前倒しでの実戦参加が見えてきた!?

山田宏の[タイヤで語るバイクとレース]Vol.12「接地感って、なんですか?」

ブリヂストンがMotoGPでタイヤサプライヤーだった時代に総責任者を務め、2019年7月にブリヂストンを定年退職された山田宏さんが、かつてのタイヤ開発やレース業界について回想します。2001年は、ロードレース世界選手権最高峰クラス参戦に向け、タイヤ開発テストを繰り返していた時期。山田さんはチームの主要メンバーとして奮闘していました。


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2001年1月中旬にスペインのヘレスサーキットで初めて実施した、ロードレース世界選手権(WGP)のGP500用タイヤ開発を目的とした実走テストは、2月中旬にもヘレス、3月中旬には同じくスペインのカタルニアサーキット、4月中旬に再びヘレス、5月は上旬にヘレスで、下旬にチェコのブルノサーキットと、ほぼ毎月1回ペースで続けました。ヨーロッパのサーキットのみをテストの舞台に設定したのは、1990年代前半にWGPのGP250クラスで、日本のコースではチャンピオンを獲得したタイヤがまるで通用しないという体験をしていたから。とにかくヨーロッパのGPコースでテストをしなければ、意味がないと思っていました。

第1回のテストでは、開発ライダーの青木宣篤選手からかなり厳しい評価もされましたが、その後の開発は比較的順調に進みました。それは、前回紹介したように科学的アプローチに取り組んだ成果でもあるのですが、それに加えて開発部隊に能力が高いメンバーが集結していたことも大きかったと思います。プロジェクトメンバーを集める段階で、これまでの経験に関係なく、とにかく優秀な人間を集めるという方針で人選。そのため、レース用タイヤの経験がないとか、二輪用タイヤに携わったことがないというメンバーも多かったのです。

彼らは技術的には非常に優秀であるものの、何人かはメンバーに加わる段階でレースもバイクのこともまるでわからない状態だったので、それに起因する苦労もたしかにありました。開発者は実走テストのときにライダーのコメントを聞き取り、それを次回に試作するタイヤに落とし込んでいくのですが、彼らはバイクに乗ったことすらないのでライダー特有の言葉を理解できないことがあったのです。

テスト走行終了直後、タイヤのフィーリングを開発スタッフに伝える伊藤真一選手(写真中央)。マシンの挙動をライダー特有の言葉で表現することもある。

じつはライダーごとに違っていた接地感の定義

あるときそんなメンバーのひとりが、「よくみなさんが普通に使っている言葉なのですが、接地感ってなんですか?」と聞いてきたことがあります。彼はライダーが、どの部分からどんな挙動を感じ取って表現するのか?タイヤからどんな力が出ると良いのかを知りたかったのです。ちょうどその場には、青木選手ともうひとりの開発ライダーだった伊藤真一選手も同席。そこで両選手と私で接地感の定義について話したところ、じつは同じライダー間でも少しずつ違うことが判明して、お互いに「えっ、それを言っていたの?」と、むしろ我々のほうが驚いてしまったことがあります。

私は過去に、公道用タイヤの試験もやっていて、オートバイ4メーカーの開発評価ライダーとも手合わせテストをしていたので、自分がレース業界の標準とは思いませんが、二輪業界の標準的な感覚を知っていると思っていました。そして、「タイヤを通して路面の状態、接地の状態がわかりやすいかどうかということが接地感」というのが私の定義でした。ところが伊藤選手に言わせると、「そこでグリップが出て、力が伝わってくるのが接地感だ」と。だから、私の場合は「グリップ力はないけど接地感はある」が成立しますが、伊藤選手の場合はそういう状態はあり得ないことになります。ちなみに青木選手は、伊藤選手と私の中間みたいなところに定義がありました。まあたしかに、接地感というのはあいまいな言葉です。接地感とグリップはどう違うのか……とか。私の中では、そのふたつは別のものとして説明できるのですが、伊藤選手の中では一緒だったのです。接地感以外にも、ライダー用語というのはたくさんあります。未経験者がプロジェクトに入ってきたことで、キャリブレーションというか、あらためてそういう用語の定義についてすり合わせをできたことは、私にとっても有意義な経験でした。

そしてそんな会話などもプラス材料となって、それまで二輪レースが未経験だった開発者たちも、徐々にライダーが話す言葉の意味を理解できるようになり、それをどういうカタチでタイヤの設計に反映させていけばよいのかをイメージできるようになっていました。思い返せば、やはり彼らはみんな優秀でした。その後、私を除けば全員がかなり偉くなりましたから……。それに、この新しい大きなプロジェクトに関わっていたメンバーは、みんなとにかく高いモチベーションを持っていました。「とにかく、絶対ミシュランに勝つぞ!」と闘志を燃やしていたのです。

2001年5月上旬、スペインのヘレスサーキットでタイヤテストのために周回を重ねる伊藤真一選手。

こちらも同じく、5月上旬のヘレステストを走る青木宣篤選手。マシンは1台のみなので、2選手が交替で走行。

これまでにない緊張感に包まれたブルノテスト

そして開発テストが順調に進んだ結果、我々は当初の計画を大きく前倒しできるかもしれないところにまで達していました。プロジェクトを立ち上げた段階では、2001年と2002年に研究開発を続けて、2003年の参戦初年度にしっかり結果を残すというプラン。これを2002年からの参戦に変更できるかもしれないと思えるレベルになったのです。参戦を早めたかったのには、テストは所詮テストでしかないという認識だったことも影響しています。専有しているコースをテストライダーが自分のラインで走るのと、たくさんのライバルと競い合いながら走るのでは、さまざまな要素が異なります。求められるハンドリングもシビアになるし、バトルしながらタイトなラインでコーナーに進入したりスロットルを開けたりすれば、タイヤへの負担も大きくなります。将来的な目標に到達するためには、早い段階での実戦開発は必然と考えるようになっていました。

しかしWGPに参加するなら、当然ながら我々のタイヤが実戦レベルに達していなければなりません。そこで我々は、7月上旬と下旬にブルノでテストを終えたあと、約1ヵ月間のインターバルを開けて8月27日から再び予定されていたブルノテストの結果をもって、翌年から前倒し参戦するかどうかの判断をすることになりました。ちょうどテストの前日には、WGPのチェコGPが開催されたばかり。つまり、こちらは単独での走行とはいえ、前日にレースが行われてラップタイムの基準があり、路面状況もほぼ同じなので、現状の比較をするには絶好のタイミング。加えて、翌年から参戦するならその準備も必要なので、その時間を考えたらここで最終判断をする必要があったのです。

そのテストが非常に重要な意味を持つことは、ブリヂストンの各担当に伝えてありました。もちろん、伊藤選手と青木選手にも話してありました。そのため8月末のブルノテストは、これまでにないほど緊張感が漂っていました。

5月上旬のヘレステストは、ヨーロッパにおける5回目のテスト。ピット風景にも、なんとなく落ち着きが見られる!?

テストには、コンパウンドや形状や構造が異なる新作タイヤを毎回大量に持ち込み、走行によって各要素の方向性を探っていった。

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