ブリヂストンがMotoGP(ロードレース世界選手権)でタイヤサプライヤーだった時代に総責任者を務め、2019年7月にブリヂストンを定年退職された山田宏さんが、そのタイヤ開発やレースの舞台裏を振り返ります。2008年後半、山田さんは1本の電話により異例の対応を迫られます。ダニ・ペドロサ選手が、シーズン途中でのタイヤスイッチを望んだのです。
TEXT:Toru TAMIYA
シーズン中に異なるメーカーのタイヤをテストする異例の事態
2008年のシーズン後半、第10戦ドイツGPと第11戦アメリカGP、さらにサマーブレイクを挟んで開催された第12戦チェコGPで連続してブリヂストン勢が表彰台を独占したことで、2008年シーズンに入ってからは沈静化していたタイヤワンメイクに向けた議論が再び活発化。一方でミシュランは、アメリカGPとチェコGPの2戦連続で明らかにタイヤが機能しなかったことで、ユーザーを怒らせてしまったようです。チェコGPでは、多くのミシュランユーザーがMotoGPを運営するドルナスポーツのカルメロ・エスペレータ会長にいろいろ申し入れして、エスペレータ会長も困惑しているという話を聞きました。
我々からしたら、ミシュランの敗因はほんの小さなミスによるもので、それほど大騒ぎすることでもないし、それはブリヂストンにも起こることだと思っていました。表彰台独占にしても、我々がMotoGPに挑戦をはじめて数年間はずっとミシュランの天下でしたが、そのころに「それならワンメイク化にしよう」なんて議論は微塵も起こりませんでした。今でも感謝していますが、ブリヂストンのMotoGP参戦初期に我々と契約していたチームやライダーは、これまでこのコラムで振り返ってきたように多少の“あれやこれ”はありましたが、とはいえ我々を信じてついてきてくれたのです。そもそも、ブリヂストンの参戦初期はミシュランのほうが性能面で上回る場面が圧倒的に多いのが普通のことで、チームはその状況を理解した上で、先を見越してブリヂストンを選んでくれたという違いもあったでしょう。
しかし当時のミシュランユーザーは、タイヤが原因でレースに負けるという状況が許せなかったようです。そしてそれは、ダニ・ペドロサ選手も同様。現在はKTMのテストライダーを務め、2021年第10戦スティリアGP(オーストリア)ではワークスチームからスポット参戦して約3年ぶりとなる実戦復帰を果たしたペドロサ選手ですが、2006年に最高峰のMotoGPクラスに昇格してから2018年に引退するまで、彼がずっとホンダワークスチームに所属していたのは皆さんもよくご存知かと思います。そして2008年のチェコGP決勝終了後、そのホンダワークスチームの監督から私の携帯電話に連絡が入ったのです。「ダニでブリヂストンタイヤのテストをしたい」と……。
ペドロサ選手が翌年から使いたいという話かと思いきや……
前年、我々はHRC(ホンダレーシング)からもタイヤの供給を要請されました。そのときは、これを受けてしまうとMotoGPクラスのタイヤワンメイク化につながることが明らかだという理由により、ヤマハからの依頼とともにお断りしました。しかしその後、紆余曲折あってヤマハワークスチームのバレンティーノ・ロッシ選手のみにタイヤを供給することになりました。
ホンダワークスの監督から連絡が来たのは、決勝レース後にちょうど私がホテルに戻ったころだったので、夜9~10時ごろだったと思います。最近は翌年の契約がかなり早まっている傾向ですが、あの当時はチェコGPが実施される8月あたりに、翌年の話をすることが多くありました。そのため私は、ペドロサ選手が翌年のレースで使いたいということだろう……と思ったのですが、内容は違っていました。「2週間後のミサノでテストしたい(レース後の月曜日から実施されるテストで履きたい)。そして可能ならすぐにでもレースに使いたい」というのが、先方の希望だったのです!
シーズン途中に、契約しているのとは異なるメーカーのタイヤをテストするなんて、普通ではあり得ないこと。ブリヂストンの契約もそうですが、契約期間中は他社のタイヤを使用することは禁止しているので、契約違反となるのです。しかもそれをするのはホンダのワークスチームなのですから、本当に異例のこと。前年、初めてロッシ選手が翌年に向けたテストでブリヂストンタイヤを履くときですら、最終戦直後のテストは「契約があるから」という理由でミシュランにNGとされてしまうくらいでした。しかしこのときばかりは、ミシュランも渋々ながらOKするしかなかったのだと思います。このあたりは、契約といえ力関係によるので、さすがのミシュランもホンダに対して「No!」と言えなかったのでしょう。ペドロサ選手とチームが、それだけミシュランに不信感を持っていたということなのでしょうが、突然の依頼に私も驚きました。さすがに、私の一存で決められることではないので、社内でもいろいろと議論。その結果、前年もHRCの要請を断り、また今年も拒否するというわけにはいかないだろうということになりました。
ミサノのサンマリノGPは、ロッシ選手が優勝し、ケーシー・ストーナー選手はチェコGPに続いて2戦連続で転倒リタイヤ。ペドロサ選手は4位でゴールし、これによりシリーズランキングでは、トップのロッシ選手が2番手のストーナー選手に対して75点、3番手のペドロサ選手に対して77点と大きくリードを伸ばし、ロッシ選手が完全に頭ひとつ抜け出しました。そして決勝翌日、ブリヂストンはペドロサ選手のために、他のライダーが使っている標準的なスペックのタイヤを用意。たしか、他のライダーがほとんど走っていない環境で、これをテストしてもらいました。
するとペドロサ選手は、ブリヂストンタイヤに対してかなり良好なフィーリングを得たようで、ある日本人メカニックはテスト後、「1本目の走行を終えてピットに戻ってきたとき、ダニのあんな笑顔をかなり久しぶりに見ました」と話していました。ラップタイムも非常によく、前日の決勝中にロッシ選手が記録したファステストラップタイムを、非公式ながら0.3秒更新。これは、ペドロサ選手の決勝ベストラップからは0.8秒も速いタイムでした。テストの後、私はHRCの役員やワークスチームの監督、エンジニアらと食事をしながら話をしました。テストでブリヂストンタイヤのフィーリングが良かったことはうれしかったのですが、「すぐにでもタイヤをスイッチしたい」ということを言われて困ったのを覚えています。
そしてこのテストを経て、ペドロサ選手はなんと翌々週に開催されるインディアナポリスGPから、ブリヂストンにタイヤをスイッチすることを決意。まさに異例尽くめなのですが、そのためにこちらもかなり大忙しになりました。テストとはいえ、何かあったときのために契約書または最低でも覚書を取り交わす必要があり、チェコGP終了後にまずはこれを作成。ミサノのサンマリノGP中にも、日本の法務部とメールと電話で連絡を取りながら、テストに向けた覚書を月曜日のテスト前までに合意することができたのです。インディアナポリスGPがテストの2週間後ということは、最初のフリープラクティスを考えたら10日後には走行がスタートするわけですが、そこまでには新たな契約書も必要です。HRCとブリヂストンの契約書は日本語なので、その点では少し楽なのですが、もちろんお互いの法務部などとやり取りしながらなので、とても大変でした。
まあ、いま思えばあの年、ドイツGPでクラッシュしてケガの影響でアメリカGPを欠場し、復帰したチェコGPを15位で終えた段階で、ペドロサ選手はシリーズタイトル獲得を諦めたのかもしれません。HRCとしても、ペドロサ選手のモチベーションを上げるために、なんらかの刺激が欲しいと思ったのでしょう。ライダーとしても、たった1回テストして実戦で使うなんて、かなりリスクも高いと思うのですが、現状に対する大きな不満とともに、すでに心は翌年のシーズンに向いていたのかもしれません。
それにしても、インディアナポリスGPでは、当時体重の軽さからウェットを苦手としていたペドロサ選手が、初めてのブリヂストンのウェットタイヤを、初日のプラクティスで使用しただけでレースに臨んでのこの結果は、彼のモチベーションとポテンシャルの高さを感じたものでした。
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