ゼッケン31は平忠彦さんから

世界GP王者・原田哲也のバイクトーク Vol.97「僕がレースで使ったヘルメットのデザインを全て集めてみた」

1993年、デビューイヤーにいきなり世界GP250チャンピオンを獲得した原田哲也さん。虎視眈々とチャンスを狙い、ここぞという時に勝負を仕掛ける鋭い走りから「クールデビル」と呼ばれ、たびたび上位争いを繰り広げた。’02年に現役を引退し、今はツーリングやオフロードラン、ホビーレースなど幅広くバイクを楽しんでいる。そんな原田さんのWEBヤングマシン連載は、バイクやレースに関するあれこれを大いに語るWEBコラム。第97回は、パーソナルゼッケンとヘルメットで彩られる個性について。


TEXT: Go TAKAHASHI PHOTO: Arai Helmet, HONDA, YM Archives

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11年ぶりにトップカテゴリーでゼッケン1が走る

MotoGPは、各チームが発表会を行っています。新しいマシン、新しいカラーリング、そしてチームによっては新しいライダー……。いよいよ23シーズンの開幕が近づいてきた感じがして、ワクワクします。

2023年の体制発表で、ゼッケン1を付けたデスモセディチGP23が披露された。ライダーは“ペッコ”ことフランチェスコ・バニャイア。

そんな中、ドゥカティのフランチェスコ・バニャイアが、チャンピオンだけがつけられるゼッケン1を選んで話題になりましたね。MotoGPでは’12年のケーシー・ストーナー以来11年ぶり。久々に見られるゼッケン1は、バニャイアの誇りと「これを守り抜く!」という意思の表れでしょう。

僕は世界GPにデビューした’93年と、’96〜’02年をゼッケン31で走りました。10年のGPライダー生活のうち、8年にあたります。この「31」は、大先輩の平忠彦さんが’86年に世界GP250ccクラスで優勝した時のゼッケンに由来しています。GPにデビューする時「ゼッケンは何番にする?」と聞かれ、「何番でもいいですよ〜」と生返事をしていたんですが、平さんと僕を担当してくれたメカニックのケンさんが「31」を選んでくれたんです。

当初、僕自身はあまりゼッケンにこだわりがなくて……(笑)。ただ、平さんの優勝は本当に劇的で印象に残るものだったし、ヤマハのファクトリー250チームには特別な意味のある「31」なので、それを引き継がせてもらうことにはちょっと重みを感じました。

デビューした’93年に世界GP250ccクラスでチャンピオンを獲ったので、翌’94年はゼッケン1を付けました。当時は、今ほどライダーのパーソナルナンバーが一般的ではなかったので、「チャンピオンを獲ったんだから、普通にゼッケン1だよね」と、特に考えはなく「1」にしたんです。ただ、ご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが、数字の「1」の左下には小さく「3」も書かれてるんですよ。これは僕の希望。’93年のゼッケン31を密かに踏襲しているんです。今回のバニャイアも、小さく「63」を入れていますよね。

バリー・シーンが好きだった

1976~1977年頃のバリー・シーンさん。カッコイイ!

実は、パーソナルナンバーを使うことに、ちょっとした憧れもあったんです。それは、ポケバイをやっていた子供の頃から好きだった、バリー・シーンさんの影響です。バリーさんは’76〜’77年に2年連続で世界GP500ccクラスチャンピオンになっていますが、当時としては異例なことに、ゼッケン1を付けずにゼッケン7を使い続けたんです。

ドナルドダックのイラストが入っているヘルメットや、遠くから見てもすぐ分かる特徴的なデザインのレーシングスーツとか、自分のスタイルを貫き通すところとか、バリーさんはとにかくカッコよかった! 子供心にもバリーさんのカッコよさに完全にやられていた僕は、ポケバイ時代はバリー・シーンレプリカでした(笑)。

同じく1976~1977年頃のバリーさん。

余談ですが、GPライダーになってからバリーさんに会ったら、めちゃくちゃ優しくていい人でした。GPではヤマハとスズキに乗っていたこともあり親日派で、人柄もいっぺんに好きになってしまったんです。僕なんかにもいきなり「ハ〜イ!」と気さくに声をかけてくれるし、奥さんの美由希さんに「かわいいね〜」なんて言ったりするような、おちゃめで楽しい人でした。’03年、52歳の若さで亡くなってしまったのが残念です。

1992年の全日本250では、ゼッケン1 岡田忠之さんとゼッケン2 原田さんが記録的なレースを展開。第3戦0.002秒、第4戦0.550秒、第5戦0.074秒、第7戦0.001秒というコンマ数秒の僅差でのゴールが続き、第6戦鈴鹿大会でついに両者のタイム差は0.000秒に。伝説の同着優勝となった。そんなゼッケン2番である。

さて、ゼッケン1で走った’94年はランキング7位だったから、翌’95年は何も考えずにゼッケン7を付けました。そして’95年はランキング2位に。じゃあ翌’96年は普通にゼッケン2になるはずなんですが、デビューイヤーに使った「31」を選びました。どうしても「2」には抵抗があったからです。

なぜかって? 「2」は、全日本250クラスで岡田忠之さんからなかなかタイトルを奪えず、’91〜’92年に付けざるを得なかった番号だから! 「2」には悔しい思い出しかありません(笑)。’92年にようやく岡田さんに勝ってチャンピオンになりましたが、翌’93年には世界GPに行ってしまったので、実は僕は全日本ではゼッケン1を付けていないですよね……。’93年にスポット参戦したSUGOと筑波ではゼッケン1で走りましたが。

そんなわけで、’96年はゼッケン2がイヤで「31」にしたんですが、’97年にアプリリアに移籍した時は、チームから「ハラダは『31』の印象が強いから、ゼッケン31で決まりだ」と言われ、以降は現役引退までずっと「31」を使うようになりました。

正直、そんなにパーソナルナンバーにこだわっているわけではありません。ライダーによっては、普段乗るクルマのナンバーもパーソナルナンバーにしている人もいますが、僕はそこまでは……。そういえばモナコでのDIY仲間(笑)、ロリス(カピロッシ)はクルマから何から全部が「65」ですね。

自分だけのヘルメットデザインになったのは1990年から

レーシングライダーが個性を発揮する場として、ゼッケンの他に重視されているのがヘルメットです。これは僕もこだわりました。SP忠男レーシングチームにいたので、ノービス、全日本ジュニア、そして全日本GP250クラス1年目までは、皆さんご存じの目玉ヘルメット。’90年からは自分だけのヘルメットにしたくて、オリジナルデザインにしています。最初はアライヘルメットにお願いしたものでした。

1987年 筑波選手権 第1戦(ノービス125)。原田さんは’87、’88年とSP忠男に所属し、’88年にはジュニア125で全戦優勝を遂げてヤマハワークス入りを決めた。

1989年4月9日 全日本ロードレース第3戦 筑波サーキットにて。この年から原田さんはヤマハファクトリーチームに昇格し、TZ250を走らせている。

’92年にデザインを変更しました。当時、若井伸之くんがイーグルジャパンというカスタムペイントショップに依頼し、オリジナルデザインのヘルメットを使っていました。それがめちゃくちゃカッコよかった! 若井くん自身もデザインにこだわりがあったし、担当したペインターは皆さんご存じ、現・YFデザインの深澤裕司くんです。ものすごくうらやましかったので(笑)、若井くんにイーグルジャパンを紹介してもらい、深澤くんにデザインをお願いしました。

1990年、ゼッケン4が原田さん。ゼッケン1は3年間にわたって激闘を繰り広げた岡田忠之さんだ。この年のデザインは1991年も使用。

当時あまりにも有名になった1993年の原田さん。ヘルメットのデザインは色違いなどを含め1997年まで使用した。

1998年の日本GP(鈴鹿)を走る原田さん。この時のマシンはアプリリアのRS250GPだ。ヘルメットは2000年までこのデザイン。

それが’97年まで6年にわたって使うことになったデザインです。深澤くんにアイデアを出してもらい相談しながら決めたものですが、どうやら僕のライディングに「正確無比」というイメージを持っていたらしく、時計のムーブメントがモチーフになっていました。若井くんが世界GPにデビューしたのが’91年、そして僕が’93年。ふたりとも、深澤くんがデザインしたヘルメットをかぶっていたことになりますが、ヨーロッパではかなり話題になったようです。

当時のヘルメットデザインは、大きな柄が施されたものが主流だったんです。そこへきて深澤くんのデザインは、精細で緻密な柄が描き込まれ、しかもドハデなカラーリング。そりゃあ目立ちますよね。レプリカヘルメットはかなり売れたと聞いていますし、僕も他チームのメカニックにまで「めちゃくちゃカッコいいな!」と言われて、すごくうれしかったのを覚えています。

若井くんや僕のヘルメットは、現在まで続くハデでカッコいいデザインの源流になったのではないでしょうか。少なくとも多くのライダーやデザイナーさんが影響を受けたことは間違いありません。そういう意味では、深澤くんの力量は本当にすごいと思います。今も中上貴晶くんのヘルメットを始め、たくさんのデザインを手がけていますが、一般の方がペイントをお願いすると1年待ちなんてこともザラだとか。人気のほどが窺えますね。

2001年は故・加藤大治郎(ゼッケン74)と死闘を演じた。

現役最後の年となった2002年はMotoGPクラスでNSR500を駆る。ヘルメットのデザインは前年を引き継ぐ。

僕のヘルメットは’98年からは再びアライがデザインを担当してくれることになり、’98〜’00年、’01〜02年とデザインを変更しています。そして現役を引退して10年ほど経ち、ツーリングするようになった頃のこと。アライからオープンフェイスヘルメットを送ってもらう時、「色は何でもいいですよ」と言ったら、単色のシルバーだったんです。特にこだわりはなかったので問題なく使っていたんですが、ある時、ツーリング先でショーウインドーに映る自分の姿を見て、「あ、さすがに単色はちょっと寂しいな」と(笑)。すぐYFデザインに行って、深澤くんに「ペイントして!」とお願いしました。

現役引退から14年、ヤングマシンの姉妹誌だったビッグマシン誌・2015年11月号に初登場した際のヘルメット。ベースモデルはRX-7 RR4を使用していた。このデザインのオープンフェイス版が現在のVZ-RAM HARADA TOURだ。

モチーフになっているのは、世界地図。「世界のいろいろな国をツーリングしたい」という僕の夢をデザインしてもらっています。全体的にはシンプルで、ちょっと地味にしました。僕もすっかりおじさんになったので、現役時代のようなハデなものは避けた、という感じですね(笑)。

それが今もアライヘルメットから販売されている、VZ-RAM HARADA TOURです。おかげさまでおじさん……じゃない(笑)、ジェントルマンを中心に人気だとか。実際、ツーリング先でVZ-RAM HARADA TOURを見かけることも多くて、うれしくなります。思わず声を掛けたくなりますが、僕のことは分からない方が多いだろうな~(笑)。でも、「いいデザインだな」と気に入って使っていただければ大満足です。

VZ-RAM HARADA[アライヘルメット]左がホワイト、右がブラック。価格は6万4900円で販売中だ。

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