本当は人と話すのが好き。でもメディアに対してバリアを張った

世界GP王者・原田哲也のバイクトーク Vol.34「自分、古いタイプの人間ですから……」

  • 2020/6/1
1999年WGP500、マレーシアGP セパンサーキットを走る原田哲也

1993年、デビューイヤーにいきなり世界GP250チャンピオンを獲得した原田哲也さん。虎視眈々とチャンスを狙い、ここぞという時に勝負を仕掛ける鋭い走りから「クールデビル」と呼ばれ、たびたび上位争いを繰り広げた。’02年に現役を引退し、今はツーリングやオフロードラン、ホビーレースなど幅広くバイクを楽しんでいる。そんな原田さんのWEBヤングマシン連載は、バイクやレースに関するあれこれを大いに語るWEBコラム。第34回は、勢いで走っていた頃とGPライダー生活での変化について。

TEXT:Go TAKAHASHI PHOTO:YOUNG MACHINE Archives ※タイトル写真は1999年セパンサーキットのマレーシアGP
※本記事の内容はオリジナルサイト公開日時点のものであり、将来にわたってその真正性を保証するものでないこと、公開後の時間経過等に伴って内容に不備が生じる可能性があることをご了承ください。 ※特別な表記がないかぎり、価格情報は税込です。

MICHELIN

レースが終わったらサッサと帰るほうでした

まだまだ油断できない新型コロナウイルスですが、モナコでは少しずつ制限が解除されつつあります。バイクに乗りたくてウズウズしてるし、近々乗ると思いますが、正直言ってまだちょっと気が引けます……。感染には影響なくても、バイクに乗っていて何かあったら医療の現場に負担をかけてしまいますからね。

隣国のフランスとイタリアも徐々に感染者数は減ってきており、モナコもここ数日は感染者が出ていません。状況はだいぶ落ち着いているとはいえ、僕としてはまだまだ自粛生活を送ろうかな、と思っています。というのは、めんどくさがり屋の僕は家にいるのが苦じゃない……どころか、できればずっと家にいたい派なんです。よく世界グランプリライダーをやってたな、と自分でも思います(笑)。

プロのレーシングライダーになってからは、仕事が終わると早く家に帰りたくてたまりませんでした。サーキットで全力を出し切っていたので、疲れてました。調子が悪い時なんかは本当につらくて、とにかく早く帰りたかった。

’98年にモナコに住むようになるまでは日本とヨーロッパを往復する生活でした。ヨーロッパではホテルをベースにしたり、アパートを借りたり、モーターホーム暮らしをしていましたが、どんな生活スタイルでもサーキットでの仕事が終わるとサッサと帰るのは同じでした。

イタリアでアパートを借りていたのは、アドリア海のリゾート地としても知られているミラノ・マリッティマという所。当時のメカニックたちが近くに住んでいたので、一緒に晩ご飯を食べたりして、とても楽しかった思い出があります。目の前が海で、アパートに帰るとボーッと海を眺めてました。その時はさすがに何も考えていませんでした。心をリラックスさせていた感じかな……。移動の連続で、しかも緊張感の高い仕事なので、体はもちろんですが精神的にかなり堪えます。引退を決めた’02年も、精神力が保てなかったというのが正直なところです。

素の僕は人と話すのが大好きです。でも現役の頃は、メディアの方たちとはできるだけ話さないようにしていました。真剣にレースをしていたから、自分がうかつなことを話してそれがライバルに知られたら大きな損だと考えていました。少しでも情報を持って行かれたくなかった。だからメディアに対してはバリアを張ってました。そうしないと、ペラペラとしゃべってしまう自分が分かっていたからです。

1999年WGP500、マレーシアGP セパンの原田哲也

1999年のマレーシアGP、スターティンググリッドにて。 [写真タップで拡大]

そして、どんなにバリアを張っていてもメディアが話を聞きに来てくれるようなライダーでありたい、とも思っていました。いくら性格がよくてペラペラと面白おかしくしゃべっても、結果が出なければやがてメディアからは見向きもされなくなります。逆に、最小限の対応しかしなくても、結果さえ出せばメディアは話を聞きに来るはず。僕は自分の素とは違うそっちのやり方をあえて選ぶことで、自分にプレッシャーを掛けていたように思います。まぁ、バレンティーノ(ロッシ)みたいに、ペラペラと面白おかしくしゃべって、なおかつ結果も出す、というのが最強ですけどね。僕にはそこまでの能力がなかった(笑)。

個人的には、インタビューをいかにスマートにこなすかを考えるよりも、まず結果を出すことがすべてだと思っています。今や古い考え方ですよね(笑)。速く走ってレースに勝ちさえすれば、いい体制が得られた世代ですから……。結果主義って、厳しいようでシンプルなんですよね。今は自己PRも大事だし、そもそもレースを続けるためには速さや勝つこと以外にいろんな要素が求められます。難しい時代になったものだと思います。

全日本ロードレース選手権GP250クラスにフル参戦を開始した1989年

ただ、当時は当時で別の大変さがありました。圧倒的なマシン差をはね除けて勝たなければならない時もあるので……。250ccで初めてフルシーズンに参戦した’89年がそうでした。僕に与えられたのは市販レーサーのTZ250でです。僕はまだ19歳そこそこ、まわりは大人ばかりで、「もっといいマシンをください!」と訴えたところで聞き入れてもらえないに決まっています。ただ、「これじゃ勝てないよ……」なんて思いはまったくありませんでした。「与えられたマシンでどうにかしてやろう!」と気合い十分だったんです。

当時はホンダのファクトリーマシンNSR250勢がとにかく速くて、どうやったらTZでNSRに勝てるかばかり考えてました。序盤は4位とか5位と振るわず、内心では「A級やべぇ~」とちょっと焦りもありました。この時、もし僕がすでに全日本何年目かだったら、「ちょっとムリかもしれないな……」と思っていたかもしれません。いろんな経験から、限界が分かってしまうからです。痛い思いもして、どうしても尻込みしてしまう部分もあるでしょう。

でも僕は全日本初シーズンで、何も分かっていないだけに、勢いだけはある。一番敵にしたくないタイプです(笑)。SUGOで表彰台に立ち、筑波でNSRに乗る奥村裕さんと優勝争いができて、この時は僅差で負けたものの、「TZでも何とかなりそうだぞ」と思ってしまいました。言ってみれば調子づいていたわけですが(笑)、そういう時期は誰にでもあるし、必要なものだと思います。今になって思えば、本当に勢いだけでした。

1989年4月9日・全日本ロードレース選手権GP250 筑波ラウンドで走る原田哲也

1989年4月9日、全日本ロードレース選手権GP250 筑波ラウンドにて。この頃の原田さんはSP忠男系を表す目玉ヘルメットだった。 [写真タップで拡大]

1989年4月9日・全日本ロードレース選手権GP250 筑波ラウンドで走る奥村裕

同じ1989年4月9日のレースで走る奥村裕さん。 [写真タップで拡大]

経験を重ねてからは、そうはいかなくなります。特にグランプリのようにいろいろなサーキットを走ることになると、イケるコーナー、イケないコーナーを冷静に見極めて「捨てコーナー」を定め、そこではガマンする必要が出てきます。これがまた、精神的にはツライ(笑)。レーシングライダーですからどのコーナーも速く走りたいけど、「ここは堪えろ……」と抑えなければならないんです。

ヤマハとアプリリアでファクトリーライダーとして走りましたが、「メーカーの看板を背負う」というプレッシャーも非常に大きかったですね。やっぱり、つい考えてしまうわけです。レース活動のために動いている金額の大きさや、自分の成績次第でバイクの売り上げに影響すること、会社には何人もの従業員がいて、その人たちの生活に関わること……。そりゃあ肩にのしかかるものは重いです。

メディアにバリアを張り、ガマンのコーナーでは自分を抑え、メーカーの看板を背負いながら、それでも精一杯やってきました。だから引退した時は「やり切った!」と満足でした。もちろん失敗したことも後悔していることもあります。でもその時は良かれと思って100%を尽くしていた。その結果がどうであろうと、それは仕方ないことです。

ただ、32歳の自分に衰えも感じていました。体力というより、精神的にムリだった。辞めてからの解放感は最高でした(笑)。もう本当に疲れ切っていたので、好きなだけ家にいられる生活は文句なし。ゴルフをしたり、車のレースをしたりしてのんびり過ごしました。「つまらないでしょう?」と何度も聞かれましたが、GPライダーとしての10年間は生活のすべてをレースに捧げて全力を尽くしきったので、つまらないなんてとんでもない! いくら休んでも休みきれないぐらいでした(笑)。

ところがバイクから離れて10年経つと、やっぱり恋しくなるんですね(笑)。’12年頃から再びバイクに乗り始めて、今は趣味として、そして少しは仕事として楽しんでいます。もうすぐ僕も50歳。何か新しいことを始めたくてうずうずしているところです。

ちなみに、僕がコロナ禍に見舞われている今、もし現役ライダーだったら、家から一歩も外に出ずに座禅を組んでいると思います。……というのは冗談ですが、レースに有利になることだけをしていたはずです。現役時代は100%レースに費やすべきだと思うから。トレーニングをしながら、自分なりにレースのことを考え続けます。レース展開はどうか、マシン面はどうか、あらゆる角度からシミュレートしながら過ごすでしょう。いい戦略を思い付けばエンジニアに相談したり、必要なアイテムがあると思えばチームに連絡して用意してもらったり、家にいながらにして全力を尽くす。う~ん、やっぱり古いタイプの人間なんでしょうね(笑)。

1989年6月25日・全日本ロードレース選手権GP250 筑波ラウンド

1989年6月25日、全日本ロードレース選手権GP250 筑波ラウンドにて。左は青木宣篤さん。まだリラックスした表情で他メーカーのライバルと会話する姿を見せていた頃だ。 [写真タップで拡大]

Supported by MICHELIN

最新の記事

原田哲也

原田哲也

記事一覧を見る

1993年ロードレース世界選手権(WGP)250の世界チャンピオン。1992年に全日本で同クラスのチャンピオンを獲得し、翌年に初挑戦のWGP250で戴冠した。現役当時のニックネームは「クールデビル」。'02年に現役を引退し、現在はツーリングやオフロードラン、ホビーレースなど幅広くバイクを楽しんでいる。