ホンダMVX250F[名車レビュー] 250レプリカブームに埋もれた、異色の2ストV型3気筒


●文:モーサイ編集部(阪本一史) ●写真/資料 Honda 八重洲出版

NS→NSRへとつながった、MVXの苦い経験

1980年代前半から1990年代にかけての250レーサーレプリカブームの主役と言えば、前半はヤマハRZ250/スズキRG250Γ/ヤマハTZR250。そしてブームが熟した1980年代後半、圧倒的な性能で人気を獲得したのがホンダNSR250Rであることに、異論を挟む人はいないだろう。

だが、ブームを制したNo.1メーカーのホンダが、前半になぜ成功を納められなかったのか? ただ手をこまねいていたのではないものの、1983年2月から発売されたMVX250Fでの苦い経験が、後のNSRでの成功への踏み台になったことは記憶に留めておきたい。

1983年2月1日発売のMVX250F。3種のカラーリングでアグレッシブな雰囲気の外装は専用設計だったものの、車体はVT250Fと共通部分も多く、全体のフォルムは似た印象。後に発生した車両の不具合をはじめ、登場時から性能値で優位に立てなかったこと、VT系フォルムが新規性に乏しかったことも、ライバルに対して見劣りした要因かもしれない。

250ccクラス初のホンダ製2サイクルロードスポーツ

水冷2サイクル並列2気筒搭載のRZ250(1980年)を起点として着火した250レーサーレプリカブームに、ホンダが最初の対抗馬としたのは、水冷4サイクルV型2気筒のVT250F(1982年)だった。

バイクに少し詳しい方ならご存知のように、ホンダは創業者(本田宗一郎)の好みも反映して、4サイクルへのこだわりの強いメーカーだったため、250ccクラスの高性能競争にVTを選んだのは不思議ではなかった。

実際、2輪の世界GPでも、ホンダは参戦第一期の1959年から1967年まで各クラスに4サイクルレーサーを投入して、数々の栄冠を獲得。そして1979年の世界GP500ccクラス復帰参戦に際しても、革新の楕円ピストンを採用した異色の4サイクルV型4気筒レーサーのNR500を投入。1970年代後半、世界GPマシンの主力はスズキRGやヤマハYZRら2サイクルレーサーだったにもかかわらず、ホンダは4サイクルで勝つことにこだわったのだ。

だが、重量的なハンデ、パワーの引き出しやすさなどで2サイクル有利が明らかなレースシーンの中にあって、NR500は1979年から1981年までの世界GP500ccクラスで苦戦。表彰台はおろか、1桁の順位で完走することも叶わなかったが、そうした中で2サイクルレーサーで雪辱を期すべく、NS500の開発を進めていた。

世界GP500ccの復帰初戦・1979年英国GPを走る4サイクルレーサーNR500+ミック・グラント。異色の楕円ピストン採用V4レーサーは大きな注目を集めたが、予選タイムはトップYZR+K.ロバーツから7秒落ちが精一杯。結局2台のNRはミック車がスタート直後に転倒、もう1台の片山敬済車も数周後に点火系トラブルでリタイアという苦い初戦となった。

スズキ/ヤマハの2サイクル4気筒(スズキはスクエア4気筒のRGシリーズ、ヤマハは並列4→スクエア4→V4と変遷したYZRシリーズ)が主戦を張る中にあって、ホンダのNS500は異色のV型3気筒を選択(前1気筒/後2気筒)。軽量化と車体のコンパクト化に着眼し、ピークパワーでは4気筒に劣っても、コーナリングスピードや軽量な車体での運動性能に期待したのだ。

結果、NS500は1982年のデビューイヤーに3勝、1983年にはNS500+フレディ・スペンサーが、ヤマハYZRを駆るケニー・ロバーツを僅差で制して、チャンピオンを獲得。2サイクルロードマシンでは後手に回っていたホンダがついに本領を発揮した。

NR500での雪辱を期すべく、1982年シーズンから世界GPに投入された2サイクルV3レーサーNS500。ゼッケン40はF.スペンサーが初優勝したベルギーGPでのマシン。そしてランキング3位でゼッケン3を付けた1983年シーズン、NS500+F.スペンサーはヤマハYZRのキング・ケニーとの接戦を制し、チャンピオンを獲得。

そうした機運に乗り、市販車市場でもホンダの2サイクル車に期待する声は高まり、国内市場での250ccレプリカブームの渦中に、クラス初の2サイクルロードスポーツ「MVX250F」を投入した。

NS500レーサーに倣った(!?)異色のV型3気筒エンジン

他社の250cc2サイクルスポーツが並列2気筒を搭載する中にあり、MVX250Fの要となる特徴が90度V型3気筒エンジン。レースシーンでのホンダNS500がV型3気筒を選んだのに倣って、市販車250ccクラスでもV3を選択したのは、いかにもレーサーからのフィードバックを感じさせるもので、筆者を含む当時のスポーツバイクファンは、「その心意気やよし」と歓迎したものだった。

だが、実際の仕様はレーサーNS500からの反映というわけではなかった。NS500のVバンク角は異色の112度であり、3気筒は前が1気筒/後ろが2気筒。つまりバンク角も異なり(MVXは90度)、前後の気筒配置も逆(MVXは前がほぼ水平配置の2気筒、後ろがほぼ直立の1気筒)なのだった。

そしてレーサーのNS500がバランサー搭載でV型3気筒の振動を打ち消したのに対し、MVX250Fはバランサー不採用の代わりに、前2気筒と後ろ1気筒の重量配分でバランスさせる方法を選択。これをホンダは“中央気筒バランサ方式”と称し、資料では以下のように説明している。

「2サイクルエンジンは、特有の振動を低減するためにバランサを装備していましたが、クランクケースの小型/軽量化のために、原点に立ち返ってバランサという補機構を廃し、後ろ側No.2シリンダのコンロッド小端部およびピストンピンを、前側のNo.1/No.3シリンダの各々の同部分に対して約2倍の重さを持たせることにより、3気筒化および90度V型配置とともに一次振動の低減化を可能にしました」

リリースを読む限り、NS500に対してMVX250Fの取ったこの手法は決して安易ではなく、ホンダの技術陣が相当苦心の末に採用したように見える。そして前後の気筒配置をNS500と逆にしたのは、前2気筒として整備性を良くする必要性と走行性/実用性を考えた結果だというが、市中の血気盛んなライダーはそれよりも性能スペックに物足りなさを覚えた。

MVX250Fのカタログより。カタログネームの冒頭で1982年世界GPデビューで3勝を上げたNS500の功績を誇り、「世界を驚愕させた2サイクル水冷V型3気筒エンジン」「オンロードNSとも呼ぶべきロードマシンが出現」「NSレーサーのテクノロジーを受け継いで、今ロードに躍り出ました」と、MVX250Fを刺激的にアピール。

1983年2月、目まぐるしい250レプリカ攻勢

1983年2月に発売されたMVX250Fの性能は、最高出力40ps/9000rpm/最大トルク3.2kg-m/8500rpm。そしてライバルのヤマハは、RZのフルモデルチェンジ版RZ250R(水冷2サイクル並列2気筒)を同月に投入。その性能は最高出力43ps/9500rpm/最大トルク3.4kg-m/8500rpm。さらに同月の数日後には、スズキが革新的なRG250Γを投入。こちらは上記モデルと異なり、市販車初のアルミ角パイプフレームを採用し、水冷並列2気筒のエンジン搭載で最高出力45ps/8500rpm/最大トルク3.8kg-m/8000rpmを発揮。異色にして革新のV3エンジン車MVX250Fは、性能競争のトップを取ることなく、登場から間もなく存在感を薄めて行くこととなった。

MVX250Fと同じ1983年2月登場のライバル車・ヤマハRZ250R(左)とスズキRG250Γ(右)。43psのRZ、後に250ccのメーカー自主規制となった上限の45psを誇ったRG250Γの高スペックに、MVXは登場間もなく存在感を薄めてしまった。価格はMVXの42万8000円に対し、RZは39万9000円、RG250Γは46万円。

同クラス同カテゴリーのモデルが揃って同じ月にフルモデルチェンジ/新登場することなど、今では考えにくいが、1980年代当時の過熱した国産車市場では当たり前。バイク関係の各雑誌はさぞかし話題に事欠かかず、目まぐるしく取材と試乗を進めたに違いないが、各メーカーはそれ以上の多忙さだっただろう。

加えて、折悪しく販売競争で苦戦したMVX250Fには、大変な“後処理”が待っていた。凝った造りをした水冷V型3気筒に、テストで表れなかったリヤシリンダーが焼き付くトラブルが発生したのだ……

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