過ぎ去りし青春の日々

戦いは金属管とともに

本誌姉妹誌であるレーサーレプリカ専門誌「Replica」Vol.2より、“チャンバー”をテーマとした高橋GOコラムをお届け。レプリカ全盛期を過ごした学生ライダーの青春を鮮やかに回想します。

やる気みなぎるチャンバーはトラブルの巣窟でもあった

信号待ちで、隣にバイクが並ぶ。RZ250だ。視線は交わさない。前方を凝視したまま、ただ軽くスロットルをあおる。

「パラン」

「パララン」

チャンバーから吐き出されるエキゾーストノートが、ふたりの会話だ。

「やるか?」

「やるか!」

オレはリヤブレーキペダルに足を乗せ、大きくスロットルをひねる。

「パララララ……」

アイドリング付近では不整脈のように乱れていた排気音が、回転数を高めるにつれてキレイに整う。
隣の信号が黄色から赤になったのを、横目で確認する。あくまでも横目だ。決して頭を横に振ってはいけない。視線は前方へ。そう、ひたすら前だけを……。

シグナル、グリーン──。

ブレーキペダルから足を話すと同時にクラッチをつなぎ、スロットルを全開にする。

パ、イイィィン……。

加速が鈍い。真横にいたはずのヤツの背中が見える。回転数が低かったか。半クラを少し長めに当てる。

行け! 回れ! 加速しろ!

だがヤツの背中は少しずつ小さくなる。チャンバーが見えてくる。細いサイレンサー。YUZO……。まさか、オレのRG250Γ+スガヤチャンバーが敵わない? いや、今日の湿気に、セッティングが合っていないだけだ……。


……というようなシーンを、僕はいつも後方から眺めていた。1969年生まれの僕は、レーサーレプリカブームの中でも後発組にあたる。2ストレプリカ全盛期は高校1、2年生で、ひたすら金がなく、「バイクは絶対禁止」とのたまう親をだまして買ったMBX50Fのガソリン残量を気にしながらチンタラと走るのが関の山だった。なぜか「バイトも絶対禁止」だったので、わずかな小遣いを使わないように昼飯は当然抜き、ビッグコミックスピリッツは網棚から拾い、どうにか燃料代やオイル代を捻出していた。

だから僕にとって、2ストレプリカは高嶺の花のさらに上の方にあって、咲いているかどうかも霞んでよく見えないほど高い所にある憧れの中の憧れだった。が、幸いにもまわりのバイク仲間たちがΓだTZRだNSRだと所有していたので、何だかんだと乗る機会はあった。幸福な時代だったのだ。

そして彼らの多くは軒並みチャンバーを交換していた。JhaだのSP忠男だのルーニーだのノーブランドだの、さまざまなチャンバーが貧しい僕の頭上を飛び交っていたが、おおむねみんな調子が悪かったのがせめてもの救いだった。

天候だ高度だなんだかんだと言っちゃあキャブレターのセッティングをいじり、プラグを交換し、カブッただの焼き付いただのとますます調子が悪くなり馴染みの油臭いバイク屋に泣きつく……。そんなことを延々と繰り返す彼らの姿はざまあみろ、ではなく、正直うらやましかった。

でも、友人たちの悪戦苦闘っぷりを見るにつけ、「何かとめんどくさそうだし、自分のMBXはノーマルのままでいいや!」とも思っていた。当時の僕はいろいろな物事から逃げたしたくて、とにかく走って遠くに行きたかった。だからトラブルで走れなくなることに少しも面白みを感じられなかった。


ただ、信号待ちで隣にビートが並んだ時だけは、「ぐぬぬ……」と奥歯を噛みしめた。ノーマルMBXでは太刀打ちできない強豪である。どうにか出し抜いてやろうと他のクルマを利用しながら(申し訳ありませんでした)前に出ても、ちょっとしたストレートがあるとビートはウソのような加速を見せ、チャンバー音も高らかに僕を抜く。しかもノーマルスクーターの分際で。

「きっとV-TACSペダルを踏んでやがるんだろうな……」

そう、ビートは生意気にも可変トルク増幅排気システムを装備していやがった。あまりに悔しく、「チャンバー換えてえ!」と心から叫んだ。

しかし、ない袖は振れない。僕はサイフからなけなしの小遣いを取り出し、用品店のレジに向かう。HRCの耐熱ステッカーを持って。かの有名な「ステッカーチューン」だ。ノーマルチャンバーに貼ったHRCのステッカーは、湾曲にうまく添わず、すぐに剥がれて風に散った。きっとパチものだったに違いない。

250㏄に乗りチャンバーを交換する強者どものはるか後方で、原チャリ小僧もそれなりにイキがっていたのである。上から下まで何かと熱くてウザい混沌の時代であった。

高橋 剛

高橋 剛

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カート上がりのバイク野郎。心震わす原稿が得意で、あのスポーツ名門誌・Sports Graphic Numberにも寄稿したりしなかったり。セッティングさえ出れば怖いものなしの隠れ文豪。

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