シルクロード&チョモランマを駆け抜けろ

ライダーの夢・海外冒険ツーリングの企画を描く【ホンダ高山正之のバイク一筋46年:第4回】

ホンダ広報部の高山正之氏が、この7月に65歳の誕生日を迎え、勇退する。二輪誌編集者から”ホンダ二輪の生き字引”と頼りにされる高山氏は、46年に渡る在社期間を通していかに顧客やメディアと向き合ってきたのか。これを高山氏の直筆で紐解いてゆく。そして、いち社員である高山氏の取り組みから見えてきたのは、ホンダというメーカーの姿でもあった。 連載第4回は、中国のシルクロードとチョモランマを駆け抜けた思い出を振り返る。


●文/写真:高山正之(本田技研工業) ●編集:市本行平(ヤングマシン) ●協力:本田技研工業/ホンダモーターサイクルジャパン ※本内容は記事公開日時点のものであり、将来にわたってその真正性を保証するものでないこと、公開後の時間経過等に伴って内容に不備が生じる可能性があることをご了承ください。※掲載されている製品等について、当サイトがその品質等を十全に保証するものではありません。よって、その購入/利用にあたっては自己責任にてお願いします。※特別な表記がないかぎり、価格情報は税込です。

1981年、トレッキングバイクとして「シルクロード」が発売されました。このとき「トレッキング」という言葉を初めてバイクのカタログに使いました。この機種には、大いなる夢が込められていました。

宣伝販促部門ではシルクロードのカタログやポスターなどの宣材制作を目的として、そこにモーターレクリエーション推進本部の目的の一つであった日本のライダーに海外ツーリングの楽しみを提供したいという想いが重なり、中国のシルクロードを走破する企画に参画しました。広報領域では、この活動を広く訴求してもらうため、週刊プレイボーイ、報知新聞、ライダースクラブ誌に声をかけて、同行いただくことになりました。

また、当時モーターレクリエーション推進本部で企画していた、映像マガジン「HONDA SOUND」の制作チームも同行して映像撮影することになり、日本人は総勢15名ぐらいでした(映像は16ミリフィルムで制作し、ナレーションは伊丹十三氏。この縁で伊丹氏にオフロードバイクの乗り方をアドバイスする機会にも恵まれました)。

【HONDA SILK ROAD(シルクロード) 1981年式】オフロードバイクではなくトレッキングバイクというコンセプトを打ち出したシルクロード。スーパーローギヤ+5速という変速機は、ハンターカブの副変速機に通じる装備。アドベンチャーバイクの先駆けとも言えそう。

我々一行は、北京で免許証を取得するための試験に臨みました。特別に発行してもらった免許証は、日本人でも数少ないと思われます。そして北京から蘭州まで航空機を使い、その後は列車の旅です。30時間をかけて降り立ったのは、酒泉というシルクロードのオアシスの街。ここを起点に、敦煌までの約400キロを走るわけです。相棒のマシンは、日本から船と陸路でやってきました。工具を片手に、走行前の点検と、オイルやガソリンの補給です。私は、随行のジープに乗りながら、時にはシルクロードで地平線を見ながらの冒険ツーリング。NHKの番組でしか見たことのなかった風景が、手に取るところにあります。今と違い、電話もなかなか繋がらないところですから、どっぷりとシルクロードの魅力に浸かることができました。シルクロードを走破した時の写真は、シルクロードのカタログやポスター、広告に幅広く使用されました。

こちらは、上のカタログ(編集部の日付’81年7月入手)の更新版で、編集部の日付は’83年6月入手。初版と異なり、高山氏も参加したロケでのシルクロード現地写真がふんだんに使われているのが特徴で、下段の写真は「中国 甘粛省 陽関から敦煌への道、マシンの写真は陽関にて」とロケ地が記されている。

モンゴルと中国の国境にあるゴビ砂漠にてはるか東の日本の方角を見つめる高山氏。「荒涼としているが、温かさも感じた」という。トップ写真は、敦煌市にある玉門関跡での一枚で、土塁でできたシルクロードの関所の一つで唐の時代のものだ。

中国政府から許可されたシルクロードを実際に走破する旅は、私にとってツーリング企画を描きながらの旅でもありました。日本人ライダーのためのシルクロードツアーは、1983年に第1回目を開催。私は、現地の事情を知る者として、そしてメカニック担当として随行しました。1986年のツアーにも参加して、3回もシルクロードの地を踏むことができました。

「遥かなる男の夢 シルクロード」のキャッチフレーズは、我々の胸を熱くしました。シルクロード自体は、大胆なプロモーション活動をしたものの販売は不調に終わり、短命に終わりました。私と一部のメンバーは、大変貴重な機会を与えられ感謝しています。

こちらはシルクロードツアーの写真で1986年に開催された時のもの。日本から参加したツーリングライダー一行は広大な景色を満喫した。ちなみに『NHK特集 シルクロード -絲綢之路(しちゅうのみち)-』 は’80年4月に放送が開始され、毎回視聴率が20%を超える人気番組に。各社が企画した現地ツアーも盛況だった。

再び中国へ。今度はチョモランマを目指す旅に参加

その後、2000年に日本と中国の友好を推進する団体から、チベットで植樹活動を行うにあたり、ホンダに協力してもらいたいという申し入れがありました。ラサからトラックで植樹する樹を積み込んで、チョモランマのベースキャンプがゴール地点でした。ホンダのメリットの一つは、その行程に二輪車で同行することで、高地での燃焼状態を検証できること。二輪の研究所の協力もあり、SL230とFTRを手配しました。そして研究所の燃料系エンジニアがライダーとして、また研究スタッフとして同行することになりました。私は広報担当として、同行いただくジャーナリストのアテンド役です。ベースキャンプというと標高5500メートル地点ですから高山病の心配がありますが、私の名前は”高山”なので心配ないだろうとあまり気に留めませんでした。

初のシルクロードロケから約20年後、再び中国に渡った高山氏。拉薩(ラサ)のポタラ宮を前にスタートの記念撮影(高山氏は右から2番目)。SL230とFTRは同じ空冷単気筒223ccエンジンを積む2台で燃料系はキャブレターだった。

ラサからチョモランマ(エベレスト)ベースキャンプまでの道のりは約400km。雄大な景色の中を埃まみれになりながら走り続けることになった。

我々一行を乗せた航空機が到着したのは、標高3000メートルのラサです。ここからツーリングがスタートしますが、ここで高山病の症状が出たメンバーがいたため、代行として私がバイクに乗る役目となりました。シルクロードとは違い、山々が我々の行く手に現れては消えてゆきます。そして、ラサを出発してから3日目にいよいよチョモランマに挑戦です。走っていますと、標高の高いところに登って行く感じではありません。しかし、何か体が思うように動きません。何とかベースキャンプに着いたときは、雄大なチョモランマが目前に聳え、神々しささえありました。さあ、ここからが最大の試練です。

一路下って麓の集落まで走るのですが、30キロぐらいののろのろ走行で、道からはみ出してしまうのです。この時、人生で初めて「バイクに乗りたくない」と、しみじみ思いました。それほど、我々の体は弱り切っていました。当初は、5000メートルを超える高地でバイクがまともに走るのかを心配していましたが、それは杞憂に終わりました。SL230とFTRは研究所スタッフのセッティングもあり、ノントラブルで走り切りました。

我々一行を勇気づけてくれたのは、チョモランマの凍り付くような雪の白さと、群青色の空の景色でした。シルクロードのカタログコピーに、「どこまで追えるか、夢。」があります。バイクと出会い、ホンダで体験できた中国ツーリングは、夢に向かっていく力の大切さを教えてくれました。

SL230とFTRでチョモランマのベースキャンプを目指す一行。標高3000mから5500m以上という日本で経験することのない低酸素のルートを走る、過酷なツーリングとなった。

チョモランマのベースキャンプに到着した高山氏とSL230。笑顔で写っているが、息は上がっていた。地元ガイドによると、これほどきれいにチョモランマを望めるのは、年に数回のことだとか。二輪業界随一の雨男と言われる高山氏の疑惑が今になって晴れるのか?!

【高山正之(たかやま・まさゆき)】1974年本田技研工業入社、狭山工場勤務。’78年モーターレクリエーション推進本部に配属され、’83年には日本初のスタジアムトライアルを企画運営。’86年本田総合建物でウェルカムプラザ青山の企画担当となり、鈴鹿8耐衛星中継などを実施。’94年本田技研工業国内二輪営業部・広報で二輪メディアの対応に就き、’01年ホンダモーターサイクルジャパン広報を経て、’05年より再び本田技研工業広報部へ。トップメーカーで40年以上にわたり二輪畑で主にコミュニケーション関連業務に携わり、’20年7月4日に再雇用後の定年退職。【右】‘78~’80年に『ヤングマシン』に連載された中沖満氏の「ぼくのキラキラ星」(写真は単行本版)が高山氏の愛読書で、これが今回の連載を当WEBに寄稿していただくきっかけになった。

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