世界グランプリが4ストロークになってからの2000年代のMotoGPは、ヨーロピアンライダーたちがタイトル争いを展開。その中でもヴァレンティーノ・ロッシの強さはズバ抜けていた。そんな中、僕が忘れられないライダーはアメリカ出身のニッキー・ヘイデンだ。ニッキーは表情が豊かで人間らしさを全面に出したライダー。彼のビッグスマイルはとても気持ちがよかった。過去形なのが寂しいが、特に忘れられないのが2006年で、ヴァレンティーノとのタイトル争いは最終戦まで持ち越されたが、ニッキーは最後までニッキーらしく戦った。そして、チェッカー後に喜びを爆発させ、男泣き。その時の感動は、いまでも鮮明に思い出せる。
もしかしたら速さは足りなかったけれど、人間味溢れるレース展開が良かった
2021年、ヴァレンティーノ・ロッシが引退。そして僕はなぜかニッキー・ヘイデンのことを書きたいと思った。それはヴァレンティーノの引退レースを見て自然と涙がこみあげたと同時に、レースを見て泣けたのは2006年以来だと思い出したから。2022年シーズンが始まり、ヴァレンティーノの走っていないシーズンはやはり寂しい。
忘れられないシーズンやレースはいくつもあるけれど、そのひとつが2006年である。
ニッキー・ヘイデンの世界GPでのリザルトは、優勝3回、2位6回、3位19回。ポールポジション5回。2003〜2016年という長いキャリアを見ると決して多いとは言えない。
しかし、印象に残るレースがたくさんあった。当時、僕はホンダやドゥカティの専門誌を作っていたから本人にインタビューする機会が多かったからかもしれない。編集者という仕事を越えて、僕はどんどん彼の魅力に引き込まれていった。
どのメーカーのバイクでもMotoGPでもWSBでも鈴鹿8耐でも、とにかく周回数を稼いで努力する姿と、ひたすら真面目に向き合う姿勢が印象的だった。喜怒哀楽がわかりやすく、とても人間味に溢れていた。
世界グランプリでのアメリカンライダーの活躍は、ケニー・ロバーツ、フレディ・スペンサー、エディ・ローソン、ウェイン・レイニーといったスターたちを生んだ時代からしばらく時間が経っていたというのもあるのかもしれない。
ニッキーがホンダで世界GP最高峰のMotoGPクラスにレギュラー参戦を開始したのは2003年。久しぶりのアメリカンライダーの登場だった。
ニッキーは、幼少期から家族でアメリカのレースを転戦
もともとヘイデン家は、父アール、母ローズがともにレースをしていたというレーシング一家。5人の兄弟姉妹全員がレースを経験し、家族でダートトラックレースなどを転戦していた。ニッキーは3兄弟の次男で、兄のトミーのバイクを借りたりしながらAMAロードレースに参戦し、若い頃からその実力を発揮した。
そして、1999年に全米選手権であるAMAのスーパースポーツ(600cc)クラスでチャンピオンを獲得。2002年にはAMAスーパーバイククラスにおいて史上最年少でチャンピオンを獲得した。この頃からファンに愛される人柄で、アメリカではケンタッキー・キッドのニックネームで親しまれた。
そしていよいよ世界グランプリへの挑戦が始まる。AMAチャンピオンが翌年からホンダのMotoGPファクトリーチームであるレプソル・ホンダに入ることは当時としても異例で、いかにその実力が注目されていたかがわかる。それは世界GPが4ストローク化された2003年のこと。チームメイトはヴァレンティーノ・ロッシである。
アメリカで4ストロークに乗っていたニッキーだけに、MotoGPでの活躍を期待したファンは多い。しかし、MotoGPはそんな甘い世界ではなかった。
MotoGPは別世界。ヨーロピアンライダーに揉まれながら、強さを開花させていく
世界最高峰のプロトタイプのマシンで争われるMotoGPは特別な世界だった。レギュレーションの幅もあり、2ストローク500ccからの過渡期。990㏄でスタートしたMotoGPは急激に進化していった。そこへの順応もライディングスタイルも、ヴァレンティーノ・ロッシを筆頭とするヨーロピアンたちのスキルは極めて高く、ニッキーは苦戦した。
デビューイヤーの2003年は3位表彰台を2度獲得したが、ランキングは5位。2004年も3位表彰台2回で、ランキングは8位。2005年には母国アメリカのラグナセカで行われた第8戦で初優勝を果たすが、ランキングは3位にとどまった。
いま振り返ってみると、この当時はヴァレンティーノ・ロッシ最強時代でもあった。ヴァレンティーノはホンダで2ストローク500㏄最終年の2001年から5年連続でタイトルを獲得、2004年にヤマハへ移籍した後も強さは変わらなかった。
誰がヴァレンティーノを止めるのか? その強さは本当に圧倒的だった。