書籍/雑誌づくりを通じてのPR活動

編集者の執念に応えることは最高のPR活動【ホンダ高山正之のバイク一筋46年:第7回】

ホンダ広報部の高山正之氏が、この7月に65歳の誕生日を迎え、勇退する。二輪誌編集者から”ホンダ二輪の生き字引”と頼りにされる高山氏は、46年に渡る在社期間を通していかに顧客やメディアと向き合ってきたのか。これを高山氏の直筆で紐解いてゆく。そして、いち社員である高山氏の取り組みから見えてきたのは、ホンダというメーカーの姿でもあった。連載第7回は、二輪系の書籍/雑誌編集者との関わりについて振り返る。

1996年12月、『ビッグマシン』誌の連載企画で、スーパーカブの開発者の方々にインタビュー取材の場を設定しました。ビッグマシンと原付モデルという不釣り合いな取り合わせです。この企画は、内外出版社にて二輪の歴史に関わる資料や様々なノウハウを収集したいとの思い入れでスタートしたものでした。ホンダにおいては、12か月の連載で、毎月エポックメーキングな製品の開発に携わったエンジニアのインタビュー取材と、その製品の撮影をアテンドするのが私の担当でした。初代スーパーカブの開発に関わったOBの方々の話を聞いていると、本当に全身全霊を傾けて取り組んでいた製品であることが改めて理解できました。ビッグマシン誌への掲載は、1997年から1年間です。

連載が終わると、本田技研工業が創立してから50年を迎える1998年になります。この企画は、ホンダの50周年を見据えてのものでした。CBについては、最初のモデルのCB92から、CB750FOUR、CB1000 SUPER FOURなど歴代の開発者達に、思いを語ってもらいました。また、NSR500などのレーシングマシンもテーマに挙げて取材をしました。たびたび鈴鹿サーキット内にあるコレクションホールを訪れ、歴代マシンの撮影に対応。そして、ようやく12回分が終了しました。

弊社刊『ビッグマシン』の連載企画「HONDA SPRITS 夢に挑む」は、写真の1997年2月号から連載がスタートした。大型バイクのみを掲載するという編集方針を頑なに貫いてきた同誌がスーパーカブを取り上げたのは、当時の埜邑博道編集長にとっても大きな決断だっただろう。第2回ではCB72(247cc)、第3回ではCR110がクローズアップされていた。

ほっとしていますと、埜邑編集長から「この企画は大変好評です。予定にはなかったのですが、もう1回特別編をやりましょう。ホンダの創業期から現在までを一気に語るような…」という提案がありました。嬉しい反面、「どうしたものか。人選は? 製品は? 1回でどう見せられる?」と思案しながら編集長と考え込みました。その結果、二代目社長として、またエンジニアとしても二輪製品やレースに携わった河島喜好最高顧問と、朝霞研究所で精力的に活動している技術者との対談に決定しました。撮影用の製品は、河島さんがエンジン設計をしたドリームE型です。青山本社の正面に展示して、河島さんには50年代をイメージさせる皮のジャケットを着てもらいました。こうして、番外編として約50年に及ぶホンダの二輪車づくりについてまとめていただきました。

’98年2月号「夢に挑む」の番外編に登場いただいた河島喜好氏。1947年に入社し、マン島TT参戦の監督などを務めた後、’73年10月に45歳の若さでホンダの2代目社長に就任した。写真のドリームE型(’51年10月)に搭載されている4ストロークOHVエンジンは河島氏が設計したもので、当時のホンダの経営を支えた製品だった。

この開発ストーリーは、ホンダ編の次にヤマハ編、スズキ編、カワサキ編と続き、その後に1冊にまとめ上げられました。ネット販売のみという当時としては斬新な販売手法が取られました。この特集に携わったおかげで、OBを含めた開発者の方々と交流することができました。この経験が、後の開発者取材や歴史取材に大いにブラスになりました。この特集本は、ホンダの歴史を学べる良い教科書として、社内外から借用の要望が多く、たびたび貸し出されました。残念ながら本は手元に残っていませんが、編集者の熱意に押されて多くを学ぶことができたと思います。

『ビッグマシン』2000年12月号増刊として発行された『開発者が語る20世紀の名車』は、4メーカー・121名の開発者にインタビューを実施して制作された執念の1冊。連載期間は約3年半、回数は39回に及んだ。執筆は鈴木常平氏とつじ・つかさ氏が担当し、20世紀の国内4メーカーの技術陣が傾けた情熱を文字にして残した。

『ビッグマシン』の連載企画で学んだこと

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