レース活動の歴史と広報イベントを繋ぐ取り組み

広く深く伝えてこそのレース活動【ホンダ高山正之のバイク一筋46年:第8回】

ホンダ広報部の高山正之氏が、この7月に65歳の誕生日を迎え、勇退する。二輪誌編集者から”ホンダ二輪の生き字引”と頼りにされる高山氏は、46年に渡る在社期間を通していかに顧客やメディアと向き合ってきたのか。これを高山氏の直筆で紐解いてゆく。そして、いち社員である高山氏の取り組みから見えてきたのは、ホンダというメーカーの姿でもあった。 連載第8回は様々なバイクレースを通じた広報活動について振り返る。

2009年の2月に、朝霞研究所から電話がありました。「面白いものを見せるから、すぐ朝霞に来い」というものでした。とりあえず駆けつけますと、何やらエンジンを組み立てている様子です。

主任研究員「これ、何のエンジンか分かるか」
私「さあ、何か古そうなフィンですね」
主任研究員「これ、マン島に初めて出たときのマシンなんだ。いま完成に向けて頑張っているところ」
私「このマシンが完成したら、どうするんですか」
主任研究員「まだ決めていないけど、どこかで走らせたいと思っている」
私「これは、かつて谷口さんがマン島で走らせたゼッケン8番がついてますね」

1959年6月4日、ホンダはマン島TT 125クラスにWGP初参戦。ここでホンダ勢最高の予選12位、決勝6位を獲得したのが、ゼッケン8番のRC142+谷口尚己氏だった。フロントのアールズフォークは、全周火山灰で覆われた浅間火山レースで作動性が良好だったために用いられたが、全周舗装路のコースはホンダにとって初めての経験だった。

こんなやり取りがあった後に、急遽このマシンの復元プロジェクトの人たちと意見交換する時間が設けられました。プロジェクトメンバーは、谷口尚己氏を実際に見たこともない様子でした。私から、「このマシンを乗るにふさわしい人は谷口さんしかいませんね。谷口さんは、CBR1000RRにもたまに乗っているようで、とても元気ですよ」と話しますと、谷口さんと連絡をとって、このマシンに乗車できるように交渉してほしいと頼まれてしまいます。

以前、新聞社から、「イギリスのマン島で切手になった日本人」という企画で、谷口氏の経営する喫茶店まで記者のアテンドをした経験がありました。谷口氏に復元車のことを話しますと、大変喜んでいただきました。さあ、これからこのマシンのお披露目の企画です。この年は、ホンダが当時の世界選手権の一戦であったマン島TTレースに出場してから50周年を迎えます。そのころ、私は50周年記念パンフレットの制作を手掛けていましたので、1959年のマン島TTレースの写真や当時の社報で様子は把握していました。

しかし、マシンRC142に関する資料は写真しかありませんので、私にとっても復元車がどんなエキゾーストサウンドを奏でるのかは興味深々。3月にツインリンクもてぎで、WGP50周年のPRも兼ねた報道お披露目会を企画しました。谷口氏は、もてぎのコレクションホールでマシンに対面するまで半信半疑だったそうです。コレクションホールのガレージには、ベールに包まれたRC142の復元車がひっそりと佇んでいました。ベールを外して谷口氏に見てもらい、またがってもらって感想を聞きました。

復元されたRC142と対面した谷口氏。連載第7回で紹介した河島喜好監督とともにマン島に渡った時は、海外旅行制限が厳しかったため工作機械を輸入した大倉商事の嘱託社員という身分だった。「ホンダであると同時に日本を代表してマン島に行くのだ」と本田宗一郎氏に激励されて、 渡航前にはテーブルマナーと英会話の特訓も受けていた。

「まるで50年前に戻ったようだ」というコメントを聞いて、プロジェクトメンバーは安堵しました。そして翌日のツインリンクもてぎ。報道陣を招いての、復元車の開発ストーリーの紹介の後に、谷口氏によるRC142の試走が待っています。レーシングコースのピットでは、暖機が続けられます。思った以上に低音の響きです。まだ高回転高出力型のマルチシリンダーになる前の2気筒エンジンです。

多くの報道陣が見守る中、谷口氏と50年ぶりに再会したRC142は、国際レーシングコースのコーナーに消えていきました。絵になります。これほどの時を超えて再会したにも関わらず、軽やかにコーナリングをしています。こういった歴史的な瞬間に携わることができた幸運に感謝です。

谷口氏とRC142は、この1か月後の4月26日の日本GPにて、大観衆の前でお披露目されました。朝霞の研究所で初めて見てから、2か月が過ぎていました。プロジェクトメンバーと考えたシナリオ通りに進めることができたことは、谷口氏の功績に頼るところが大きかったと思います。

左は荒川のテストコース(1959年)、右はツインリンクもてぎで実施された報道向けお披露目会(2009年)での谷口氏。50年ぶりの走行を前にマシンと記念撮影を行った。RC142は、RC141のDOHC2バルブを4バルブ化した仕様で、15.3ps→18psとパワーアップしていた。

谷口氏の走行で、50年前と同じエキゾーストノートが日本のサーキットで鳴り響いた。後にRC14‐シリーズは、RC146の4気筒、RC149の5気筒とマルチシリンダー化が劇的に進み甲高いサウンドに変化したが、この時はまだ低音だった。ホンダは、1961年に後継のRC143でWGP初優勝を遂げている。

モトクロスマシンRC335Cと吉村太一氏

2014年の初頭に、また朝霞研究所から呼び出しされました。「今度も面白いものがある」と。今回は、鮮烈なカラーをまとったホンダ初の2ストロークエンジン搭載のモトクロスマシン・RC335Cの復元車です。朝霞研究所のチームメンバーが考えていたのは、吉村太一氏のライディングでお披露目することでした。このRC335Cは、1972年の全日本選手権で吉村氏が優勝に導いた、いわばホンダのモトクロスマシンの原点であり栄光のマシンでもあります。早速、好きそうなメンバーでワイガヤです。すぐに、同僚が吉村氏に電話して乗車の快諾を得てくれました。

1960年代にWGPで圧倒的な強さを発揮したホンダのロードレーサーは4ストロークだったが、モトクロスレース参戦にあたっては、2ストロークエンジンが選択された。その最初のマシンがRC250M=RC335Cだった。マシンの復元プロジェクトメンバーと中央でほほ笑むのは、ライダーとして当時マシンを優勝に導いた吉村太一氏。

あとは、マシンの完成とお披露目の企画です。まずは、シーズンの開幕戦である、熊本のHSR九州で展示車としてお披露目しました。その後、第2戦の関東大会「オフロードヴィレッジ」の決勝日の昼休み時間にデモンストレーション走行を組み込むことができました。当日、吉村氏が初対面のRC335Cにまたがりキックを何回か蹴り下ろすと、耳をつんざくようなエキゾーストノートが響き渡りました。吉村氏によってエンジンがかかっただけで、メンバーと関係者は拍手喝采です。さあ、天候に恵まれたモトクロスコースで吉村氏がライディングを披露してくれます。膝に痛みを抱えていましたが、甲高い音とともに1コーナーに突進していく姿は、感動そのものでした。

吉村氏のデモ走行の後で、復元プロジェクトのメンバーからは塗装の仕上げや部品の磨き込みなど大変だったと聞きました。42年ぶりに復活したRC335Cは、現在Hondaコレクションホールでピカピカの状態で保管されています。

RC335Cの復元プロジェクトは、WGP参戦50周年の2009年にお披露目されたRC142の復元とほぼ同時期の’07年にスタート。RC335Cはモトクロス及び2ストロークの原点として、後世に残す価値が認められたが、復元に要する期間はRC142よりも長期に渡った。

復元されたRC335Cを42年ぶりに走らせる吉村太一氏。ホンダの前はスズキで全日本チャンピオンを獲得していた吉村氏は、’72年に新たな挑戦を開始したが、緒戦は苦戦が続いていた。それが、6月に開催された日本GP(兵庫県神鍋高原)ヒート2で独走優勝を果たすことに。そこからホンダの2スト技術は飛躍的に発展していった。

夢のようなトライアルワークスマシン試乗会

トライアルワークスマシンの報道試乗会に初めて携わったのは、1997年でした。HRCから次のような依頼がありました。「最終戦の富山大会に、藤波貴久選手が来日して出場します。その後はすぐに日本を離れます。来日できる貴重なタイミングですから、藤波選手の取材とワークスマシンに試乗できる機会を作りたい。全日本の翌日の月曜日に大会会場を使うことは了承を得ている。報道関係者にお声がけして、広報部に当日の運営を手伝ってほしい」というものでした。早速、二輪専門誌やジャーナリストの方々に案内しました。HRCとしては、トライアルのワークスマシンを報道に試乗いただくのは初めての機会でした。

全日本トライアル最終戦は、雨が降りしきる中、10月26日に富山県のコスモスポーツランドで行われました。残念ながら翌日の取材・試乗会も雨の中で行われました。悪コンディションのため、十分にポテンシャルを試すことができなかったと思います。

その19年後に、藤波選手を招いた夢のようなワークスマシン試乗会を企画する機会に恵まれました。2016年に行われたモータースポーツファンへの感謝を込めた「Honda Racing THANKS DAY」に、世界チャンピオンのボウ選手、チームメイトの藤波選手、ブスト選手、そして全日本チャンピオンの小川選手の4名が出演するのです。この機会を逃してはなりません。HRCに企画提案をして、イベントの翌日にツインリンクもてぎでこの4名のワークスマシンを報道関係者に乗っていただき、同時に取材をしてもらおうと。

2016年12月4日にツインリンクもてぎで開催されたHonda Racing THANKS DAYに、ホンダのトライアルワークスライダーが集結し、華麗なるパフォーマンスを披露。高山氏は、この時取材に訪れた報道関係者に試乗の機会を提供する企画を立ち上げ、HRCとともに実施した。

私のようなトライアル経験者にとっては、夢のような機会になります。それを企画できるのですから、願ったり叶ったりです。一番の心配は天候です。12月のもでぎは寒く、場合によっては霜が降りることもあります。雨男と呼ばれた私の企画ですから、報道の方々も心配です。幸運にも、深夜に少し雨が降ったものの、当日は12月とは思えないほどの暖かさです。4名のトップライダーに、4台のワークスマシンが勢ぞろい。そして、コレクションホール所蔵車である、エディ・ルジャーン選手によってチャンピオンを獲得したRS360Tと、藤波選手によってチャンピオンに輝いたRTLの2台を撮影・展示用として用意しました。

ライダーの派手なデモンストレーションの後は、いよいよ試乗タイムです。一人15分の時間ではありましたが、世界で、日本で戦いチャンピオンを獲得したワークスマシンに試乗いただくことができました。扱い切れずに転倒してしまうジャーナリストに、HRCのメカニックは親切に対応してくれました。もてぎでの夢の時間はあっという間に過ぎてしまいました。もてぎの日没は早く、私がおねだりできる試乗時間はなくなってしまいました。

ロードレースのワークスマシン試乗会と違って、トライアルのワークスマシンはレース未経験者でも体験できる敷居の低さが魅力。左から2016年チャンピオンのトニー・ボウ選手、藤波貴久選手、ハメイ・ブスト選手、小川友幸選手。

【高山正之(たかやま・まさゆき)】1974年本田技研工業入社、狭山工場勤務。’78年モーターレクリエーション推進本部に配属され、’83年には日本初のスタジアムトライアルを企画運営。’86年本田総合建物でウェルカムプラザ青山の企画担当となり、鈴鹿8耐衛星中継などを実施。’94年本田技研工業国内二輪営業部・広報で二輪メディアの対応に就き、’01年ホンダモーターサイクルジャパン広報を経て、’05年より再び本田技研工業広報部へ。トップメーカーで40年以上にわたり二輪畑で主にコミュニケーション関連業務に携わり、’20年7月4日に再雇用後の定年退職。【右】‘78~’80年に『ヤングマシン』に連載された中沖満氏の「ぼくのキラキラ星」(写真は単行本版)が高山氏の愛読書で、これが今回の連載を当WEBに寄稿していただくきっかけになった。


●文/写真:高山正之(本田技研工業) ●写真:長谷川徹(RC335C) ●編集:市本行平(ヤングマシン) ●協力:本田技研工業/ホンダモーターサイクルジャパン ※本内容は記事公開日時点のものであり、将来にわたってその真正性を保証するものでないこと、公開後の時間経過等に伴って内容に不備が生じる可能性があることをご了承ください。※掲載されている製品等について、当サイトがその品質等を十全に保証するものではありません。よって、その購入/利用にあたっては自己責任にてお願いします。※特別な表記がないかぎり、価格情報は税込です。

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