本当は人と話すのが好き。でもメディアに対してバリアを張った

世界GP王者・原田哲也のバイクトーク Vol.34「自分、古いタイプの人間ですから……」

1993年、デビューイヤーにいきなり世界GP250チャンピオンを獲得した原田哲也さん。虎視眈々とチャンスを狙い、ここぞという時に勝負を仕掛ける鋭い走りから「クールデビル」と呼ばれ、たびたび上位争いを繰り広げた。’02年に現役を引退し、今はツーリングやオフロードラン、ホビーレースなど幅広くバイクを楽しんでいる。そんな原田さんのWEBヤングマシン連載は、バイクやレースに関するあれこれを大いに語るWEBコラム。第34回は、勢いで走っていた頃とGPライダー生活での変化について。


TEXT:Go TAKAHASHI PHOTO:YOUNG MACHINE Archives ※タイトル写真は1999年セパンサーキットのマレーシアGP ※本内容は記事公開日時点のものであり、将来にわたってその真正性を保証するものでないこと、公開後の時間経過等に伴って内容に不備が生じる可能性があることをご了承ください。※掲載されている製品等について、当サイトがその品質等を十全に保証するものではありません。よって、その購入/利用にあたっては自己責任にてお願いします。※特別な表記がないかぎり、価格情報は税込です。

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ただ、当時は当時で別の大変さがありました。圧倒的なマシン差をはね除けて勝たなければならない時もあるので……。250ccで初めてフルシーズンに参戦した’89年がそうでした。僕に与えられたのは市販レーサーのTZ250でです。僕はまだ19歳そこそこ、まわりは大人ばかりで、「もっといいマシンをください!」と訴えたところで聞き入れてもらえないに決まっています。ただ、「これじゃ勝てないよ……」なんて思いはまったくありませんでした。「与えられたマシンでどうにかしてやろう!」と気合い十分だったんです。

当時はホンダのファクトリーマシンNSR250勢がとにかく速くて、どうやったらTZでNSRに勝てるかばかり考えてました。序盤は4位とか5位と振るわず、内心では「A級やべぇ~」とちょっと焦りもありました。この時、もし僕がすでに全日本何年目かだったら、「ちょっとムリかもしれないな……」と思っていたかもしれません。いろんな経験から、限界が分かってしまうからです。痛い思いもして、どうしても尻込みしてしまう部分もあるでしょう。

でも僕は全日本初シーズンで、何も分かっていないだけに、勢いだけはある。一番敵にしたくないタイプです(笑)。SUGOで表彰台に立ち、筑波でNSRに乗る奥村裕さんと優勝争いができて、この時は僅差で負けたものの、「TZでも何とかなりそうだぞ」と思ってしまいました。言ってみれば調子づいていたわけですが(笑)、そういう時期は誰にでもあるし、必要なものだと思います。今になって思えば、本当に勢いだけでした。

1989年4月9日、全日本ロードレース選手権GP250 筑波ラウンドにて。この頃の原田さんはSP忠男系を表す目玉ヘルメットだった。

同じ1989年4月9日のレースで走る奥村裕さん。

経験を重ねてからは、そうはいかなくなります。特にグランプリのようにいろいろなサーキットを走ることになると、イケるコーナー、イケないコーナーを冷静に見極めて「捨てコーナー」を定め、そこではガマンする必要が出てきます。これがまた、精神的にはツライ(笑)。レーシングライダーですからどのコーナーも速く走りたいけど、「ここは堪えろ……」と抑えなければならないんです。

ヤマハとアプリリアでファクトリーライダーとして走りましたが、「メーカーの看板を背負う」というプレッシャーも非常に大きかったですね。やっぱり、つい考えてしまうわけです。レース活動のために動いている金額の大きさや、自分の成績次第でバイクの売り上げに影響すること、会社には何人もの従業員がいて、その人たちの生活に関わること……。そりゃあ肩にのしかかるものは重いです。

メディアにバリアを張り、ガマンのコーナーでは自分を抑え、メーカーの看板を背負いながら、それでも精一杯やってきました。だから引退した時は「やり切った!」と満足でした。もちろん失敗したことも後悔していることもあります。でもその時は良かれと思って100%を尽くしていた。その結果がどうであろうと、それは仕方ないことです。

ただ、32歳の自分に衰えも感じていました。体力というより、精神的にムリだった。辞めてからの解放感は最高でした(笑)。もう本当に疲れ切っていたので、好きなだけ家にいられる生活は文句なし。ゴルフをしたり、車のレースをしたりしてのんびり過ごしました。「つまらないでしょう?」と何度も聞かれましたが、GPライダーとしての10年間は生活のすべてをレースに捧げて全力を尽くしきったので、つまらないなんてとんでもない! いくら休んでも休みきれないぐらいでした(笑)。

ところがバイクから離れて10年経つと、やっぱり恋しくなるんですね(笑)。’12年頃から再びバイクに乗り始めて、今は趣味として、そして少しは仕事として楽しんでいます。もうすぐ僕も50歳。何か新しいことを始めたくてうずうずしているところです。

ちなみに、僕がコロナ禍に見舞われている今、もし現役ライダーだったら、家から一歩も外に出ずに座禅を組んでいると思います。……というのは冗談ですが、レースに有利になることだけをしていたはずです。現役時代は100%レースに費やすべきだと思うから。トレーニングをしながら、自分なりにレースのことを考え続けます。レース展開はどうか、マシン面はどうか、あらゆる角度からシミュレートしながら過ごすでしょう。いい戦略を思い付けばエンジニアに相談したり、必要なアイテムがあると思えばチームに連絡して用意してもらったり、家にいながらにして全力を尽くす。う~ん、やっぱり古いタイプの人間なんでしょうね(笑)。

1989年6月25日、全日本ロードレース選手権GP250 筑波ラウンドにて。左は青木宣篤さん。まだリラックスした表情で他メーカーのライバルと会話する姿を見せていた頃だ。

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