日本初の革ツナギを製作したのがクシタニだった【50年カンパニー Vol.3前編 KUSHITANI】

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創業以来、長きにわたってライダーをサポートし続けているメーカー/企業が、ここ日本には数多くある。中でも、50年を超える歴史を持つところは、バイク業界に訪れた大波・小波を乗り越えながら、常にライダーを見つめ、ライダーのために歩んできた。創業77年を迎えたKUSHITANI(以下クシタニ)もそのひとつ。’50年代に日本初のレーシングスーツを製作し、以来、革製品を中心にしたライディングウエアで安全と快適をライダーに提供してきた。現在は、創業者から3代目に当たる櫛谷淳一、信夫の兄弟が二人三脚で率いるクシタニの歴史を紐解き、新しい時代のクシタニを作るべく奮闘している2人に未来のクシタニを語ってもらった。

●取材/文: Nom ●写真:奥隅圭之、クシタニ ●BRAND POST提供:クシタニ

浅間高原レースに参戦するスズキの依頼で……

日本が誇る二輪メーカーのうち、ホンダ、スズキの2社が産声を上げた静岡県・浜松。クシタニもまた、’40年代に浜松で誕生し、以来、その地で社業を営み続けている。

’21年にその浜松にオープンした新たな本社である「コンセプトストア」内には、創業当時の櫛谷商店が再現されている。この店で、櫛谷淑啓(としひろ)と稔子(としこ)が革製品を中心とした洋品店を始めてから今年で77年を迎える。

「二輪の用品をやる前から、祖母が名古屋の問屋さんで革を仕入れてオーダーメイドの婦人服や、ランドセルを作っていたそうです」(淳一)

【左画像】KUSHITANI 社歴/【右画像】’21年にリニューアルした浜松の本店には、写真のような創業当時の櫛谷商店が再現されており、革製品の製造業がクシタニの祖業であることを強く主張している。一度は見に行く価値がある。

今回のインタビューでお話を聞かせていただいた2人。製造・営業はCEOの淳一(右)、販売・マーケティング・広報はクシタニ東京代表の信夫(左)が担当し、二人三脚で今の時代にマッチした新しいクシタニを作り上げようと奮闘している。

バイクメーカーがある土地柄もあり、革ジャンパー、革パンツなど、自然にバイク用のウエアを作るようになり、その流れで当時、浅間高原レースに初挑戦するスズキの依頼で、日本初の上下がつながったレーシングスーツを製作。まだバイク用ウエアなどほとんど存在しなかった時代、本格的なバイク用ウエアを作ることができるクシタニには、次第に全国からライダーがバイクウエアを求めて集まるようになっていった。

「店の前にダミーのゴミ箱が置いてあって、テストに来たカワサキのライダーが関西に戻るときに、店が閉まっている時間にはそのゴミ箱に破れたレーシングスーツを入れていき、次に来たときに修理されたスーツをゴミ箱からピックアップしていったそうです」(淳一)

腕利きの革職人だった淑啓と、革製品の修理なども請け負う、いまでいうアフターサービスも精力的にこなした稔子が率いるクシタニは、プロ・アマ問わずライダーが頼りにする店になり、’60年代に入って日本メーカーが本格的に海外レースに挑戦を始めると、国内外の多くのライダーがクシタニのレーシングスーツを使用するようになっていった。

上下がつながった革のツナギを作って欲しいと、浅間高原レースに参戦するスズキに依頼されたのが、クシタニが本格的なバイク用品を作ることになったきっかけだった。以来、多くのライダーに安全と快適を提供している。

多くの世界GP ライダーから「浜松のお母さん」と親しまれ、また頼られた稔子。親身で丁寧なアフターサービスで、クシタニへの信頼を築き上げていった。

世田谷の店舗前の歩道に行列ができるほどクシタニ製品を多くのライダーが切望していた

高校を卒業してから、オート三輪でバイクメーカーに商品を届けるなど家業を手伝うようになっていた現会長の久は、’71年に東京・世田谷にクシタニショップを設立。クシタニの商品に加え、ヘルメットやブーツなど輸入品のバイクギアを取りそろえたクシタニショップは浜松本店と同様、多くのライダーがバイク用品を求めて集まってきたそうだ。

世田谷区桜新町に久が作ったクシタニショップでは、当時はまだ珍しかったブーツやグローブなども販売。トライアルの国際A級だった久は仲間と一緒テストをしながら商品開発に励んだ。

イギリスのマン島に作った「MANX KUSHITANI」。ここを起点に、ヨーロッパにレーシングスーツを供給する計画だったという。写真右から4番目が久で、その左隣は当時のマン島市長。

「当時はまだバイク用品がほとんど存在しなくて、あそこに行けば買えると聞きつけたライダーたちで店の前に行列ができるほどだったそうです。お客さんは道路沿いに並んで、浜松の本社から品物を積んだトラックが到着するのを待っていて、トラックが店の前に停まると商品を直接手渡され、お客さんはその商品を持って店のレジに並んでいたと聞いています」(淳一)

’70年代に始まった第一次バイクブームの波に乗り、バイクウエア専門店のクシタニはどんどんウエアメーカーとしての勢いを増していった。

いつでもどこでも革ばかりを着ていられないと、ライダーならではの視点からテキスタイルウエアが開発され、その後のクシタニの主力商品に成長した。’70年代のカタログにもK21、52、53といったテキスタイルの商品が掲載されている。

それに加速度を付けたのは、当時もいまもクシタニでもっともバイクに親しんでいる久だった。久は、自分が欲しいと思うバイクウエアを次々に考案し、自らツーリングに行きテストを行い、商品化していった。なかでも、いつも革ばかりは着ていられないと言って、テキスタイルのウエアを開発したのはクシタニにとって大きな転換点となった。

「それまではレザースーツなどの革製品がメインだったんですが、ライダーである父が革だけじゃダメだと言ってテキスタイルを作ったことで、新しい展望が開けたんだと思います」(淳一)

クシタニと聞けば、レザースーツや革ジャンパーのイメージだが、その実は売上げの50~60%を占めるテキスタイルが主軸。ちなみに、雨の日のツーリングの途中でレストランなどに立ち寄る際、レインスーツを脱ぎ着しなくてもいいようにと、防水の全天候型ジャケットを開発したのも久だった。

先日も、友人たちと雨の日にツーリングに行った久から、レインウエアを脱ぎ着するのに四苦八苦する友人ライダーたちの写真を信夫に送ってきて、「こうしなくてもいいようにしないとな」というコメントが添えられていたそうだ。

一言で言えば「稀代のアイデアマン」だった久は、’89年に二輪業界関係者やライダーたちを大いに驚かせることを成し遂げた。栃木県那須塩原市に、全長1000mを超える本格的なサーキットである「那須エクスプローラーサーキット」を建設したのだ。

ライディングウエアを提供するからには、その安全性や快適性をテストしてより良いものにするための場所が必要だという思いが、サーキットという形に結実したのだった。

より安全で快適な商品を作るためには、開発・テストをする場が必要だと、ラボも備えた本格的なレーシングコースを作った。現在は所有者が変わり、「那須モータースポーツランド」として営業中だ。

テキスタイルウエアを作り、エクスプローラーサーキットを30代の若さで建設し、クシタニの名品であるエクスプローラージーンズを開発した現会長の久。現在も現役ライダーだ。

’80年代の第2次バイクブームもあり、順風満帆に歩を進めてきたクシタニだったが、’90年代後半にはレースブームも去り、ライダーの嗜好や人気バイクの変化といった時代の流れの中で次第に売上が落ち、在庫が増え、新しい商品を出そうにも出せないという苦境に陥ってしまった。

「ボクが入社した’00年頃が、一番の底でしたね。流行っているバイクの車種、例えばビッグスクーターとかTW200などとウチの商品がマッチングしていなかったんです。レースブームも下火だったから、祖業であるレーシングスーツの需要も落ち込み、非常に厳しい状況でした」(信夫)

そんな苦しい中で、クシタニを底支えした大ヒット商品があった。レザーでありながらジーンズの風合いを持った「エクスプローラー・ジーンズ」である。フッ素を浸透・結合させることで撥水性を実現し、自宅で水洗いもできるというクシタニならでは画期的な革(エグザリートレザー)を使用し、カジュアルでありながら高い防風性などの機能を備えたこのモデルは、発売以来数万本販売したという稼ぎ頭で、この商品もなぜ革でジーンズ風のモノを作るんだという周囲の反対を押し切り、久がタンナーと二人三脚で開発したものだった。(文中敬称略)

後編へ続く

エグザリートレザーの撥水性。

なぜ革でジーンズなど作るのかと、大反対する社員の声を押し切って、久がタンナーと開発に取り組み、ジーンズの風合いと撥水性を持ち、洗濯機で洗えるエグザリートレザーを実現。黒一辺倒で、どうしてもハードな雰囲気になるレザーパンツに、カジュアルさを持ち込んで大成功。現在も大人気商品だ。


※本記事はクシタニが提供したもので、一部プロモーション要素を含みます。※掲載内容は公開日時点のものであり、将来にわたってその真正性を保証するものでないこと、公開後の時間経過等に伴って内容に不備が生じる可能性があることをご了承ください。※特別な表記がないかぎり、価格情報は税込です。