ブリヂストンがMotoGPでタイヤサプライヤーだった時代に総責任者を務め、国内外に名を知られた山田宏さん。2019年7月にブリヂストンを定年退職された山田さんが、かつてのタイヤ開発やレース業界について回想します。今回は、ブリヂストンのロードレース世界選手権における低迷と返り咲きの“重要人物”となった、東雅雄選手の話を中心に……。
TEXT: Toru TAMIYA
「今度はどんな日本人が来るんだ?」と注目された時代に、契約ライダーがゼロ
1997年は、第4戦以降に契約ライダーがだれもいなくなるという、ロードレース世界選手権(WGP)にブリヂストンがフル参戦を開始してからもっとも厳しいシーズンとなりました。しかもこの年は開幕前にも、予想外の出来事により大きなチャンスを失っていました。
当時、全日本ロードレース選手権からWGPにステップアップしてきた日本人ライダーが、いきなり速さを発揮して活躍することがとても多く、「今度はどんな日本人が来るんだ?」とか「速いライダーを紹介してくれ!」というような話が私のところにもたくさん来ていて、ライダーだけでなく私もチームからモテモテの状態でした。そんな中、1996年の全日本GP125チャンピオンとなった東雅雄選手が、翌年のWGP参戦を希望。全日本時代にブリヂストンユーザーだったことから、私が新たな所属チームとの交渉を務めました。
簡単に言うなら、マネージャーのような業務です。いろいろなチームが東選手を狙っていましたが、そのうちのひとつが、1996年までブリヂストンタイヤを履いてWGPを走っていた選手が引退して設立したオランダの新チーム。ブリヂストンとつながりがあったことなどもあり、そのチームと東選手は契約することになりました。もちろん私がブリヂストンとチームの契約を担当しているわけですから、「タイヤはうちから供給するから、一緒にやろうね」というようなことを話しながら、いろんな交渉をまとめていきました。
ところが、1997年シーズンの開幕直前テストがスタートする2月ごろになって急に、そのオランダチームのオーナーが、「ごめん、タイヤはやっぱりミシュランと契約する」と一方的に言ってきたのです。私も東選手も、そんなことが許されるわけないと思ったのですが、じつはその段階でブリヂストンとそのチームはまだ契約を交わしておらず……。世界の場で我々の主張が認められるわけもなく、ブリヂストンとしては東選手を引き抜かれただけという格好になってしまったのです。やっぱり日本人特有の口約束で安心せず、早い段階で正式な契約書を作成しておくことが大切なのだと、そのときに身をもって痛感させられることになりました。そしてその後に、契約ライダーゼロの時期を迎えるわけですから、踏んだり蹴ったりのシーズンでした。
使い慣れたブリヂストンタイヤでWGP初年度を戦う気持ちでいた東選手にも、申し訳ないことになってしまったのですが、その段階から我々にできることはありませんでした。とはいえミシュランのGP125用タイヤも、青木治親選手が1995年と1996年に2年連続チャンピオンを獲得。実績はありましたから、「本当に申し訳ないが、とにかく1年間は頑張って!」と励ましました。しかし後から聞いた話では、ミシュランは東選手とは合わなかったようで……。「ミシュランは乗り手やマシンを選ぶ」というようなことを言う人も多く、他のミシュランユーザーでも、マシンの仕様を色々変えて苦労していたチームもありました。もちろんこれは、その当時のGP125用タイヤは、という話ですが。
そんな非常に痛い教訓もあって、東選手とブリヂストンは1年がかりで、1998年に走れるチームを探して交渉。そしてようやく、ベルギーのチームに移籍してブリヂストン契約ライダーとして走ることができたのです。じつはこのころ、私は気持ちがかなり萎えた状態でした。「レースの仕事を辞めるか……」とか、「会社も退職するか……」なんて考えるほどのネガティブ思考。1991年からチャンピオン獲得を目指して7年やって、逆に活動が萎んでしまったことで、すべてにおいて限界を感じていました。しかしそのときの開発本部長がとてもポジティブな人で、「オマエがやらなくてだれがやるんだ!」と叱咤激励してくれたのです。シーズン終盤には、「一緒にWGPの現場に行って、新しい契約ライダーを獲得するぞ!」なんてことも……。私は行きたくなかったのですが、引っ張られるように欧州へ行って色々なチームと話をしました。いま振り返れば、あの応援が約10年後のMotoGPチャンピオンにつながるわけです。
1999年には開幕3連勝を飾った東選手
そして1998年、東選手は開幕戦の日本GPで3位に入賞してWGP初表彰台に登壇すると、その後も3度の3位入賞。そしてシーズン終盤の第13戦オーストラリアGPで初優勝を挙げ、翌年の快進撃につなげました。1999年も同じチームからの参戦となった東選手は、開幕から3連勝を挙げ、シーズン折り返し地点となった第8戦イギリスGP終了時点で5勝をマーク。20点差のポイントランキングトップに立っていたのです。
東選手の大活躍に、我々としても「今年こそチャンピオンを獲る!」と意気込んでいたのは言うまでもありません。しかもこの年、ブリヂストンの契約ライダーは前年の2人から5人に増えていて、第6戦カタルニアGPではアーノルド・ビンセント選手が優勝。ブリヂストンはここまでで6勝を記録していて、1997年のどん底がウソのように好調でした。しかし全16戦を終わってみれば、第12戦バレンシアGPと第14戦南アフリカGPでジャンルイジ・スカルビーニ選手が勝利を収めて、ブリヂストンとしてはWGP最多優勝回数となるシーズン8勝を記録できたものの、東選手のランキングは3位。チャンピオンにはまたしても手が届きませんでした。
シーズン中盤までランキングトップで、タイトル獲得が期待された東選手は、第10戦チェコGPの土曜日フリー走行で、なんと鹿と衝突して激しくクラッシュ。そのとき、遠くからの映像がモニターに映されていて、マシンが粉々になって宙を舞うのを見た私は、慌ててスクーターで現場に向かいました。現場には真っ二つになったマシンと、背骨がくの字に曲がって息絶えた体長1.5m位の鹿が! 東選手は幸いにも意識があり、救急車でメディカルに運ばれました。メディカルでは私が東選手から状態を聞き、ドクターコスタ(当時のWGP専任イタリア人ドクター)に伝えて処置をしてもらいました。ちなみにその後、再び現場に行ってみると、それほど時間は経ってないのに鹿はすでにいなくなっていて、「地元の人たちが鹿鍋にしたのでは?」とウワサされていました……。
幸いにも東選手のケガは全身打撲で済んだのですが、その後に調子を落としてしまいました。ちなみにこの年のチャンピオンは、一度も優勝がなくコンスタントに上位入賞を続けたエミリオ・アルサモラ選手。またひとつ、レースやチャンピオンシップを戦うことの難しさを痛感させられました。
日本から炊飯器を持っていき、日本食恋しさに料理を始める
ところで話は変わりますが、後に私のとても大きな趣味となった料理をちょこちょこやるようになったのも、これくらいの時期だったような気がします。といっても当時は、いま振り返れば料理と呼べるようなレベルではなく、スーパーマーケットで野菜などを買って日本から持ち込んだ麻婆豆腐の素などを使って炒めるとか、夏は定番のそうめんを茹でるとか、その程度でしたが……。とはいえヨーロッパの野菜は、キャベツが固くて生では食べられないとか、ナスは巨大とか、日本とはちょっと違うので、あれこれ工夫しながら調理していた記憶があります。そういう意味では、現在のあれこれ研究しながらおいしさを追求するという私の料理は、あのころに土台が築かれかのかもしれません。
もっとも当時は、料理好きだったわけではなく、日本食への恋しさからやっていただけ。日本から炊飯器を持っていき、電圧変換器を使って米も炊いていました。サービスカーは、初代のバンタイプ、その後のキャンパー&トラックというスタイルを経て、トレーラータイプになっていました。その前側に事務所があって、小さいキッチンも備わっていたので、よく料理をしていました。東選手はベルギーのチームに所属していて、当然ながら日本食なんてありませんから、ブリヂストンのサービスでよく一緒に私のご飯を食べていました。いやあ、懐かしい思い出です。
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