自分の力を信じていないわけじゃなかった。でも、そこを走っているだけでどこか満足していた。はるか彼方の憧れだったグランプリライダーにいざ自分がなった時、目標を見失いかけていた。だが、自分以上に自分のポテンシャルを見抜き、激励してくれるチームとの出会いが、長島哲太を別の次元へと引き上げようとしている。勝利が当たり前の世界へ――。
●文:高橋剛 ●写真:真弓悟史、KTM ※本内容は記事公開日時点のものであり、将来にわたってその真正性を保証するものでないこと、公開後の時間経過等に伴って内容に不備が生じる可能性があることをご了承ください。※掲載されている製品等について、当サイトがその品質等を十全に保証するものではありません。よって、その購入/利用にあたっては自己責任にてお願いします。※特別な表記がないかぎり、価格情報は税込です。
このチームとなら、きっと勝てると思えた
長く停滞が続いた冬から、季節は巡ろうとしている。風はぬるみ、草木が芽吹き、鳥がさえずる。地表のそこかしこでダイナミックな脈動が感じられ、ざわめいている。莫大なエネルギーをまき散らしながら、新しい何かが始まろうとしているのだ。まだ形のない、熱量だけの何かが。
その日、街には少し冷たい雨が降っていた。長島哲太は、屋外での撮影を心底楽しんでいるようだった。
トップアスリートを寒気にさらすのだ。取材をお願いしているこちらとしては申し訳ない気分だった。なるべく短時間で済ませようと気が急く。
だが、彼に嫌がっている素振りはまったくなかった。しまいには、「こっちの方がいいですよね?」と、自ら傘を外す始末だ。救われつつも、謝る。
「いえいえ、全然大丈夫です。だって楽しいですもん」と笑う。
「取材してもらえるなんて、なかなかありませんからね。普通だったらこんな風に撮影してもらう機会もないし、話を聞いてもらう機会もない。これもレーシングライダーだからこそ。こういうことも含めて、ライダーっていう仕事を楽しんでるんです」
2020年3月8日、カタールGP――。
彼が立ったのは世界の頂点だ。モトGPの中量級、モト2クラスで優勝し、大きな笑顔でトロフィーを掲げた長島を、祝福の歓声とフラッシュが包む。中東の夜空に君が代が流れ始めると、長島哲太はダンロップの黄色いキャップを脱ぎ、乱れた髪を手櫛でクシャクシャッととかした。
しばらく天を仰ぐ。うつむくと下唇をクッと噛み締め、首を小さく左右に振る。「信じられない……」という心の声が聞こえてきそうだ。そして、何度か大きく呼吸する。君が代が終わると、白い歯を見せて笑った。
君が代が終わるまでのわずか1分足らずは、たったひとりで世界一を噛み締める時間だ。喜び。達成感。そんなありきたりな言葉には当てはまらない複雑な感情が押し寄せていた。長島はこう振り返る。
「特別なひとときでした。だって、自分が主役なんですよ? ヒーローになったみたいでした」
「みたい」ではない。あの時の長島は、間違いなく世界でたったひとりのヒーローだった。
その1時間ほど前にマシンを並べていたのは、5列目の14番手グリッドだ。予選では攻めすぎてタイムロスするという失敗を犯した。最前列のライバルがかなり遠くに見える。それでも長島は、「悪くても6位、できれば表彰台かな……」と思っていた。
モト2では延べにして69回レースをしている。最高位は5位。まだ立ったことのない表彰台なのに、長島の目はそれを捉えていたのだ。
確固とした根拠があった。
長島は今年、レッドブルKTMアジョにチームを移籍している。実績ある名門だ。開幕戦を迎える前に行われたテストで、長島は「このチームでなら勝てる」と確信していた。
チーム代表のアキ・アジョは、明確なポリシーを持っている。
「勝つためにレースする」
極めてシンプルだ。誰もがそう思ってマシンを走らせる。だが、現実にはなかなか難しい。資金、人的リソース、マシンのパフォーマンス、そしてライダーのポテンシャル。すべてを揃える必要がある。
長島は自身のモト2経験を振り返りながら、こう言った。
「勝つことに対してどれだけ真剣に取り組むか。これはチームによってかなり違います」
例えばライダーが「こういうパーツが欲しい」とリクエストしたとする。あるチームは、「それはできない。こっちを使ってくれ」とライダーに我慢を強いる。そしてあるチームは、ライダーが求めるものをすべて用意する。
レッドブルKTMアジョは明らかに後者だ。KTMからサポートを受けるファクトリーチームで、資金や物資はまず潤沢と言っていい。
それ以上に、アジョが強い意志を携えてレースに臨んでいる。経験も豊富だ。勝つために何が必要かを、そしてレーシングライダーという人種をどうコントロールすべきかを熟知していた。
GPという舞台に飲まれて、自分を見失っていた
シーズン開幕前のテストで、チームは長島にこう伝えた。「勝負できるマシンを作れ」。それは長島の弱点を見抜いてのことだった。
「今までの自分は、とにかく自分が一番速く走れるマシンを作ってました。気持ちよく走れるマシンですね。
でも今のチームにはそれとは違う作り込みを求められたんです」
マシンのセッティングを進めていく中で、バチッと決まる瞬間がある。気分よく攻めることができて、自己ベストタイムが出る。
ピットに戻り、チームスタッフに「今、マシンのフィーリングはすごくいいよ!」と伝える。今までならそこで終わりだった。ライダーが納得していれば、もう十分だ。
だが、レッドブルKTMアジョはそれでは満足しない。「ブレーキングポイントをあと10メートル遅らせられるか?」と畳みかけてくる。「うーん、今のままだとちょっと無理かな」と長島が答えると、「よし、ではサスペンションのセッティングを変えよう」と作業に取りかかる。
レースでのパッシングは、ほとんどブレーキングで行われるのだ。10メートル奥まで突っ込めるマシンなら、ライバルを抜くことができる。
長島自身は、早めにブレーキングを終わらせ、スムーズにコーナリングするタイプだ。ハードなブレーキングは必ずしも好みではない。
勝つことか、自分の好みか。長島は奥まで突っ込めるマシン作りを選んだ。彼ももちろん、勝つためにレースをしているのだ。
予選で失敗し、14番手となった長島は、「やっちゃったな……」と思っていた。だがチームは「勝機あり」と見ていた。金曜日から始まったカタールGPの各走行セッションで、ずっとよいアベレージタイムをキープできていたからだ。コンスタントに走れるなら、レースでは上位進出の可能性が高い。
予選でミスしただけのことだ。決勝に向けて状況は決して悪くない。あと準備しなければならないのは、ライダーの気持ちだ。
チームが長島に声をかけた。
「お前は速い。しかも今、よく乗れている。だが、足りないものがある。気持ちだよ。お前には『何がなんでも勝つぞ』という気持ちが足りない」
そう言われた長島は、素直に「その通りだよなあ」と思った。
全日本での活躍を足がかりにしてグランプリに打って出た。バイクメーカーによるバックアップなしでのGP参戦は、日本人ライダーとしてはかなり特異だ。背景には、携帯販売ショップ・テルルを運営する会社の強力なサポートと理解があった。だがそれは、微妙な安定感を生むことにもなっていた。
バイクメーカーがその名を冠するファクトリーチームは、純粋に勝利至上主義だ。レース戦績がメーカーのイメージに直結する。一方で長島のようにスポンサーの支援を受けて走るライダーは、少し事情が違う。個人のレース参戦自体を息長くサポートする分、戦績よりもレースに取り組む姿勢や人柄を評価されることが多い。
「そこそこの結果を残していれば走り続けられるんです。5位、6位でも、まわりも少しは納得してくれますしね。
去年まではマシンにちょっとでも気になる違和感があると攻め切れなかった。全力なんですよ? 手を抜いたことなんか1ミリもない。でも、攻め切れなくなるっていう感覚がありました。『転ぶぐらいなら、これぐらいでいいかな』と、自分も心のどこかで納得してたのかもしれない」
全力と言いながら、残っていた余力。それを今年のチームは見逃さなかった。「オレたちは『いい成績』なんか求めていない。表彰台なんかいらない。欲しいのは勝利だけだ。
全力で勝ちをめざした結果なら、転倒したって構わない。後になって『あの時、こうすればよかった』なんて悔いるぐらいなら、やれるだけやってこい」と活を入れた。
全日本ロードを戦っていた頃の長島は、「勝って当たり前」と思っていた。「GPに行くためのステップ。ここで勝てないならレースなんかやめた方がいい」と、全日本という舞台を完全に飲み込んでいた。だが、いざGPに身を置くと、逆に飲まれていたのだ。
「美化しすぎてたんです。ホント、ずっと目標にしてましたからね。GPはすごいものだと思いすぎてて、もう1歩が踏み出せていなかった」
勝つことよりも、走ることで満足していたのだ。それは本来の長島ではなかった。チームの言葉に背中を強く押され、自分を取り戻しながら、決勝レースに臨んだ。
トップに立った時に、自分を取り戻せた
だいぶ後方からのスタートだ。前に出ることしか考えていなかった。速いペースでひとりひとり気持ちよくパスしていく。ブレーキングで奥まで突っ込めるマシンが頼もしい武器になった。
ポジションを上げるほどに、行く手を阻むライバルは速く、強力になっていく。レース中盤になると、さすがに抜きあぐね始める。もどかしい。接触もあってイライラする。
「バトルで団子状態になると、自分のリズムが崩されちゃうんです。自己ベストより遅いペースなのに、ミスを連発してしまって……。バトルの仕方もよく分からなくなって、完全にとっ散らかってました(笑)」
去年までなら、この時点で集中力が途切れていた。だが今は違う。転んだっていい。前へ、前へ。勝利を希求する気持ちが長島を突き動かしていた。
徐々に前が開けていく。前にいるライバルを数える。表彰台が見えてくる。焦る。早く、早く。
GPでは70回目のレースだが、こんなに上位で競い合ったことがない。タイヤを温存するためにペースを落とすという自信も、いったん下がってライバルの様子を見るという余裕もない。
でも、「もっと行けそうだ」という手応えだけはある。自分を持て余しながら、焦りだけが募った。
残り3周。3番手を走行していた長島は、1コーナーのブレーキングで一気に2台をごぼう抜きした。正確には、「してしまった」。その瞬間、「あっ、やべえ!」と思った。
「とにかく早く前に出たいって気持ちだけで、戦略とか何にも考えてなかったんですよ。『やべえ、ちょっとタイミング早すぎた!』って(笑)」
3周あれば、いったん長島の後ろに下がったライバルたちが彼の走りを観察し、勝負を仕掛けてトップを奪い返すだけの時間的猶予がたっぷりある。
頭の中が真っ白になった。2コーナーを回ると、前にはもう誰もいない。世界一の景色は、やけに見通しがいい。ここまでライバルたちとの接近戦を繰り広げてきたから、まわりの走りに合わせれば済む部分が少なからずあった。目印を失い、どこをどう走ればいいのか分からなくなった。軽いパニック状態に陥っていた。
だが、それも一瞬だった。ここからは、体が覚えている自分のリズムに従えばいい。ていねいに、スムーズに、そして高いコーナリングスピードを保つと、スルスルと後続を引き離した。後ろは1度も振り返らなかった。集中力が途切れるのが怖かった。そのままトップでチェッカーフラッグを受けた時、2位を1秒3も突き放していた。
勝った、勝てた!
何度も拳を突き上げる。ヘルメットの中で雄叫びが止まらなかった。
後方から追い上げ、集団を抜け出して勝利する。自身初優勝ながら、力強ささえ感じさせる圧巻のレース。勝つためのマシンセッティングを推し進め、勝つためのメンタルコンディションを整える。そうすることでレッドブルKTMアジョは、長島のポテンシャルを見事に引き出したのだった。
「自分が変わったとは思えないんですよ」と率直に笑う。もともとの自分が剥き出しになっただけなのだ。
「新型コロナウイルスの影響で、カタール以降レースがない。次戦がいつかも分かりません。まわりからは『流れを止められちゃったね』と残念がられますが、そこは仕方ないかなって。
僕が悔しいのは、カタールGPの後にもコンスタントに表彰台に乗ったり勝ったりしていれば、モトGPへの道が開けたかもしれないことなんです。
まだモト2で1勝しただけ。モトGPをめざしてる自分にとっては、通過点のひとつなんですよ」
全日本と同じように、モト2もまた彼にとって「勝って当然」になりつつあるのだ。シーズンがしっかり始まらなければ、実際のところは分からない。だが、GPというステージでも長島が自分らしさを全開にし始めていることは間違いない。春を迎えるための熱量は、もう十分に蓄えられている。
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