ノービス時代から一緒に走っていた

世界GP王者・原田哲也のバイクトーク Vol.33「僕を世界GPに呼んだ親友、若井伸之くん」

  • 2020/5/15
1991年、日本GPで走る若井伸之

1993年、デビューイヤーにいきなり世界GP250チャンピオンを獲得した原田哲也さん。虎視眈々とチャンスを狙い、ここぞという時に勝負を仕掛ける鋭い走りから「クールデビル」と呼ばれ、たびたび上位争いを繰り広げた。’02年に現役を引退し、今はツーリングやオフロードラン、ホビーレースなど幅広くバイクを楽しんでいる。そんな原田さんのWEBヤングマシン連載は、バイクやレースに関するあれこれを大いに語るWEBコラム。第33回は、1993年に亡くなった若井伸之さんの話。

TEXT:Go TAKAHASHI PHOTO:YOUNG MACHINE Archives ※タイトル写真は1991年・日本GPの若井伸之さん
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「発表がありまーす! 来年から世界グランプリに行きます!」

5月1日は若井伸之くんの命日でした。彼がスペイン・ヘレスサーキットで亡くなったのは僕がGPデビューした’93年だから、もう27年も経つんですね……。

「若井くん」と呼んでいますが、年齢は僕の3つ上でした。若い頃の3歳違いは結構な差です。先輩とか兄貴分という感じでもおかしくありませんが、僕にとっては同級生のような存在でした。頭の中はレースだけだったノービス時代に一緒に走っていたので、上も下もなかったんです。

同じ千葉出身だったし、若井くんは人当たりがよくて誰とでもすぐに仲良くなれるキャラクター。僕もすっかり心を許していました。若井くんはマシンのことに詳しかったのでいろいろ教えてもらったし、僕の方が(ちょっとは)速かったので、若井くんに走り方やライン取りを教えたりしてました。

’88年は、全日本ジュニア選手権で同じカテゴリーを戦いました。僕の方が(ちょっとは)速かったので全戦全勝してチャンピオンを獲ってしまいましたが、サーキットでも知り合いが多い若井くんがいろんな人からいろんな情報を聞いてきては教えてくれたんです。そして翌’89年にヤマハファクトリー入りが決まると、「哲也やったじゃん!」と自分のことのように喜んでくれました。

1988年 原田哲也

1988年の全日本ロードレース第3戦 ・筑波、 ジュニア125ccクラスを走る原田哲也さん。 [写真タップで拡大]

僕はいよいよプロになったので、家の仕事を手伝う必要がなくなりました。それからはもう、ほとんど毎晩若井くんと一緒に晩ご飯を食べる間柄になりました。話題はもちろんレースのことばかりでしたが、「哲也はいいよなぁ」とうらやましがられたのを覚えています。

そんな若井くんがいきなり「発表がありまーす! 来年から世界グランプリに行きます!」と宣言したのは、’90年の終わりでした。僕としては「へぇ、そうなの……」って感じ(笑)。当時の僕は、世界GPにまったく興味がなかったんです。僕は目の前にあるステップを越えてから次に行くタイプ。まずは全日本でチャンピオンにならない限りは、世界GPもないと思っていました。

ここはライダーによって考え方が分かれるところでしょう。若井くんのように、「行けるものなら少しでも早くGPに行って、場慣れした方がいい」という方法も正解だと思う。でも僕はそうじゃなかった。全日本チャンピオンという目の前にある課題をクリアしたら、初めて次のステップとして世界GPを考えるというタイプでした。それに、世界GPは自分の中ではまだまだ遠かったんです。

実は’90年3月に、僕は鈴鹿サーキットでの日本GPにスポット参戦しています。結果は7位。「こりゃダメだ」と思いました(笑)。「全然通用しないじゃん」と。今になって振り返れば、市販レーサーTZ250ベースのマシンで参戦し、ホンダNSR250やヤマハYZR250というファクトリーマシン勢に続いての7位だったので、まずまずの結果と言えるかもしれません。でも、自分としては「まったくダメだ」という思いしかなかったんです。

その頃の僕は、全日本でどうしても岡田忠之さんからタイトルが奪えず、GPどころではありませんでした。頭の中は「どうやったら岡田さんを倒せるか」だけだったんです。だから若井くんの世界GP参戦宣言を聞いても、「へぇ、そうなんだ……」としか思えず、彼が本当に’91年から世界GPに行っても、あまり関心は持てませんでした。

「すごいな」と尊敬はしてました。僕はすでにファクトリーライダーという立場でしたが、若井くんはプライベーターとして自分でスポンサーを説得し、お金を集め、ほとんどのことを自力で成し遂げていったんです。当時から付き合っていた後の奥さん・美由希さんとは、「若井くんはサラリーマンになった方が儲けられるんじゃない?」なんて笑い合ってましたが、それぐらい営業力があった。僕にはそういう才能はまったくなかったので、本当にすごいと思ってました。

そして、「関心が持てなかった」とは言うものの、やっぱり仲の良かった若井くんがGPライダーになったことで、僕もついテレビ観戦したりして(笑)、少しずつGPのことが頭の中に入り込んできたのも確かです。その頃のGPは若井くん以外にも畝本久さん、高田孝慈さん、清水雅広さんたち諸先輩方が活躍していましたが、それこそ僕からすればテレビ画面の中だけの存在で、すごく遠かったんです。

でも若井くんは、日本に帰ってくれば一緒にメシを食べる仲で、その彼から「GPはいいぞ~、GPはいいぞ~」と聞かされているうちに、意識しないうちにGPが刷り込まれていたのかもしれません。

「こいつは原田哲也っていうんだ。絶対にGPに来てトップ争いをするから」

ただ、とにかく全日本が厳しかった。’91年は、若井くんに釣られるような形で坂田和人くん、上田昇くんがGPに参戦し始めました。ふたりとも活躍していましたし、シーズン終わりには改めて若井くんに「哲也も早くGPに来いよ。絶対に通用するから」なんて熱く言われましたが、まだ僕には刺さらなかった。’92年は市販レーサーTZ250改のTZ250Mで戦うことになっていて、ランキング2位も危ういと思っていたので、「うーん、オレは全日本で頑張るよ……」としか言えなかったんです。

ところがこのTZMが素晴らしい出来栄えでした。ジョン・コシンスキーのYZR250に乗ったことが大きなきっかけになったんですが、長くなるのでこの話はまた別の機会に……。

そして’92年全日本は岡田さんと激しいチャンピオン争いを繰り広げるわけですが、シーズン途中の7月、僕と岡田さんがハンガリーGPにスポット参戦することになったんです。ヤマハホンダの上層部が話し合ってのこと、と聞いていますが、僕としては「海外旅行に行けてラッキー!」程度の軽い気持ちでした。自分がGPで通用するなんてこれっぽっちも思っていませんでしたからね(笑)。

しかも出発直前になってFIMから「グールベルグ兄弟に参戦枠を使うことになったので、原田と岡田の参戦は認められない」と言われてしまったんです。でも当時のヤマハ・モータースポーツ開発部の黒田部長に「せっかく航空券やホテルを予約してるから、視察してきなさい」と言われ、「ホントにただの海外旅行になってラッキー!」とウキウキする始末でした(笑)。

1992年、全日本ロードレース 菅生

1992年、全日本ロードレース第7戦 菅生でも熾烈な戦いを見せた#1岡田忠之、#2原田哲也、#3青木宣篤。 [写真タップで拡大]

ハンガロリンクのパドックでは、GP2年目の若井くんにあちこち案内してもらいました。「すげえ! 外国人がいっぱいいる!」と、完全にお上りさん状態です。若井くんも片言英語だったと思いますが、「ハロー」しか言えなかった僕からすればすごく立派に見えました。

いろんな人のところに僕を連れて行っては何やら話しているので、「何て言ってたの?」と聞くと、「『こいつは原田哲也っていうんだ。絶対にGPに来てトップ争いをするから』って紹介してるんだよ」と若井くん。「そういうこと言わないでよ~」なんて言いながら、実はうれしかった。若井くんは僕の1番のファンでした。若井くんのお姉ちゃんいわく、家でもいつも「哲也はすごい、哲也はすごい」と繰り返していたそうなんです。

お互い、先のことなんかまったく分からなかったノービス時代を一緒に過ごしてましたからね……。とにかくレース、レースで、お互いにプロになることを夢見ながらたくさんの話をした親友です。その若井くんがそんな風に認めてくれるのは、素直にうれしかったし、励みにもなってました。

ハンガリーGPの視察で、僕は衝撃を受けます。マックス・ビアッジの走りです。コースサイドの金網にしがみついて、縁石のさらに外側を走る彼の走りに「なんだコイツは!」と驚きました。調べたら僕よりひとつ年下でさらにビックリ。よくよく聞いたらGP2年目とのことで、「なにー!?」って感じです。「この人たちとレースしてみたい」と思いましたが、やっぱり「全日本でチャンピオンを獲ってからだな」という考えは変わりませんでした。

1992年、日本GPで走る若井伸之

1992年、雨の日本GPを走る若井伸之さん。 [写真タップで拡大]

「だから言っただろ!? おまえならできるんだよ!」……そして第4戦スペインGPで

日本に帰って全日本に戻ると、すっかり自分の意識が変わっていました。レベルの高いGPの走りをコースサイドで客観的に見られたおかげで、「これはもう、あの場に行くしかないでしょう!」と刺激を受けたんです。あの時点でもしスポット参戦していたら、どうにも歯が立たず、ただ自信喪失して終わっていたでしょう。レースに出られなかったのがむしろ幸いでした。世界をいよいよ身近に感じた僕は、自分の走りをさらにワンランク上げて、全日本チャンピオンを獲ることができました。

課題をひとつクリアして、’93年は世界GPに参戦することになりました。若井くんも、型落ちでしたがスズキRGV-Γのファクトリーマシンを手に入れ、全日本ジュニア時代以来となる同じカテゴリーでレースすることになったんです。

今だから言えますが、ライバルという感じではなかった。もちろんレースなので負けるわけにはいきませんが、お互いにどっちが勝っても素直に喜べるような相手でした。相手の勝利を心から讃えることができて、「でも次は負けないけどね」と笑って言える。そんな関係だったんです。

実際、開幕戦のオーストラリアGPはまさかのいきなり初優勝となったんですが、若井くんは「哲也すげえじゃん!」と自分のことのように喜んでくれた。そして「だから言っただろ!? おまえならできるんだよ!」と言ってくれたんです。「まぐれまぐれ。それより自分の心配しろよ」なんて不調だった彼に言い返しながら、内心はすごくうれしかったんですよね。

GP1年目の僕は、同じカテゴリーに気心が知れている若井くんがいるだけで安心感がありました。それに彼がいてくれることで、自分もGPでやって行けそうな気がしていたんです。とにかく不安だらけだった僕は、時間があると若井くんを訪ねてピット裏で話してました。他愛もない話でしたが、結局は励まされていたんだと思う。彼は人を乗せるのがすごくうまくて、やる気にさせてくれるんです。

そして第4戦、ヘレスサーキットでのスペインGPを迎えます。土曜日の予選セッション中、ピットを出て行こうとしたら、ノブ(青木宣篤)に「赤旗だよ」と制止されました。「何があったんだろう」と思いましたが、詳しい状況は分かりません。そのうち「若井がピットで転んだらしい」という話が聞こえてきましたが、「ピットロードならスピードも出ていないし、ケガもしていないだろう」と思っていました。

予選が終わり、僕はポールポジションを獲得しました。走行後はチームスタッフとのミーティングなどがあって忙しくしていました。夕方になって上田くんが深刻そうな顔でやってきて、「若井がやばいらしい」と言うんです。「え? 何それ? 何言ってんの?」「病院にいて、意識がないんだ」「え? なんでなんで?」。まったく意味が分かりませんでした。

その頃までに、ピットロードで若井くんが人とぶつかって誰かが重傷を負った、ということまでは分かっていました。でも、「ぶつかった人が重傷」ということだけで、若井くんのことは何も聞いていませんでした。英語がほとんどしゃべれなかった僕には情報が入ってこなかったし、チームとしても自分たちのやるべきことで精一杯だったんです。

上田くんから若井くんが亡くなったことを知らされたのは、夜8時ぐらいだったかな。パドックはもう薄暗くなってました。何を言っているのかまったく理解できず、逆に「ふーん、そう……」という感じでした。あまりにもリアリティがなくて、現実のこととして受け止められなかったです。驚くことすらできなかった。

それでも、土曜の夜はほとんど眠れませんでした。でも日曜日は決勝レースがあります。「少しでも寝なくちゃ」と、明け方に1時間ぐらい寝たかな。朝になってサーキットに行っても若井くんはいませんでしたが、「あれ? いねえ。おかしいなあ」ぐらいの感覚だった。まだ若井くんの死を信じていないんです。なんだか変な感じでした。ウォームアップ走行でもライディングには集中してるんだけど、どこか上の空だった。

まわりは「決勝は出走しなくてもいいんだよ」と言ってくれましたが、「それじゃオレは何のためにここにいるんだ!」と、やめるつもりはまったくありませんでした。それに、「ここでやめたら若井くんに怒られる」という気持ちがどこかにありました。「レースしなきゃいけない」という使命感みたいなものが働いていたんです。

でも、現実なのか夢なのか分からないような、ふわふわした変な感覚は続いていました。体に力が入りません。スターティンググリッドでマシンにまたがって足を着いていても、それすらよく分からない。何もかも現実味がなくて、妙に体が火照っていて、「こんなのでスタートできるのかな」と思うほどでした。

レース中のことは、何にも覚えていません。ただ淡々と走ってました。過去のレース内容はほとんどちゃんと覚えているのに、’93年スペインGP決勝だけはすっぽりと抜け落ちてます。自分がどんな走りをしていたのか、何を考えていたのかもまるっきり忘れている。たぶん若井くんの死を受け入れたくなくて、心のストッパーが働いていたんでしょう。ポールポジションからスタートし、一時は2位のマックス(ビアッジ)に6秒以上の差をつけて独走優勝しましたが、ただ自分の走りをしただけで、ひたすら淡々としていました。

レースを終えてピットロードに戻る時、弔いの花が飾ってあるのを目にしました。パルクフェルメで僕を取り囲んだ人たちの目に涙が見えて、ようやく若井くんの死が現実なんだと認識しました。もう涙が止まらなかった。でも、そこから先のこともよく覚えていません。表彰台もなくて、自分がどう過ごしていたのか……。

親友を喪ったことなんて、なかなか実感できるものではありません。レース後、病院で亡骸に会うことができましたが、「何寝てるんだよ!」と思ったほどです。それから日が経つにつれて、ようやく少しずつ「本当のことなんだ」と思えるようになりました。

その後、僕はレースで勝つことができませんでした。9月26日、スペイン・ハラマでの最終戦に臨んだ時、ランキング争いではロリス(カピロッシ)に10点差をつけられての2位でしたから、正直「チャンピオンはないな」と諦めていました。ただ、レースには勝ちたかった。若井くんの家族が観に来てくれていたんです。勝ってもタイトルには届かないだろうけど、とにかく勝ちたかった。

「頑張らなきゃ」とは思っていましたが、自分を見失うことはありませんでしたし、欲をかくこともありませんでした。若井くんの家族が来ているからって突然プラスαの走りをしたところで、うまく行くはずがありません。普段やっていることを完璧にやろう、と思いました。自分で言うのも何ですが、僕は普段から100%でやっていた。だから最終戦でも100%を出し切ることに専念したんです。

そういえば若井くんが亡くなったスペインGPの時も同じでした。自分の走りにひたすら専念していた。あくまでも100%で、101%ではありませんでした。それは、レースで勝つための自分なりの戦略です。予選のように1周のタイムアタックなら、100%以上の走りができる。でも、決勝の長丁場で100%以上の走りをすることは、リスクを高めたりタイヤの消耗を招くだけです。それなら完璧に100%で走り切った方がいい。

最近、僕と同じチームでキリさん(フランチェスコ・キリ)を担当していたジョバンニ(サンディ)が、「原田は最強だったが、ヨーロッパの選手のようなガッツが足りなかった」と言っていました。それもひとつの見方だと思う。ガッツ、つまり100%以上の走りを好む人たちからすれば、100%で走る僕のスタイルは物足りなく見えたのかもしれません。実際、僕の長所でもあり短所でもあると思います。でも、それが僕のやり方だった。若井くんが亡くなっても、100%の走りを変えることはありませんでした。

ハラマでの最終戦で、僕はスペインGP以来となる勝利を挙げ、ロリスを逆転し、タイトルを獲得しました。

今でも日本に行くと、たまに若井くんのお墓参りに行きます。ドゥカティ・ディアベルを手に入れた時は、「いいだろう、買ったんだぜ!」と見せびらかしに行ったなぁ……。「公道でバイクに乗ってるなんて、オレも変わっただろう?」って。

国際A級に上がってからも、新聞配達のアルバイトを続けていた若井くん。配達途中にしょっちゅうウチに寄っては、母ちゃんにトイレットペーパーをくれたよね。そのままウチに上がり込んでは、僕と美由希さんの3人でお茶して、だべって。配達、さぼっちゃってさ……。

1992年、マレーシアGPの後に

1993年第2戦マレーシアGPレース前に、みんなで行ったチャイナタウンの中華料理屋にて撮影。事故の後、若井さんのカメラに残されていたフィルムを現像したものだ。左から坂田和人さん、若井さんのメカニック、店員さん、原田哲也さん、上田昇さん、そして若井伸之さん 。 [写真タップで拡大]

ヤングマシン1993年7月号より。 [写真タップで拡大]

ヤングマシン1993年7月号より。 [写真タップで拡大]

ヤングマシン1993年7月号より。 [写真タップで拡大]

ヤングマシン1993年7月号より。当時は原田哲也さんと青木宣篤さんが並んでコラムを連載していた。 [写真タップで拡大]

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1993年ロードレース世界選手権(WGP)250の世界チャンピオン。1992年に全日本で同クラスのチャンピオンを獲得し、翌年に初挑戦のWGP250で戴冠した。現役当時のニックネームは「クールデビル」。'02年に現役を引退し、現在はツーリングやオフロードラン、ホビーレースなど幅広くバイクを楽しんでいる。