伝説のPOP吉村をその目に焼き付けろ!

小鹿野町のバイクの森にPOP吉村展(仮称)が開設される! 新たな「バイクの聖地」が誕生する!! …〈多事走論〉from Nom

バイクの森が復活!! というニュースが流れたのは2021年春頃でしたが、バイク弁当、アライヘルメットミュージアムに続き、この11月には「POP吉村展(仮称)」が開設されることになりました。若い読者は“ヨシムラ”は知っていても、創設者の吉村秀雄さんの波乱万丈の歴史についてはご存じない方も多いかもしれません。なぜ今、“小鹿野町のバイクの森で”なのでしょうか。

本田宗一郎と並んでAMA殿堂入りした、もうひとりの日本人

ヨシムラジャパンの創設者であり、バイクのレースの世界にチューニングという考えと手法を取り入れ、世界で初めてバイク用の集合管を発明。1978年に鈴鹿サーキットで開催された第1回鈴鹿8時間耐久レースで、当時、無敵艦隊と呼ばれたホンダワークスのRCB1000をプライベートチームながら独自にチューンしたスズキ・GS1000で撃破するなど、日本のレーシングシーンの黎明期から日本や世界を舞台に歴史に残る活躍を果たしてきたのが「POP(ポップ)吉村」こと吉村秀雄さんです。

1978年の鈴鹿8時間耐久レースでは、その年のデイトナ200マイルレースを制したウエス・クーリーとマイク・ボールドウィンのコンビがGS1000を駆って、無敵艦隊と呼ばれたホンダ・RCB1000を撃破。ヨシムラが記念すべき第1回の8耐覇者となった。

1983年の8耐は、ヨシムラチューンのエンジンをモリワキ製の車体に搭載したGS1000で挑戦。ワークス勢を抑えてポールポジションを獲得するもエンジントラブルで13位に終わった。このマシンは現在、ヨシムラのメカニックだった浅川さんのショップでレストア中。POP吉村展に展示してもらいたいものである。

アメリカのデイトナ200マイルレースなどでの活躍により、アメリカ・モーターサイクリスト協会(AMA)の殿堂に、ホンダの創立者の本田宗一郎さんと並んでPOPの名も刻まれている(日本人はこの2人だけです)ことからも、POPが日本に加えアメリカで成し遂げた偉業が広く認められたことが分かります。

工場の火事によって、POP自身も顔とチューナーの命ともいえる両手指に大火傷を負うが、必死のリハビリによりゴッドハンドは見事に蘇った。

1922(大正11)年に福岡県で生まれたPOPは、最年少の航空機関士として第二次大戦に従軍し、「特攻隊」の先導飛行という辛く、過酷な任務を経験。終戦後に地元で駐留米軍の兵士相手にバイクのチューニングの仕事をはじめ、「ゴッドハンド(神の手)」と称えられた類稀なる技術力と物おじしない性格、面倒見の良さなどから彼らから「POP」(=おやじ)と呼ばれるようになり、それ以来、生涯、POPの愛称で多くのバイクファンから愛され、尊敬されることになったのです。

POPの人生はまさに波乱万丈。

その一例を挙げると、世界進出の第一歩としてアメリカ人のパートナーと共同設立した会社を乗っ取られ、必死の思いで新たな会社をアメリカに設立したと思ったら、今度は火災で社屋を焼失。POP本人もチューニング作業の要である両手指などに大火傷を負ってしまうなど、普通なら挫け、あきらめるような事がどれだけ起ころうとも常に前を向いて戦ってきたのがPOPでした。

まさに成功と挫折、そして復活の繰り返しでした。

1985年に肺を患い、第一線を退いた後もチューニングやバイクの研究を絶えることなく行って、1995年3月29日に永眠。73歳の生涯の幕を閉じました。

父の波乱万丈、七転び八起きの人生を後世に伝えたかった

吉村さんの長女であり、モリワキエンジニアリング創設者の森脇護さんの妻でもある南海子さんが、「POP吉村展」を埼玉県・小鹿野町のバイクの森にオープンすることになった経緯について、以下のように語ってくださいました。

「私が保管していた、父のたくさんの遺品や資料を見るにつけ、父の波乱万丈の生涯、とくに戦争中に特攻隊の先導をした経験やバイクのチューニングを始めたときからの七転び八起きの人生を、日本の老若男女の方々に伝えたいと考えていました。

10月9日に開催された「2021 FIM世界耐久選手権(EWC)」の最終戦「モスト6時間耐久レース」において、スズキの参戦チーム「ヨシムラSERT Motul」が3位表彰台を獲得し、シーズン累計ポイントで初の年間チャンピオンに輝いた。その記念すべき年に、POPの足跡が見られる展示がバイクの森でスタートすることになった。【Photo: YOSHIMURA SERT Motul】

父がもっともこだわったのが、エンジンの心臓部であるカムシャフトのチューニングでした。パソコンなどない時代に、指先の感覚と経験値だけを元にグラインダーでカムシャフトを黙々と削ってエンジンのパワーを挙げることに心血を注ぎ、その過程で生まれたのがさらにエンジンパワーをアップする、世界で初めてのバイク用集合管でした。この集合管の誕生が、二輪・四輪にかかわらず、世の中に新しいアフターマーケットパーツ市場を作り出したのだと思っています。

戦争が終わってから、父はレースの世界で戦い続けました。その姿は、まさにラスト侍でした。

そして、父が戦い続けられたのは、母・直江(現在96歳)を筆頭にした家族の支えがあったからで、その母がまだ健在なうちに父の人生を伝えるものを形にして残したかったんです。

ヨシムラが世界耐久選手権を制覇した記念すべき年に、バイクの森という素晴らしい場所で父の足跡をご覧になっていただけることになったことはこの上ない喜びです」

南海子さんの言うPOPの波乱万丈の人生は、いくら書いても書き足りないほどなのでここではあえて詳しくは触れませんが、POPに関する書籍やDVDなどでぜひご確認を。

POP吉村の人生を、綿密な取材を基に詳細に綴った富樫ユーコ著の「ポップ吉村の伝説――世界のオートバイを変えた『神の手』」(講談社刊・現在は絶版ですがアマゾン等では中古品が手に入るようです)。生涯にわたって馬力を上げ、バイクをより速く走らせることだけに没頭したPOPの生きざまが描かれている。

コロナ禍によって復活した小鹿野町のバイクの森

さて、ここで埼玉県小鹿野町にある「バイクの森」について触れておこうと思います。

閉館した町営温泉「クアパレスおがの」の施設を利用して、2009年5月のゴールデンウイークの最中にオープンしたのが、「バイクの森おがの」でした。

世界的にも希少な往年のヨーロッパ車を中心としたミュージアム、温泉施設の「般若の湯」、そしてレストランやミュージアムショップも併設されていて、休日はもちろん、平日も多くのライダーで賑わっていましたが、残念ながら、諸事情で翌年の9月30日に閉館してしまいました。

それから12年の歳月が流れ、再び「バイクの森」という施設が復活したのは今年の春。

秩父で食堂をやっていた「バイク弁当」が、バイクの森跡地に移転して、営業を開始。さらに、4月末には同じ埼玉県のバイクパーツメーカーということで、アライヘルメットもアライミュージアムを設置して、新たに「バイクの森」としてスタートしたのでした。

以前の「バイクの森おがの」の建物をそのまま使用して、今年の3月末にバイク弁当が移転、営業を開始。同時に契約ライダーのヘルメットなどを展示するアライミュージアムもオープンして新たに「バイクの森」として復活した。

このバイクの森復活の裏にあったのは、なんとコロナ禍だったと教えてくださったのは、現在、小鹿野町から元バイクの森おがのの建屋の経営権を貸与されている、小鹿野町で数軒の旅館や民宿を営む「梁山泊グループ」代表の柴崎さんです。

当初は、この建屋をグループの旅館や民宿に宿泊した団体や企業、学校などに会議室やレンタルルームとして使用してもらうのが目的だったそうですが、コロナ禍によってグループが経営する宿泊施設のお客さんはほぼゼロになり、この施設に何も手を付けられずに1年余りが過ぎていったそうです。

そんなとき、秩父で営業していたバイク弁当の大滝食堂が、コロナ禍で席と席の間にスペースを取ることが必要になったこともあり手狭になったため、移転することを決め、バイクとかかわりの深い小鹿野町で出店できる場所を探していたのだそうです。

小鹿野町に場所が欲しいバイク弁当、コロナ禍で計画が進まず遊休施設を持て余していた梁山泊グループ。互いの課題解決策として、小鹿野町をライダーが集まる場所にしたいと活動をしている「ウエルカムライダーズおがの」の加藤さんの仲介もあってバイクの森にバイク弁当が出店することになり、再び小鹿野町のあの場所にライダーが集まるようになったのでした。

このバイクの森に移転したバイク弁当の看板メニューが、バイクのタンクの形のお弁当箱に入った豚から揚げ弁当で、店主の横田さんが大ファンだったというモリワキ、ヨシムラとコラボレーションしたお弁当箱が用意されています。

バイク弁当の看板メニューが、バイクのタンクの形をした弁当箱に入った「豚から揚げ弁当」。モリワキ、ヨシムラとコラボした弁当箱も用意され、そこから今回のPOP吉村展開設の話へとつながったのだ。

POP吉村展がバイクの森に設置されることになったきっかけは、バイク弁当が秩父市大滝で開業したときに、横田さんからモリワキにモリワキZのタンクを弁当箱に使いたいという使用許可の連絡があり、そこからモリワキと横田さんの交流が始まったとのこと。そして今回、小鹿野に移転した際にモリワキのスタッフが声をかけて、バイクの森の前にある駐車場でZ900RSミーティングを開催。移転して間もないバイク弁当にも多くのライダーが集まり、そのお礼にと横田さんと前出の柴崎さん達がモリワキにお礼に出向いたときに南海子さんがPOPの遺品や資料のことを話したところ、それならぜひバイクの森に展示してくださいという話になり、今回の開設に至ったそうです。

このPOP吉村展(仮称)は、11月下旬のオープンに向け、現在、準備が進められています。

予定している展示内容は、会場となる部屋の壁面に、たくさんの写真が印刷された高さ2m30㎝×幅4mの大きなパネルが3枚飾られる予定で、それぞれのパネルは年代別になっているそうです。

カムシャフトを精魂込めて削った後は、エンジンに組み込んでシャシーダイナモにかけて結果を確認。パワーが上がったときは「世界で一番幸せなのは自分かと思う」と言っていたそうだ。

[写真左]スズキのエンジニアだった横内悦男さんとの出会いがPOPの人生を大きく変えたと言っていいだろう。GS750/1000から始まり、その後の油冷・水冷GSX-Rまでヨシムラとスズキの固い結束が続いてきた。[写真右]1987年は当時のヨシムラライダーだった辻本選手を擁してデイトナ200マイルレースに挑戦。マシンにまたがるPOPの横に立つのは奥様の直江さん。常に傍らにいてPOPを支え続けた。

POPを直接は知らない方々にも、日本のレースの歴史を感じられるとても興味深いものになるのではないでしょうか。

そして、このPOP吉村展に加えて、高砂チェーンでおなじみのチェーンメーカー、RKジャパンもバイク弁当の入り口右側に11月中にブースを出展されるそうです。

1978年の第1回鈴鹿8時間耐久レースで勝利したヨシムラ・GS1000に、前年のボルドール24時間耐久においてチェーン無交換でホンダ・RCBに勝利をもたらした630サイズのシールチェーンを提供して勝利に貢献するなど、ヨシムラとのかかわりも非常に深く、展示内容もその630サイズのシールチェーンや、今年、FIM世界耐久選手権を制覇した「ヨシムラSERT Motul」チームのGSX-R1000Rが使用したチェーンなど、他ではなかなか見ることのできない貴重な内容になる予定とのこと。

レースにはあまり興味がない人たちにも、レース用チェーンやスプロケットなどの展示をきっかけに、少しでもレースの世界を知ってもらいたいそうです。

RKジャパンの展示は、第1回鈴鹿8耐を制覇したヨシムラのGS1000に装着されていた630サイズのシールチェーンをはじめ、世界GPを戦った平忠彦さんのYZR500、MotoGPのマルク・マルケス選手のRC213Vに装着されたチェーンなど、マニア垂涎の貴重なパーツが飾られる予定。

ちなみに、RKジャパンの本社工場があるのは埼玉県の熊谷市。そう、アライヘルメットと同じく、出店の動機は「埼玉つながり」でもあるということでした。

天気のいい休日には、オープン前からたくさんのお客さんの列ができるほどの人気であるバイク弁当、契約ライダーであるMotoGPの中上選手やビニャーレス選手、WSBKのレイ選手などのヘルメットや製造工程を説明したパネルを展示した「アライミュージアム」に加えて、RKブースにPOP吉村展が常設されることになったバイクの森。

ライダーにとって、一度は必ず訪れたい、新たな「聖地」の誕生と言っていいでしょう。

なお、当面はバイクの森に入館できるのはバイク弁当の営業日・営業時間中のみ。来館される際は、バイク弁当のウェブサイトで営業日を確認して欲しいとのことです。


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