという。

’85年式のTZ250はそれまでの前後18インチから前17、後18インチに変更。エンジンは ピストンリードバルブからクランクケースリードバルブになり、シリンダーやヘッドも新設計となった。日本はバイクブーム、WGPは熱狂時代である。

よく見るとタンク下にとてつもなく長いリヤサスが配置されているのがわかるはず。このモノクロスサスペンションは76年〜85年まで。86年からアルミフレームとなりリヤサスはリンク式のモノショックとなった。

ターゲットは『レースビギナーからGPライダーまで!』と途方もなく幅広い

面白いなぁと思うのは、TZ250の開発コンセプトの一つに『ビギナーからGPライダーまであらゆるテクニックに応じられるマシンづくり』という項目が入っているところ。現代ならあり得ないが、TZ250の役割がレース界にとっていかに大きかったかがよくわかる。

TZ250は常にこの二律背反を考慮しながらマシンを開発。尖ったリクエストをしてくるプロと、扱いやすさをオーダーしてくるアマチュア、その両方の意見を聞きながら開発は進められていったのだ。レースでは同じTZ250は1台として走っていなかったという。ベースマシンであるTZ250をライダーの好みやチームのアイデアで仕上げ、サーキットのパドックは様々な仕様のTZで溢れていた。

ライバルの一歩先を行くための試行錯誤や創意工夫が随所に見られ、そんなディテールを探すのが楽しかった時代である。

また、世界GPでは、ファクトリー仕様のようなスペシャルでなくてもTZ250で勝つライダーはたくさんいた。それがTZ250の持つ高いポテンシャルだったし、二律背反を具現化していた証明でもあった。

この日はあいにくのウエットコンディション。それでもこの機会を逃したら一生乗れないかも……と思い試乗させていただくことに。まさかこんな日がやってくるなんて夢にも思わなかった。

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