世界中のレースでその速さを見せつけていたスズキ・GSX-R750を名門ヨシムラが磨き上げ、飛ぶ鳥を落とす勢いのケビン・シュワンツが駆る。勝って当然、に思えたが――。
※ヤングマシン2016年8月号より復刻
マシンはF1チャンピオン、ライダーはバカッ速。だが……
’84年にアメリカAMAスーパーバイクにデビューしたケビン・シュワンツ。ポップ・ヨシムラこと吉村秀雄にその才能を見出され、’85年にはヨシムラから鈴鹿8耐に参戦している。
その8年後には世界グランプリでタイトルを獲得するのだが、当時は名もなき21歳の若きアメリカン。特徴的なリーンアウトのフォームも「あの乗り方はおかしい」と評される始末だった。
しかしシュワンツは、鈴鹿8耐デビューのその年に、グレーム・クロスビーとのペアでいきなり3位表彰台を獲得し、非凡さを見せつける。その後もヨシムラと濃密な関係を続けたシュワンツが鈴鹿8耐の優勝トロフィーを奪うのは、時間の問題だと思われた。
──そう簡単にことが運ばないのが、鈴鹿8耐の難しさであり、面白さでもある。ヨシムラは、世界に名だたるトッププライベーターであり、鈴鹿8耐第1回大会の勝者でもある。プライベーターという呼称が似つかわしくないほどの実力を備えている。
特にTT-F1になってからは、GSX-R750を徹底的にチューニングし、圧倒的と言ってもよい強さを発揮。全日本ロードレースでは初代チャンピオンこそモリワキの八代俊二に奪われたものの、その後は辻本聡、大島行弥によって3年連続タイトルを獲得したのだった。そのヨシムラをもってしても、鈴鹿8耐の頂点は遠かった。
’88年。パフォーマンスをさらに高めたGSX-R750、世界グランプリでスズキのエースの座に就いていたケビン・シュワンツ、そして勢いのあるダグ・ポーレンという強力な布陣で、ヨシムラは鈴鹿8耐に挑んだ。
予選は3番手。十分に優勝を狙えるポジションだ。だが──。ひときわ目立ったのは、鈴鹿8耐初参戦のウェイン・レイニーだった。ポールポジションを奪ったレイニーは、チームメイトのケビン・マギーともども決勝ではステディな走りを見せ、優勝を遂げたのだ。ヨシムラは、そしてシュワンツとポーレンは2位でレースを終えた。
その後ヨシムラは、2度鈴鹿8耐のタイトルを獲得した。シュワンツは、未勝利のままだ。 (※記事末に写真ギャラリーあり)
THE WORDS 横内悦夫氏「とにかく軽量化を徹底するための油冷だったんです」
GSX-Rの開発ににあたって、最大の課題は軽量化だったという。「とにかく軽くすることを考えて行き着いたのが油冷方式だったんです。ライバルに対して25kg近く軽くするという非常識な目標値を設定していましたが中途半端ではダメだと思ってましたからね。『できるようにするしかない。やるんだ』と覚悟を決めるしかなかったですね。完成当時は、まだやり足りないと思ったけど、今見ても軽いですね。当時はみんな驚いたと思いますよ」(「Replica vol.4」より抜粋)
THE WORDS 今野時雄氏「ヨシムラのアイデアや要望が採用されたRKはモロにレーサーです」
ヨシムラと油冷GSX-Rについて。「自分たちはチューナーですから与えられたモノをどうするか。ヨシムラから油冷をスズキさんに提案したことはないと思う。ただ、進言することはあったし、スズキさんはよく耳を傾けてくれた。特にRKは挟角バルブなどヨシムラのアイデアや要望がだいぶ入ってます。だから、モロにレーサーなんですよ。スズキの方にも『なんでそこまでするの?』と言われたりして。バルブスプリング、クランク、コンロッドも材質から見直されていて、ものすごくいいエンジン。高いだけのことはありますよ」(「Replica vol.4」より抜粋)
~1988年 鈴鹿8耐 スズキの戦い~
●文:高橋 剛/飛澤 慎/沼尾宏明/宮田健一 ●写真:鶴身 健/長谷川 徹/真弓悟史
↓↓[1984-1993]スズキ×ヨシムラ歴代8耐レーサーに続く(7月6日17:30公開)↓↓
1988年の天才ケビン・シュワンツの苦闘を描いた前回に続くのは、もちろんその戦いに使われたワークスマシンだ。そしてスズキ編では、ヨシムラが作ったF1マシン(1988)とうりふたつの市販車(1989)に[…]
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'80年代、世は空前のバイクブームに沸き、鈴鹿8耐も一気にヒートアップ。特に、750ccのTT-F1規定となった'84年以降、栄誉や責任感や恐怖からなる「必勝」の思いが交錯し、8耐は特別なレースとなっ[…]
ロードレースを追いかけること20年以上のフリーライター・佐藤寿宏さんの「寿(ことぶき)通信」をお届け。国内外、レースの様々な現場から届く「寿通信」は、日本人選手の動向を中心にレポートする。今回はヨシム[…]