1926~2020年の歴史をざっくり解説

“パニガーレ”ってどんな意味?【ドゥカティ編】バイクメーカーの生い立ちから現在まで

●文:山下剛

知っているようでよく知らない、海外バイクメーカーのヒストリーに注目してみたい。ブランドの成り立ちがわかれば、なぜそのメーカーが多くのファンに支持されているのかもわかってくるかも。第1回はイタリアの赤いアイツ、ドゥカティである。

1926年、始まりはラジオ製造から。バイクをつくり始めたのは第二次大戦後

ドゥカティの前身は「ドゥカティ無線特許科学会社」といい、1926年にイタリア・ボローニャで創業した電子部品メーカーだ。1900年代初頭のイタリアではラジオブームが起きており、アドリアーノ・ドゥカティとマルチェロ・ドゥカティの兄弟も多分にもれずラジオ製造に乗り出したのである。

アドリアーノは発明した短波送信機で特許を取得。この送信機はアメリカとの通信を可能とする画期的な製品だった。こうした功績によって、1939年には7000人もの従業員を抱える大企業へと成長。当時のイタリアはムッソリーニ政権による農業国から工業国への転身を図っている最中で、世界列強と対峙するためにも先端科学と工業力が求められていたのだ。

1939年のドゥカティ本社。 [写真タップで拡大]

しかし1945年、第2次世界大戦が激化するとボローニャは連合軍の空襲を受け、ドゥカティの工場は壊滅状態となる。生産機械はすべて破壊され、残っているのは従業員だけだったといわれている。

しかし人こそが強く、大きな財産である。産業復興を支えるべくイタリア政府が設立した公社の支援を受け、戦火を生きのびた従業員たちによってドゥカティは小型フィルムカメラの生産をはじめる。このカメラは好事家のコレクターアイテムとなり、現在もオークションなどで取引されている。

残念ながらカメラ製造事業は軌道に乗らなかったが、トリノを拠点とするシエタ社からモペッドのOEM生産を任される。「クッチョロ(子犬)」と名づけられた4ストローク48ccエンジンを搭載した乗り物は、戦後のイタリア庶民の生活必需品として大ヒットしており、ドゥカティはこれのエンジン製造を受注したのだ。

ドゥカティはこうしてバイク製造に乗り出す。1950年にはクッチョロの完成車を生産するようになり、同時にレース活動を開始。50ccの世界記録を更新したことをきっかけに、60スポルトを開発した。これがドゥカティが独自開発した最初のバイクで、スポーツバイクメーカーとしてのスタートはここからはじまったのだ。

1953年には電気部品製造部門が分離して、ドゥカティ・エレクトロニカとして独立。この会社はドゥカティ・エネルジアと改名し、現在もボローニャを拠点として鉄道信号や産業用コンデンサーなどを製造している。

現在のドゥカティ本社にある“ドゥカティ ミュージアム(ムゼオ)”に展示してあるクッチョロ(Cucciolo)。 [写真タップで拡大]

クッチョロ・コルサというレーシーなモデルも存在した。 [写真タップで拡大]

世界GPでの躍進と危機、デスモドロミック+Lツインの存在感

二輪車メーカーとして専業化したドゥカティ・メカニカに、モンディアルからファビオ・タリオーニが移籍。これによりドゥカティのエンジニアリングはさらに強化され、ベベルギア駆動の高性能単気筒エンジンを開発。市販スポーツバイクの売上を伸ばすとともに、国内レースを席巻。1956年からは世界GP125ccクラスにも参戦するようになり、その名を世界に轟かせていくのである。

デスモドロミックの生みの親で、天才技師と呼ばれたファビオ・タリオーニ氏。 [写真タップで拡大]

1960年の世界GPでドゥカティの250レーサーを駆るマイク・ヘイルウッド。 [写真タップで拡大]

同じく1960年。並列2気筒エンジンを搭載したマシンだ。 [写真タップで拡大]

しかし1960年代に入ると日本メーカーが台頭するようになり、ドゥカティもその大波に飲み込まれる。北米市場向けに量産したシングルモデルが在庫の山となり、経営状態が悪化してしまう。

その危機を救ったのが、のちにドゥカティの代名詞的存在となるL型2気筒エンジンである。1970年のミラノショーでベベルギアの750cc空冷Lツインが発表されると、4年後にはレースで培った技術であるデスモドロミックを採用。これを進化させたエンジンを搭載したマシンで、マイク・ヘイルウッドがマン島TTで優勝を果たす。このレーサーはMHR900として市販されて人気となった。

1978年のマイク・ヘイルウッドと、Lツイン搭載のレーシングマシン。 [写真タップで拡大]

しかし70年代ロードレースでもドゥカティは日本メーカーの前に苦戦を強いられる。レース戦績が振るわなくなると市販車の売上も落ち込み、ドゥカティは再び経営危機を迎えることとなる。

そこに目をつけたのが、製靴業を営む資産家のカスティリオーニ兄弟だ。彼らは家業の金属部品メーカーであるカジバで、ハーレー・アエルマッキ社を買収してバイク事業に参入すると、ドゥカティと資本提携を結ぶ。ドゥカティはカジバにエンジンを供給するようになったが、やがてカジバはドゥカティを買収。ドゥカティは1985年にカジバ傘下となる。

カジバ時代となっても、ドゥカティはLツインエンジンによって存在感を示し続けた。レースでの勝利が市販車の開発と販売に直結する方程式を確立させ、ドゥカティ=Lツインのイメージが世界のバイクファンに定着した。1986年に登場した水冷Lツインにインジェクションをセットした748は、ボルドール24時間やスーパーバイク世界選手権で活躍。851、888、916、996といったドゥカティを代表する名機への系譜を生み出したのだ。

1988年、ドゥカティ851。 [写真タップで拡大]

空冷Lツインを搭載したカジバ・エレファント(ムゼオに展示してある1990年型)。2019年のEICMAではこのマシンを彷彿とさせるスクランブラーベースのコンセプトモデルが展示された。 [写真タップで拡大]

1995年、親会社のカジバが経営悪化。ドゥカティは1997年にアメリカの投資ファンドであるテキサス・パシフィック・グループ(TPG)に買収され、社名をドゥカティ・モーターへと変更する。TPGは経営方針にエンターテインメント性を打ち出し、ドゥカティはアパレルやアクセサリーの販売やミュージアム開設などに注力するようになる。1998年には販売網整備が行われ、日本にもドゥカティ・ジャパンが誕生する。そして翌年、ニューヨークとミラノの証券取引所にドゥカティの株式を上場させ、社名をドゥカティ・モーター・ホールディングスと改めたのだ。

2007年、ドゥカティはMotoGPでライダーズ、コンストラクターズ、チームすべてで勝利を果たして優勝。33年ぶりにイタリアのマニュファクチャラーが世界最高峰ロードレースを制する快挙を成し遂げる。

2007年にMotoGP最高峰タイトルを獲得したケーシー・ストーナー。 [写真タップで拡大]

2010年にはメルセデスと提携したが、2012年にアウディに買収されてフォルクスワーゲン傘下となり現在に至っている。

ロードレースを技術開発の場とし、高性能スポーツバイクを生産してきたドゥカティだが、21世紀に入ってからはラインナップを多角化。スーパーバイクとネイキッドに加えて、デュアルパーパス、モタード、クルーザー、スクランブラーと生産するカテゴリーを拡張した。

資本は紆余曲折してきたが、ドゥカティというブランドがモーターサイクルの世界にとって重要だからこそ、幾多の経営危機を乗り越えることができた。2011年からはタイ工場での生産もスタートさせているが、創業地であるボルゴ・パニガーレは今なおドゥカティの本拠地であり故郷だ。ドゥカティはイタリアンスポーツを体現するメーカーとして、これからも意欲的なスポーツバイクを作り続けるだろう。

2021年モデルとして発表されているパニガーレV4 SP。モトGPの開発で得たノウハウを投入した、V4エンジン搭載のピュアスポーツバイクだ。車名のパニガーレは、ドゥカティ創業の地で今も本社と工場があるボルゴ・パニガーレから取ったもの。 [写真タップで拡大]


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