”YOSHIMURA”が目指してきたもの

「ユーザーの要望に真摯に対応し続けてきた」ヨシムラジャパン相談役・吉村不二雄氏インタビュー

「ユーザーの要望に真摯に対応し続けてきた」ヨシムラジャパン相談役・吉村不二雄氏インタビュー

創業者である父・POP吉村(吉村秀雄)の後を継ぎ、 稀代のレーシングコンストラクターへとヨシムラジャパンを育て上げた2代目社長の吉村不二雄氏(現相談役)。1954年に福岡県で創業して以来、壮大なビジョンなどは描かず、顧客の要望に応じることを考え続けてきた…。そんな70年だったと語る。


●文:大屋雄一(ヤングマシン編集部) ●写真:真弓悟史/ヨシムラジャパン/モリワキエンジニアリング/YM Archives

【ヨシムラジャパン相談役・吉村不二雄さん】1948年、吉村秀雄の長男として福岡県に生まれる。高校時代から父の手伝いを始め、1971年にPOPチューンのマシンのメンテナンスで渡米。1980年ころからPCを用いるなど独自のチューニング技術を磨き、1989年にPOPの後を継いで社長就任。MJNキャブレターやDuplexサイクロンなどを開発し、ヨシムラジャパン発展の原動力に。2024年に社長の座を加藤陽平氏に譲り、現在は相談役。

18時間耐久の優勝で「ヨシムラ」は全国区に

2代目社長として30年以上、陣頭指揮を取ってきた不二雄氏。ヨシムラを世界有数のレーシングコンストラクターに育て上げた。

私は物心ついたころから、父である秀雄がバイクをいじる姿を見て育ちました。中学生の時にはすでに工場の掃除やパーツの洗浄などをしていましたね。男の子が家業を手伝うなんて当時は当たり前でしたから。

このころ、敗戦国だった日本はまだまだ貧乏で、バイクに乗っているのは米兵などの外人がほとんど。近くに米軍の板付基地(現在の福岡空港)があって、英語が堪能だった親父のもとに彼らが集まるようになったんです。それこそ何十人と修理やチューニングを依頼してきた。

そうして改造されたバイクが、板付基地や雁ノ巣飛行場のレースで勝つと、ウチが評判になるわけですよ。子供心に親父のチューニングの腕はスゴいなと思いましたし、自分も勝負事を見るのは楽しかったですしね。

転機となったのは、1964年の鈴鹿18時間耐久レースです。ここで優勝したことで、九州の小さなバイク屋が全国区となりました。ちょうどこのころ、それまで米軍が駐留していた板付基地が日本に返還され、顧客だった米兵の多くが横田基地などに配置転換になったんです。

加えて、ホンダから市販車ベースのレース車両の開発依頼もあったものですから、ヨシムラは1965年に東京の福生に移転しました。私は高校1年生でしたので、卒業まで福岡に残ることになったんですが、夏休みや冬休みのたびにブルートレインで上京して工場で作業を手伝っていましたよ。1965年と言えば、千葉の船橋にサーキットができ、翌1966年には富士スピードウェイも誕生しました。日本にもモータースポーツの波が押し寄せていたんですね。

4輪レースも盛んで、1966年に秋川に移転したころには、ホンダのS600やS800のチューニングがおもな収入源になっていました。1968年から軽自動車のエンジンを搭載したミニフォーミュラ「FL500」のレースも始まり、これがブームになったことから、そのチューニングも大忙しでした。

不二雄氏は幼少期から父を手伝い、板付基地や雁ノ巣飛行場のレース現場を訪れた。それが楽しかったというのはやはり“血”だろうか。

1964年の鈴鹿18時間に続き、ヨシムラの名が轟くことになったのが第1回鈴鹿8耐(1978年)での総合優勝。ライダーのW.クーリーと肩を組むPOPと不二雄氏。

「チューニングをビジネスに」アメリカで確信を得る

福岡に店があったころから、顧客の米兵たちに「アメリカに来れば成功するぞ」と言われていたのは、なんとなく覚えています。実際にチューニングをビジネスとする確信が持てたのも、アメリカに進出してからなんですね。

向こうはアフターパーツメーカーがたくさんあって、ピストンもカムシャフトも売っている。とはいえ、それらを正しく組めるのかという疑問があって、親父もそれを見抜いていた。

実際、ヨシムラチューンのカワサキZ1がデイトナで速度世界記録を達成すると、それこそ全米から依頼が舞い込んだんです。多い時はZ1のエンジンが1日に5~6基も送られてくるんですよ(笑)。それよりも多かったのが、ホンダのXL250ですね。日本からスタッフを4~5人呼んで、朝から晩までポーティングをするような毎日でした。

1980年にヨシムラが神奈川県の愛川町に移転し、アメリカに残っていた私はHP社の、手持ちができる小型のコンピューターを街の電気屋で買ったんですよ。その頃の航空自衛隊も使っていたと聞いています。当時としては計算能力が桁違いで、これは将来間違いなく必要になると。その買った店にプログラミングを依頼したら、自分でやれと言われて分厚いマニュアルを渡された。もちろん全部が英文ですよ。

とはいえ、これが英語やプログラミング言語(BASIC)の勉強に役に立ちました。カムシャフトの設計用のプログラムもこれで作りましたし、すでに倣い式のカム研磨機があったので、量産化も可能になったんです。親父はすでに帰国していたので、もしその場にいたら「そんなものはいらん!」と一蹴されていた可能性はありますね。その分厚いマニュアルは、今も私の書庫に眠っているんですよ。

私が日本に戻ったのが1983年の終わりで、1985年に親父が肺を患って入院しました。だから会社の引き継ぎなども滞りなくでき、タイミング的には良かったかもしれません。

1993年のGP王者・K.シュワンツを見出したのもヨシムラ。アメリカAMAでの活躍のほか、1985年には8耐にも参戦。

1986年には辻本聡&GSX-R750のタッグでAMAスーパーバイクに参戦。この頃にはPOPに代わり、不二雄氏がヨシムラの中心人物に。

顧客の求めるものを真摯に提供してきた

近年、電動化一辺倒だった欧州の姿勢が軟化してきましたが、とはいえ内燃機関の将来は不透明。おそらく残るとは思うのですが、規模的には縮小方向でしょう。そんな状況ですから、東京モーターサイクルショーで発表した「ヘリテージパーツプロジェクト」は、ヨシムラがやらないと油冷エンジンその他の歴史が途絶えてしまうでしょう。この取り組みに共感してくれる方も多いと思いますし、次に何が提供できるかを模索している段階です。

EVについては、バッテリーの航続距離や安全性などの決まり事が固まってくれば、ヨシムラとしても何かしらの形で関わる必要があるでしょうね。そこにはみなさんからの期待もありますし、商売として続けてきたからこその信頼もある。ウチがレースを続けているのは、その結果として進化できるからで、仮にEVが主流の時代が来たとしても、その姿勢が変わることはありません。

そう言えば親父から「本当は刀鍛冶になりたかった」と何度か聞いたことがあります。唯一無二の日本刀が作りたいと。そんな職人気質だからこそ、ゴッドハンドと称されるまでになったんでしょうね。

親父とはビジネスについてもいろいろ相談しましたが、たとえば売り上げを2倍にしたい、5年後はこうありたいなど、具体的なビジョンがあったわけではないんです。常に顧客の求めているものに対して真摯に対応する。それこそエンジンチューニングがメインの時代は、直4でも単気筒でも受けていましたし、集合マフラーも売れるからとすぐに量産できる体制にしようとはならなかった。親父は設備投資に慎重でしたね。

実は親父から商売について教わったことはなく、私の独学と言いますか。昔から新聞を読むのが好きなので、そこからヒントを得ています。長らく「近江商人の三方良し」という考え方に共感していて、売り手良し、買い手良し、世間良しは、令和となった現代にも通じると思っています。ヨシムラはこれからも、お客さんの期待に応えながら、求められる製品を作り続けていきます。

求められるものを真摯に提供する「おもてなし」で、ヨシムラは信頼を勝ち得てきたと不二雄氏。その信頼がブランド力の根源だ。

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