ヨシムラを率いていく加藤陽平 新社長はポップ吉村の孫【50年カンパニー Vol.5 ヨシムラジャパン前編】

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ヨシムラジャパン|加藤陽平 社長

創業以来、長きにわたってライダーをサポートし続けているメーカー/企業が、ここ日本には数多くある。中でも、50年を超える歴史を持つところは、バイク業界に訪れた大波・小波を乗り越えながら、常にライダーを見つめ、ライダーのために歩んできた。今年、創業70周年を迎えたヨシムラジャパン(以下ヨシムラ)は、今年3月に加藤陽平が新社長に就任し、ポップ吉村こと吉村秀雄の息子で、長年ヨシムラを率いてきた不二雄が相談役となる世代交代を果たした。レーシングチームの監督として、2024年もヨシムラチームをEWCのシーズンチャンピオンに導いた手腕の持ち主は、新たな時代のヨシムラをどう形作っていくのか。ヨシムラの3代目社長に聞いた。(文中敬称略)

●取材/文: Nom ●写真:長谷川徹、ヨシムラジャパン、YM Archives ●BRAND POST提供:ヨシムラジャパン

ポップ吉村は優しくて冗談好きのおじいちゃんだった

ヨシムラの新社長に今年の3月に就任した加藤陽平は、ポップ吉村(以下ポップ)の次女の由美子(故人)と加藤昇平(レーシングライダーでテスト中の事故で死去)の間に生まれた。つまり、ポップの孫である。 

速いエンジンを作るために、精魂込めて徹底したチューニングを行ったポップ。チューニングという手法を確立したのもポップで、まさに不世出の天才エンジニアだった。

1978年に行われた第1回鈴鹿8時間耐久レースを制覇して、ヨシムラの名を日本のみならず世界に轟かせた稀代の名チューナーで、厳しい表情でレースを見つめる姿が多くの人の脳裏に焼き付いているポップとの思い出、エピソードなどを聞いてみた。

「みなさんが思い描くポップ吉村とは、まったく違う人でした。厳しく、怖い人なんていうことはまったくなくて、いつも冗談を言っている優しい人でした。当時は母もヨシムラで働いていましたから、小学生のころは学校が終わったあとはおじいちゃんとおばあちゃんの家で過ごすのが日常でした。当時、おじいちゃんは、大病を患ったこともあって仕事はほぼ引退状態。レースの話、仕事の話なんかもほとんど聞いたことはありませんでした」

ごく普通の祖父母と暮らす少年時代を過ごした陽平だったが、とはいえそこはヨシムラの血筋である。

「仕事の話は聞いたことはありませんでしたが、一緒に行くのはいつもサーキット。普通の旅行に行った記憶はありません。人づてに、1978年に第1回の8耐に優勝したときも鈴鹿に行っていたと聞きましたが、その記憶はないんです。ただ、1980年の第3回8耐に優勝したときのことは覚えています。おそらくなんですが、私はレース中にピットで寝ちゃって、起きたら誰もいない。たぶん、みんな表彰式に行っていたようで、私だけ取り残されていてものすごく不安になったことを覚えています」

2007年から監督としてチームを率いてきた加藤陽平がポップ吉村、吉村不二雄の後を受け、3代目社長としてヨシムラを率いていく。国内・海外のレースで培ったマネージメント能力が、会社経営でも活かされることだろう。

小6のときに書いた将来の夢は「世界一のチューナーになる」だった

孫の陽平には世界的チューナーとしての顔を見せなかったポップだが、当然、周りからポップの話は陽平に伝わってくるし、当時、陽平の遊び場だったヨシムラの工場にいるスタッフからも自然とポップのすごさや偉業を聞かされていた。

「その当時、マフラーも外の協力工場で生産していましたから、ヨシムラの社内で行っていたのはレースのことだけでした。ですから、ヨシムラ=レースというイメージしかなかったし、そんな中で育っていたので小学6年生のときのアルバムに、将来の夢は『世界一のチューナーになる』なんて書いていました」

門前の小僧、習わぬ経を読むという言葉があるが、ヨシムラスタッフたちと過ごすうちに陽平にも自然とレースが、そしてバイクのチューニングが身体の奥底に沁み込んでいったのだろう。

中学、高校は部活が忙しく、ヨシムラとの接点も薄くなっていた陽平だが、ヨシムラの次世代を担う陽平を社内のスタッフは常に気に留めていた。大学に進んだはいいが、特にやりたいこともないような陽平にOBを含むヨシムラスタッフが声をかけた。

「プラプラしてるなら、こっちに来て手伝えと。元スタッフメカニックで、独立して仕事をしている方のところでエンジンの組み立てなどを一から勉強しました。そこで働いているときに、別のOBで四輪のチューニングを手掛けている方に声をかけていただきました。そこでは、ECUのセッティングとか、データロガーの分析とか、そういうことを学んでだんだんそれが面白くなり、朝から晩まで取組んでいました。そんなときに、不二雄さん(現相談役)から筑波サーキットでテストをやるので見に来てくれと呼ばれました。当時ヨシムラは、モーテックのプロトタイプのECUを使っていたんですが、セッティングがうまくいっていないと。データを見せてもらうと、自分が四輪でやってきたこととレベルに大きな差があって、セッティングの進め方もロジカルじゃなかったんです。大丈夫かなと思っていたら、その年のシーズン後に不二雄さんからヨシムラに来いという話をもらいました」

当時、バイクはまだまだキャブレターが全盛の時代。一足早くFIを採用していた四輪の世界で学んできた陽平の力が必要とされたのだろう。そうして、2002年12月に陽平はヨシムラジャパンに入社した。

「自分が将来、ヨシムラを率いていくんだという思いは小さい頃から持っていました。現在のヨシムラジャパンは、ポップがアメリカに行ったときに日本でのヨシムラの活動を行っていた父と母が作ったヨシムラパーツショップ加藤が前身なんで、そういう責任を自分が背負っているんだと自覚していました」

世界初の集合マフラーを開発・販売したヨシムラは、常に先進のマフラーを開発してきた。写真のデュプレクスサイクロンは、ポップが病床で思いついたというエキパイを繋ぐチャンバー付きだ。

正円がスタンダードだったサイレンサーに、異型断面デザインを採用したのもヨシムラが最初。マフラーの先駆者らしく、マフラー全種の保証(1年、のちに2年に)制度をいち早く採用。騒音、排ガスなど法規制にも完全対応している。

1978年の第1回 鈴鹿8耐での優勝がヨシムラを盤石の地位にした

70年という長い歴史を持つ日本を代表するレーシングコンストラクターのトップに立った陽平に、ヨシムラにとっての象徴的な出来事は何かと聞いてみた。

無敵艦隊と呼ばれたホンダ・RCB1000を撃破して、1978年の第1回鈴鹿8時間耐久レースを制したのはウエス・クーリー/マイク・ボールドウィンを擁したヨシムラ・GS1000だった。陽平は、この勝利がその後のヨシムラの存在を盤石なものにしたと語る。

「1978年の第1回鈴鹿8時間耐久レースで優勝したことだと思います。すべてがここから始まったと理解しています。それまで、デイトナで勝ったり、世界初の集合マフラーを作ったり、ポップのチューニング技術の高さが評価されたりしていたと思いますが、日本において現在の盤石の地位を築けたのは1978年の優勝があったからだと思います」

まさしく、レースこそヨシムラをヨシムラたらしめている中核。鈴鹿8時間耐久レースに、第1回から今年の第46回まですべて出場しているのはヨシムラだけという事実もそれを裏付けている。

ヨシムラに入社した陽平は、レース用のエンジン担当として、組み立てからベンチテスト、セッティングなどに勤しんだ。そして、2007年にチーム監督に就任。この年の鈴鹿8耐を制している。

「このときは、サーキット会場全体がヨシムラのことを応援してくれていると感じました。今年の8耐のときも、ウチの創立70周年ということで昔のレーシングマシンや、18時間耐久に出場したレーサーを走らせたりしたんですが、ほかのメーカーの方からも素晴らしかったよと声をかけていただいたりして、みなさんがヨシムラのことを評価してくださっているんだと思い、身の引き締まる思いがしました」

スズキ・GSX-R750/400(油冷)をベースマシンとした’80年代後半はヨシムラにとってひとつの絶頂期で、1985、1986年と2年連続で辻本聡選手がTT-F1クラスを制覇。写真は、翌’87年のデイトナ200マイルレースに挑戦した際のもので、ゼッケン1を付けたマシンにまたがるポップ、その右隣に奥さまの直江さん、左の赤いシャツが辻本選手で、その右隣が2代目社長の不二雄。

陽平の前では常に優しいおじいちゃんだったポップ。仕事の話は一切陽平にはしなかったそうだが、周りのヨシムラスタッフからその卓越したチューニング技術の高さを自然に聞いていたそうだ。

ポップ吉村は日本、そしてアメリカでのレース界への生涯を通した貢献が認められ、本田宗一郎に続く日本人としては2人目のAMA(全米モーターサイクル協会)殿堂入りを果たしている。

(後編に続く)

──YOSHIMURA HISTORY──

1954年吉村秀雄(ポップ吉村)、九州福岡県にてヨシムラモータース創業
1964年日本で最初の本格的二輪耐久レース、鈴鹿18時間耐久ロードレースにホンダ・CB77改で参加・優勝
1965年東京都西多摩郡福生町に移転。ヨシムラコンペティションモータースに改名。ホンダ車のチューニングを手掛けヨシムラチューンのマシンが1966 ~1971年までのFISCOでの日本JAF-GP(四輪)でのS600/800クラス連続優勝等の結果を残す
1971年世界初のバイク用集合マフラーをCB750Fourに装着し参戦(オンタリオ250マイルレース)
1972年世界初の市販集合マフラー、カワサキ・Z1/ホンダ・CB750Four用発売開始。米国に進出、ヨシムラレーシング設立
1973年カワサキ・Z1で3月のデイトナに於いて、FIM公認のクローズドコース世界記録等多数を樹立
1974年神奈川県厚木市にヨシムラパーツショップ加藤設立
1976年スズキとのレースマシン(初の大型4ストロークマシンGS750)開発協力に合意。(翌1977年のAMA ナショナルシリーズ ラグナ・セカ大会で初優勝)
1978年第1回 鈴鹿8時間耐久ロードレースに、スズキ GS1000で優勝
1979年ヨシムラパーツショップ加藤を有限会社ヨシムラパーツオブジャパンに改組
1980年神奈川県愛甲郡愛川町に移転。初代サイクロン発売開始。鈴鹿8時間耐久ロードレース優勝
1982年世界初、二輪レース用チタンマフラー開発
1984年有限会社ヨシムラパーツオブジャパンを株式会社ヨシムラジャパンに改組
1985年油冷スズキ・GSX-R750が発売開始。全日本ロードレースF-1選手権でシリーズチャンピオン獲得。以後3年連続シリーズチャンピオン獲得
1986年サイクロン方式に加え性能を向上させた「DUPLEXサイクロン」を発明
1989年全日本ロードレースF1、F3選手権で両クラスシリーズチャンピオン獲得。吉村秀雄、会長に就任。吉村不二雄、代表取締役社長に就任
1992年吉村不二雄、MJNキャブレターを発明、全世界に向け発売開始。市販用サイクロンマフラーにもチタン、カーボンの高級素材採用
1995年吉村秀雄会長、逝去
1998年レーシングTri-Ovalサイクロンを欧州で発表、市販開始
1999年ストリート用Tri-Ovalサイクロン市販開始。全日本Xフォーミュラクラスに「隼X-1R」で参戦。鈴鹿8耐Xフォーミュラクラスで優勝(総合16位)
2000年吉村秀雄AMA殿堂入り(本田宗一郎氏と共に日本人初)。全日本 Xフォーミュラクラスに「隼X-1R」で参戦。鈴鹿8耐でクラス優勝(総合6位)。コンプリートマシン・ヨシムラ「隼X-1」を100台限定で販売
2001年全日本 Xフォーミュラクラスに「TORNADO S-1R 」で参戦。コンプリートマシン・「刀1135R」を限定5台で販売。騒音や排出ガス規制の適合と高性能を両立させた「キャタライズドサイクロン」を業界に先駆けて発売
2002年全日本 プロトタイプクラスに「TORNADO S-1R」で参戦。コンプリートマシン・ヨシムラ「TORNADO S-1」を50台限定で販売
2004年創業50周年 新社屋完成。ヨシムラ50年の集大成である究極のコンプリートマシン「TORNADO III 零-50」を5台限定で販売
2007年全日本ロードレース選手権シリーズ JSB1000クラスシリーズチャンピオン獲得。鈴鹿8時間耐久ロードレース優勝
2008年全日本ロードレース選手権シリーズJSB1000クラス 全サーキットのコースレコードを樹立。
2009年鈴鹿8時間耐久ロードレース優勝
2012年世界耐久選手権参戦チーム「SERT」へエキゾーストシステム供給並び技術提供。(世界耐久シリーズチャンピオン獲得)YD-MJN 24/28キャブレター販売開始
2014年創業60周年。タイ王国にヨシムラアジア工場設立
2021年「ヨシムラSERT Motul」を立ち上げ、世界耐久ロードレース選手権に初参戦し、シリーズチャンピオンを獲得
2024年創業70 周年。加藤陽平が代表取締役社長に就任し、吉村不二雄は相談役に。「ヨシムラSERT Motul 」は世界耐久ロードレース選手権に継続して参戦。2度目のシリーズチャンピオンを獲得
 

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