新型コロナ禍で何が起きたか。みんな一斉に自らの人生の振り返りを始めたのである。「それならワタシも」と、元GPライダー・ノブ青木が立ち上がり、古いアルバムを漁り始めた。セピア色の写真をめくりながら、脳の奥底にしまわれていた重い扉が、今、ギギギイィッと音を立てて開こうとしている。本編では幼き日のポケバイとの出会い、そしてギヤ付きバイクを経験した中学生時代を振り返る。
子供の頃は、ひたすらポケバイに乗っていた。最初に走った「コース」は、群馬県北群馬郡子持村の村役場駐車場だ。今ではあり得ないが、昭和50年代半ばのグンマは大らかだったのだ。ちなみに子持村は、合併により’06年に渋川市になっている。
ワタシがポケバイに乗り始めたのは、10歳の時のことだ。3、4歳からが当たり前のポケバイの世界では、まったくもって早い方ではない。次男の拓磨は7歳、三男の治親は5歳だった。
発端は、父ちゃんがポケバイを買いたくて買いたくて仕方なかったからだった。でも、いきなり買うと母ちゃんに叱られる。だから「塾に1年通ったごほうびとして」兄弟3人に買ってもらうことになったのだ。
子供だったので、話のスジが通っていないことには気付かなかったが(笑)、「面白そうだし乗ってみてえな」という思いもあり、頑張って1年間塾に通った。こう見えて意外とマジメなのである。
ポケバイに乗り始めた、いたいけな10歳の頃。かわいい。ほっかむりと鼻の5円玉はドジョウすくい踊りのスタイルだが、ノブ青木が踊ったかどうかは定かでなない。
ちゃんとしたコースを走ったのは日光サーキットが最初だ。さすがに子持村役場の駐車場よりずっと面白くて、すっかりはまってしまった。実家の裏にお手製コースを作って、兄弟3人でしょっちゅう乗り回していた。
その1年ほど前の’80年、実家の近くに榛東カートコースが完成していた。後の榛名モータースポーツランドである。
会長の牧野徹也さんによると、当時、鈴木亜久里さんのホームコースだった所沢サーキットがなくなることになり、亜久里さんの父・正士さんに頼まれた牧野さんが、榛名山の麓にカートコースを作ることになったのだそうだ。
ただ、オープン当時は亜久里さんと数人が走りに来るぐらいで、あまり存在が知られていなかった。実家から20〜30分の近さというワタシたちが知らなくても、ある意味仕方がないのである。
だが、裏庭で練習しているワタシたち青木三兄弟のことを知った牧野さんが、「それじゃ速くなれないよ。ウチに来て腕を磨きなさい」と声をかけてくれて、ハルナで走れるようになった。
それからはもう、練習練習また練習、学校が終わればハルナに行く、という感じで毎日のように通った。牧野さんは、「いやあ、学校があった日も、ねぇ……」と何やら口ごもっていたが、聞かなかったことにしておこう。
基本的には父ちゃんと母ちゃんが熱かった。でも、「走ってこい」と送り出されてコースインすると、飽きずにいつまでも走り続けていたから、好きだったのだと思う。
いつも兄弟3人一緒だったが、切磋琢磨という雰囲気でもなかった。兄弟だから一緒に走るのが当たり前で、特別お互いのことを意識してはいなかった。最年長のワタシは、まわりのオトナたちと話すことが多かった。
ハルナは発端からして基本的にカートコースだったが、牧野さんがワタシたち三兄弟に配慮してくれたこともあり、バイク走行枠も設けられるようになっていた。
当時を知る牧野さんは「速かったよ〜」とおっしゃるが、自分ではあまりよく分からない。ポケバイに乗り始めた3年後、’83年には全日本ポケバイ選手権で優勝しているから、それなりに速かったのかもしれない。……うーん、速かったのかな? どうだろう。
レースで下の方を走った記憶はあまりないが、正直なところ、あまり速く走ろうというような意識はなかった。もちろんレースをするからには勝ちたかったが、そのためにどうする、こうするというところまでは考えていなかった。
……というより、何も考えていなかったな、ホント(笑)。バイクでレースすることは、あくまでも家族のレジャーだったのだ。
それでもハルナのレースでは青木三兄弟が常にトロフィーをかっさらってしまうので、牧野さんに「他のエントラントが困ってるから、そろそろ遠征したらどう?」と勧められる始末だった。
ギヤ付きのバイクに乗るようになったのは、13、4歳、確か中1か中2の時だ。最初は怖くて、「こんなもの乗れねえよ!」と泣いた。今でもそうだが、ワタシは臆病なのだ。
ギヤ操作を教えてくれたのは、中学の先輩である。実家の裏庭でDAXを使って練習した。
「宣篤、知ってるか? バイクのギヤはチューニングすると7速にもできるんだぞ」と、いい加減なことばかり言っていたその先輩は、後に暴走族になった。
ワタシは暴走族にはならなかったが、やはりバイクしかなかった。中学では一応は陸上部に籍を置いてはいたが、心はバイクにあった。勉強はあまりせず、本などまったく読まず、それよりバイクで走るか、整備している方がよっぽど楽しかった。
先のことなどまるで考えていなかった。あの時代、レーシングライダーのほとんどが峠上がりで、ポケバイ、ミニバイク、ロードレースという道はなかった。
だから親もワタシたちも、「将来のために頑張る」「プロをめざす」というようなビジョンなど持っていなかった。ただ目の前にあるレースに勝つこと、そのために練習することしか頭になかった。
(芽生え編その2へ続く)
●監修:青木宣篤 ●写真:青木家所蔵 ※本内容は記事公開日時点のものであり、将来にわたってその真正性を保証するものでないこと、公開後の時間経過等に伴って内容に不備が生じる可能性があることをご了承ください。※掲載されている製品等について、当サイトがその品質等を十全に保証するものではありません。よって、その購入/利用にあたっては自己責任にてお願いします。※特別な表記がないかぎり、価格情報は税込です。
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