『困ったらキジマ』…かゆい所に手が届く商品をつくり続けて【50年カンパニー Vol.2 KIJIMA】

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日本における企業の平均寿命は約35年と言われる中、バイク業界には創業から50年を超えるウエアやパーツを製造する長寿メーカーがあまたある。持続可能なバイクライフには優れたライディングギアの存在が不可欠で、それら長寿メーカーは長きにわたってライダーをサポートし続けている。この企画では、そういう長寿メーカーに創業から現在までの道のりをお聞きするとともに、この先の50年を見据えた企業としての在り方もお尋ねする。第2回はエンジンパーツ以外はあらゆるパーツをラインナップする総合パーツメーカーの「KIJIMA」(以下キジマ)。初代社長(現相談役)の考えを引き継ぎ、時代に合わせた商品展開を行っている2代目社長の木嶋孝一に話を聞いた。

●取材/文: Nom ●写真:真弓悟史、KIJIMA ●BRAND POST提供:KIJIMA

ユーザーのニーズを聞いてオリジナル商品を開発してきた

荒川区の花農家の次男に生まれたキジマ創業者の木嶋孝行は、エンジン付きの耕運機がスピーディに効率よく田畑を耕すのを見たときに、「自分のアイデアで素晴らしいものを作りたい」と思った。それが現在まで脈々と受け継がれているキジマの原点だ。

’58年、孝行が勤務していたゴムの製作所を退社して、東京・北区王子の二畳半の貸倉庫で「不二屋ゴム商会」を設立。二輪・四輪や家具用のゴム製品の卸売りを開始した。 現在は、3500のオリジナルアイテムの企画・開発・卸売りをするキジマのはじまりである。

当時はまだ、道路も舗装されていない時代で、雨などが降れば道はぬかるみ、クルマもバイクもゴム製の泥除けが欠かせなかった。さらに、人々がクルマ・バイクを日常的に使用するようになると、こういうものが欲しいという声が寄せられるようになり、それを聞いてオリジナル商品を企画・開発し、協力工場で製造してもらい、その商品の卸売りをするという、現在と同じキジマのビジネススタイルが確立していった。

【左画像】KIJIMA 社歴/【右画像】’75年に北区にオープンしたショールームでは、主にモトクロス用パーツ/ウエアを販売。’70年代は、荒川の河川敷で盛んにモトクロスレースが行われていた。

’60年代には、すでに自社商品のカタログを作成していたキジマ。グリップは写真ではなく、握る部分の凹凸などの詳細が分かるように精密なイラストで描かれている。

三菱シルバーピジョンに乗る初代社長の木嶋孝行。思いついたものをどんどん商品化するアイデアマンだった。

社名の変遷を見れば分かるように、創業からしばらくはゴム製品が主だったが、’70年にアメリカにバイク部品販売店の視察に行ったのを機に、プレス加工製品、プラスチック製品、ダイキャスト製品も手掛けるようになり、バイクパーツの総合メーカーの道を歩み始めることになった。

’70年代前半の第一次バイクブーム、そして’80年代の第二次バイクブームとともに成長したキジマは、ハーレーダビッドソンをはじめとした輸入車用パーツやイタリア製ブーツの販売など業務を拡大していく。また、レースブームがバイク界を席巻していた’80年代には「フェザント」ブランドでレーシングスーツの製造・販売にも進出。そして、キジマにとって大きな転機となった「KISSレーシング」を’85年に設立した。

ときはバブルの真っただ中で、同時にレースブームが起こっていた’85年。蛍光ピンクに塗られたヤマハ・FZR750ベースのF1マシンで参戦を開始したKISSレーシング。

マシンと同じく蛍光ピンクのコスチュームをまとった、当時はまだ珍しいキャンギャルでも大きな話題を呼び、一般誌からバイクメディアまで大きく取り上げられ、キジマの名前も全国区に。同時に、蛍光ピンクのウエアやグッズも多数ラインナップ。原宿・竹下通りにKISSグッズの専門店ができるほどの人気になった。

「自分はまだ中学生だったんですが、キジマ・インターナショナル・スーパースポーツ=KISSという名前でレースをやろうということになって、二輪業界ではまだキャンギャルなんてどのチームにもいなくて、ウチが初めて起用したようです。チームカラーの蛍光ピンクのイメージもあって、それこそ一般誌にも大きく取り上げられました。鈴鹿8耐などのレース活動と一緒に、ウエアやグッズも始めて、原宿の竹下通りにKISSショップまでありました。ただ、ウエアのビジネスはやっぱり水物で、それに加えてレースは出費も莫大なので、時代が進むにつれ、継続は止めようと自分が幕を閉じる結果となりました」と、現社長(孝行の長男)の孝一は言う。

孝一は大学を卒業後、二輪車メーカーに勤務していたが、’94年に退社したのちにキジマに入社した。

「入社と同時に管理部という部署ができて、そこに配属されました。メーカーのサービス部門にいたので、会社の生産の整理を始めて、部材の管理や受発注システムの構築などに取組みました。同時に、製品の品質なども自分でモノをすべてチェックして、クオリティアップさせました。当時はまだ、買ったパーツを自分で加工して取付けるのが当り前でしたが、基本の方向性として、ボルトオンで装着できるようにしていきました」

先代社長は、お客さまが欲しいと思うもの、望むものをどんどん形にしていったが、孝一はそれを一歩進めて高い品質と安心感のあるものへと進化させていったのである。

パーツ単体からトータルでのカスタムに着手、キムタクTW200で一気にブレイクした

「カスタムがもっと身近な存在になるようにと思ったんです」

’90年代は、ホンダ・スティードに端を発するアメリカン・カスタムの一大ブームが起こった。ハーレー用パーツをはじめとして、アメリカンバイク用のパーツも多数用意していたキジマだったが、そのたくさんあるスティード専用パーツを装着してもどうもしっくりこないのに気が付いたという。

「1台のバイクをカスタムしていくという作り方じゃなくて、そのバイクをもっと便利にするとか、使いやすくすることを目的に作ったパーツなんで、全部付けるとバランスが悪いというか……。そこから車両トータルでのカスタムも考えるようになりました」

孝一の提案で、ビジネスバイクのトータルでのカスタムを始めたのが’95年。ホンダ・CD50を皮切りに、ヤマハ・YB50、スズキ・K50を手掛けていき、その実績もあってヤマハの販路へのYB-1用カスタムパーツの提供なども行うようになる。

そして大きなエポックとなったのが、ヤマハ・TW200のカスタムだった。

カスタムショップのモトショップ五郎とジョイントして、純正部品を最小限まで取り外してしまうスカチューンのTW200を製作したところ、これがウケた。さらにその後、TVドラマ「ビューティフルライフ」で、主演の木村拓哉が乗るTWにキジマのパーツが使われていたことで売上が飛躍的に伸びたのだ。

平均視聴率32%・最高視聴率41%という大ヒットTV番組の「ビューティフルライフ」でキムタクこと木村拓哉さんが扮するヘアデザイナーが乗っていた、スカチューンされたTW200が話題を集め、こぞってTWをこのスタイルにカスタムする大流行が起きた。そして、使用されているパーツには注文が殺到。前年比で2倍になるほどの売上を記録したそうだ。

こうして、先代が始めた人が欲しいと思うパーツを作るメーカーから、トータルでカスタムバイクを手掛けるところまで幅を広げたキジマであるが、孝一は、基本は乗りづらく、不便なところを解消し、扱いやすくするためのパーツを作ることだという。しかも、それをいかにスピーディに商品化できるかがキモだとも。

’07年、創業50周年を機に2代目社長に就任したのが孝行の長男である孝一。バイクメーカーに勤務した経歴から、社内体制の改革、商品の品質アップやクオリティコントロールを積極的に推し進めた。手元に見えるのは、歴代のカタログ類。

「いまは何かが大ヒットする前に、ライバルたちもたくさん出てくる時代。中国など、以前は真似をするにも1年くらいかかりましたが、それが半年になり、3カ月になり、早ければ1週間。3Dスキャナーでスキャンすれば、簡単に同じものができてしまう時代です。iPhoneなんて、発売前に図面が出ちゃいますからね。だからスピード感がなければビジネスになりません。製造をしてくれる協力会社との地理的な近さもとても大事で、片道1時間以内にあって欲しいです。この辺り(編注:キジマ本社がある荒川区周辺)は工業地帯だったので、周囲に協力工場があるのもキジマの強みだと思います」

他社がパーツの企画から開発に着手するまでに3カ月かかるところ、キジマは孝一のトップダウンで企画に上がってから最短で1カ月で商品が出来てくるという。もちろん、これも先代から受け継ぐものつくりに対する確かな目があればこそだ。

「困ったらキジマ」と頼られる、かゆい所に手が届くラインナップ

では、ラインナップする3500アイテムの中で、これぞキジマというパーツを教えていただこう。

祖業であるゴムを使用するグリップへのこだわりは半端ではなく、左の「シーンセレクトグリップ」は、同じデザインでスタンダード/ソフト/ハードと3つの柔らかさを用意。走行スタイルや握り心地に合わせたモデルがチョイスできるようにしている。掲載商品は上からNI CE ネオ、ドクター、HMCで、価格はいずれも1760円。

「それがないのが当社の強みですかね。総合的に、これをやったらいいんじゃないかとアイテムを増やすけど、需要がなくなったら止めます。そうやって、まんべんなく商品が入れ替わっていくんでこれっていうのがない。でも定番商品は、キャリア、バッグサポート、ヘルメットロック。これが三種の神器ですかね。加えて、グリップラバーですね。100種類以上用意していて、デザインだけじゃなく太さだったり滑り止め付きだったり、操作性や、硬い・柔らかいなど握り心地を追求しながら作っています。お客さまが好みに合ったものを選べるように幅広くラインナップしていて、シーンセレクトといって同じデザインでスタンダード・ソフト・ハードと3種類の柔らかさが選べるモデルもあります」

’16年には、孝一自身が継続を中止したレース活動も再開した。

「レースの世界から離れているうちに、レース関連の情報やパーツ類がすっぽり会社から抜け落ちていて、レースの世界にキジマのイメージがなくなっていたんです。そこにYZF-R25などフルカウルのスポーツモデルが若い人の間で流行り始めたなかで、JP250という新たなカテゴリーができて、それを機に参戦を開始しました」

’16年からは、現在川口オートで活躍中の小椋華恋選手を起用して、ピンクの車体にピンクのレーシングスーツというスタイルでJP250に参戦を開始。’18年には、ヤマハ、ホンダの2台体制で参戦し、同クラスのシリーズチャンピオンを獲得するなど存在感を示し、若い層へのキジマの知名度向上に寄与している。

チーム名はいろいろ考えた結果、キジマKISSレーシングとし、当時、女子高生だった小倉華恋選手をライダーに起用。蛍光ピンクのマシンがサーキットに戻ってきた。

同時に、狙い通りいままでキジマの名前が届きにくかった層のライダーたちにもアプローチできるようになり、ビジネス的に欠けていた部分も徐々に埋まってきているという。

「キジマはトップじゃなくて二番手でいいと思っています。一番を目指すよりも、二番手をたくさん取れば総合的に一番手になれると思うので。より多くの人が使う、使えるものをいち早くラインナップして、お客様のためになることを目指しています。コロナで急に増えたバイクに乗り始めた人たちに、楽しく安全に乗るための情報を色々伝えたいと思っています。現在ヒット中のスマートエアポンプをご用意したのも、押しつけじゃなくてエア圧っていうのは大事だよとお伝えできればということからなんです」

困ったらキジマ、というくらいにさまざまなバイク用、汎用のパーツをラインナップするキジマ。派手さはないけれど、役に立つもの、便利なもの、扱いやすくなるものは、いつの時代もみんなのバイクライフをしっかり支えてくれるのだ。(文中敬称略)

ド定番商品のヘルメットロックは、汎用品に加え、国産・外車用の車種専用モデルを幅広くラインナップ(100種類以上!)。ヘルロックワイヤーやヘルロックアシストなど、ロックしやすくする周辺パーツも用意している。

「新しいバイクが出たら、キャリアができるかまず確認します」というほど、キャリアのラインナップは非常に豊富。それも、ただ荷物が積めるだけではなく、確実に安定して詰めるかにこだわり、写真のようにタンデムライダー用のグリップを設けたモデルもある。

ウインカー、ランプなどの電装パーツもにも力を入れていて、最近はこのLEDフォグランプが人気だという。ただ明るいだけではなく、対向車にまぶしくないように設計するなど安全性にも気を配っている。

現在、大ヒット中の「スマ−トディスプレイ」(3万5200円)。防水仕様の5インチモニターを備え、スマホやインカムとワイヤレス接続して、地図アプリや音楽再生、通話などを画面上の簡単操作で可能にする便利パーツだ。

’94年にそれまで勤務していたヤマハ発動機を退社してキジマに入社。’07年に2代目社長に就任した孝一は、「東京の会社なんで、センスのよさでは負けたくないですね」と語る。現在の愛車は、イタルジェット・ドラッグスター125とドゥカティ・スーパースポーツ。JMCAの理事も務めている。


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