『アライをかぶっていたから助かった』そんな声に支えられて【50年カンパニー Vol.1 アライヘルメット】

  • 2024/03/29 11:55
  • BRAND POST[PR]: アライヘルメット
現在と同じ、埼玉県大宮に移転した当時の社屋と工場。ブランド名の「AH」の文字が見える。

日本における企業の平均寿命は約35年と言われる中、バイク業界には創業から50年を超えるウエアやパーツを製造する長寿メーカーがあまたある。持続可能なバイクライフには優れたライディングギアの存在が不可欠で、それら長寿メーカーは長きにわたってライダーをサポートし続けている。この企画では、そういう長寿メーカーに創業から現在までの道のりをお聞きするとともに、この先の50年を見据えた企業としての在り方もお尋ねする。第1回は創業74年という老舗中の老舗である「アライヘルメット」。世界中のライダーが厚い信頼を寄せるセーフティギアメーカーの新井理夫社長にお話をお聞きした。

●取材/文: Nom ●写真:真弓悟史、アライヘルメット ●BRAND POST提供:アライヘルメット

アライのヘルメット第1号はオートレーサー用だった

1902年、現在のアライヘルメット社長である新井理夫(みちお)の祖父である新井唯一郎が東京・京橋に「新井帽子店」を設立したのが今や世界的ヘルメットメーカーであるアライヘルメットの起源だ。

そして、理夫の父である新井廣武が軍隊の歩兵用の「ザルメット」を製造するために、現在も本社と工場がある埼玉県・大宮の地に工場を建設したのは1937年だった。

「帽子屋だったオヤジは、学帽や警察官の帽子を作ってたんだけど、陸軍の被服省から東南アジアに赴任している兵隊さん用に日差しから頭を護るものを作ってくれと言われて、考案したのが竹ひごで作った『ザルメット』。それを作るためにここに工場を作ったんだけど、その後、終戦を迎えて進駐軍が日本にやってくると、進駐軍がかぶっていたヘルメットが払い下げられるようになりました。

進駐軍のヘルメットって二重になっていて、外側が鉄製で中に内装が入っていて、はじめは中にザルメットを入れていたんだけど、そのうちFRPで帽体を作るようになったんです」

当時、FRPを作れるところなど非常に珍しく、本田宗一郎がジュノオの外装に使えないかと見に来たそうだ。

「オヤジも大のバイク好きだったんで、そのうちFRPでバイク用のヘルメットを自分で作ってかぶっていたら、なんか変なものをかぶっている奴がいると話題になって、川口オートレースの関係者から選手用のヘルメットを作って欲しいと依頼されて、作って売ったのがバイク用ヘルメットの第1号です」

その後、これはバイク用にも使えるんじゃないかと、バイク用品の問屋に扱ってもらうようになり、アライ製のバイク用ヘルメットが瞬く間に世間に広がったのだそうだ。

オワンタイプに耳当てが付いた’60年代のヘルメット。MFJ公認のステッカーが貼られた、当時のレース用ヘルメットだ。

(右)埼玉県大宮駅からほど近い場所にある、現在の本社と工場。本社工場では最新モデルの立ち上げや、複雑なカラーリングモデルの製造などが行われている。(中央)群馬県榛東村にある3万平米の広大な敷地に’75年に建設された榛東工場。現在のアライヘルメットの帽体をメインに作っている工場だ。(左)オランダにあるヨーロッパオフィス。工場はなく、ヨーロッパマーケットへのデリバリーの拠点だ。そのほか、大宮の片柳工場と南台工場、ニュージャージーのアメリカオフィスなどがある。

現在も使っているアライのロゴマークは学生に50ドルで依頼したものだった

一方、’61年に慶応大学を卒業した理夫は、アメリカ・インディアナポリスにある大学に留学。1年半、無我夢中で勉強して、歴代で一番の成績を収めた理夫のもとには多くの企業からオファーがあったが(中にはNASAもあったそうだ)日本に帰国。何かデカイことをやりたいなと思いながら家業を手伝い始めた。

「アメリカにヘルメットを輸出し始めたんだけど、当時のブランド名は廣武新井の頭文字をとった『HA』。この名前じゃアメリカでは売れないと代理店の人に言われて、じゃあ新しいブランド名を作ろうということになり、知合いのバイクショップに出入りしていたアートスクールの学生に50ドルでロゴマークを頼んだら、翌日、今も使っているロゴを作ってきた。悪いから100ドルあげたけどね」

学生が50ドル(実際は100ドル)で制作したAraiロゴは現在まで使用されている。

新たなロゴマークができたが、理夫はまだヘルメットではない、デカイことをやりたいと逡巡していたそうだ。

「そんなとき、高速道路の入り口に数台のバイクがいて、ウチのヘルメットだなと思って近づいていくと、アライのロゴをはがして違うブランドのステッカーを貼っているのに気づいた。アライを貼っていると恥ずかしいって言うんだね。

そのとき、恥ずかしいブランドなんてこれは大きな問題だ、アライを誰もが知る有名ブランドにしようと思ったんです。当時は、レースの世界も含めて世界一のヘルメットメーカーはアメリカのベルでした。どうせやるならベルの上を行こうと思って、より安全性の高いヘルメットにしようと取組んで、1~2年後にはそれを実現してこれで世界一になったと喜んだけど、今後は世界一だと人に知ってもらうにはどうしたらいいかと思い、実際にレースで使ってもらって実力を証明しようということになりました」

この作戦は大成功。転倒して頭をぶつけても、アライをかぶっていたから助かったと言ってくれる何人ものライダーの声を聞き、日本中にアライヘルメットが広がっていった。

「次は世界だと思ってアメリカに行きました。苦労したけど、AMAのレースで2位になったテッド・ブーディーJrというライダーが契約してくれて、テキサスにあるアストロドームでのインドアレースで優勝した(編注:現行モデルにもあるAstroの語源)。それを見ていたほかのライダーが、オレもかぶってもいいというんで契約したら、そいつがデイトナのレースで転んで頭を打った。でも、すぐに起き上がって全然何ともないと大きくアピールしてくれて、それからワーッとアメリカにも広まっていきました」

日本、そしてアメリカでも大成功を収めたアライヘルメットだったが、理夫はまだ一生の仕事にするか迷っていた。そんなとき、ある事件が起きた。

「ハイジャック事件があって、その飛行機にオヤジが乗ってたんですよ(編注:’77年に起きたダッカ日航機ハイジャック事件)。犯人は、収監中の日本赤軍のメンバー9人の釈放を要求したんですが、当時の総理大臣だった福田赳夫さんが『一人の命は地球より重い』と言って、超法規的処置を取って人質になった乗客を開放させてくれた。無事オヤジも解放されたんだけど、その言葉が頭に残って、そうか人の命は地球より重いんだ、その命を護るヘルメット、頭の護りじゃどこにも負けないヘルメットを作ることに自分の一生をかけてもいいと思ったんです」

そして’86年、父・廣武の逝去を受けて理夫が代表取締役に就任し、社名もアライヘルメットに変更した。

「信念をもって、頭を護るヘルメットを作り続けていますが、とんでもない新発明なんてなくて、どんなに小さなことでもやらないよりはやった方がいいということに気づきました。小さなことをコツコツ積み上げていく。お祈りみたいなもんだね」

安全の追求のため、素材や製造工程、硬度の異なる発泡体を一体成形するなど、随所に長年のノウハウとこだわりが込められているのに加え、ヘルメットを落下させてアンビルに激突させる衝撃吸収試験(写真左)、突起物がヘルメットにぶつかることを想定した耐貫通性試験(写真下)など、規格で定められている以上の安全性を求めて厳しいテストが行われる。全商品の90%以上(フルフェイスは100%)がSNELL規格適合品だ。

世界的なメーカーとなり順風満帆だったアライだったが、思いもよらないトラブルも発生した。製造物責任(PL)法でアメリカで訴えられたのだ。

「ある人の父親が、転んで身体に障害が残った。なんとかしろって訴えてきたんです。世の中でアライ、アライって言われる有名な会社だから、100億ぐらい分捕ってやろうと思ったんでしょうね。その裁判には実質的に勝って、保険金+αくらいで済みましたが、その時に弁護士に『絶対に安全なんて言ってたら身上をなくしますよ』って言われたんです。それは身に沁みました」

ヘルメットの役目は衝撃吸収に加えR75SHAPEによる「かわす性能」

「’08年くらいまではそんなことを言わなくても、現実にそういう安全なヘルメットを作っていればよかったんです。レースで転んでもすぐに起き上がってくる、それを見た人たちはアライは安全だと思ってくれますからね。

でも、’08年の終わりにリーマンショックが起きて、レース自体が大きくシュリンクしました。ウチもアピールする場をなくしたし、各メーカーともどうやってヘルメットを売ろうかと頭を悩ませて、形を変えたり目立つことをいろいろやり始めました。でもアライは護る力を減らすような形には絶対にできない。そんなことをしたらアライは終わりだと思ってるからね。

それこそ売上が半分近くにまでダウンしましたけど、ジーっと我慢しているとアライを買い続けてくださる人たちがいて、アライをかぶっていて助かったと言ってくださる人たちがいて、何とか生き延びることができました。

そしてあるとき、ヘルメットの効果は衝撃吸収だけじゃない、衝撃吸収以外にも頭を護る大切な要素があると、それを前面に押し出したら急速に業績が回復しました」

『R75シェイプ』による衝撃を『かわす性能』である。

リーマンショックで苦境に陥ったアライを救ったのは、R75 SHAPEのかわす性能だった。

「いま会社の中でよく言っていることは、どうせ人間なんて大したことはやれないんだ。だから、小さいことを積み上げて、お祈りのように言い続けていれば何かになるって」

FIMが’26年から施行する新たなヘルメット規制にもアライはいち早く適合した。

「FIM会長のビエガスが、アライなら受かるような厳しい規格を作っちゃったんだね」

事も無げに言う理夫だが、頭を護る、命を護ることを第一義にヘルメットを作り続けてきたからこそ、安全を担保するためにどんな厳しい規格が定められてもアライはみじんも動じることがないのである。

「規格に合わせて作っておけば、護れなくてもそれ以上の責任は問われません。でも、アライは規格に受かるだけのヘルメットは絶対に作りません。少しでも余分にやっておかないと、絶対に安全なヘルメットなんてできやしないんです」

60年以上にわたりライダーの頭、命を護り続けてきたアライ。この先50年も、バイクがエンジンから電動になろうとも、ライダーを護り続けてくれるはずだ。 (文中敬称略)


ヘルメットの製造工程は、その大部分が人の手によるもの。パーツを取付ける穴をドリルで開けるのも、塗装前に帽体の表面を丁寧に研磨するのも、そしてカラーリングモデルにグラフィックシートを貼る(水転写する)のもすべて手作業で行われている。

ダイバーシティを尊重し、持続可能な企業を目指すアライは、多くの女性社員やベテラン層が活躍する会社だ。

レースへの貢献でFIMに表彰された

小さなことをお祈りのように口の中でつぶやきながら積み上げて、常により安全で、人の命をしっかり護るヘルメットを作り続けてきたアライ。その信念は新井社長の強い意志でいささかもブレることはない。’19年には、二輪レースに大きな貢献をしたとしてFIMから表彰されている。今年で85歳になるが現在もバイクに乗る現役ライダーで、いまの愛車はホンダ・XR250とNC750。

フルフェイスの最高峰で、レーシングスペックを備えたRX-7X。ソリッドモデル:6万3800円、グラフィックモデル:7万2600円。

オフロードモデルはこのツアークロスVがハイエンドモデルとなる。ソリッドモデル:6万9300円、グラフィックモデル:7万9200円。


※本記事はアライヘルメットが提供したもので、一部プロモーション要素を含みます。※掲載内容は公開日時点のものであり、将来にわたってその真正性を保証するものでないこと、公開後の時間経過等に伴って内容に不備が生じる可能性があることをご了承ください。※特別な表記がないかぎり、価格情報は税込です。