TSR-CHRONICLE-1988 – 1992②【鈴鹿4耐・6耐完全制覇、鈴鹿8耐へと突き進む】

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TSR(TECHNICAL SPORTS RACING)の歴史を紐解き、その時代時代のエピソードを紹介していく「TSR Chronicle」。TSRがレースに向き合ってきた歴史、そのパッションを、DNAのようにつながるその階段を上り下りしてみませんか?

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1990年代初頭、鈴鹿4耐・鈴鹿6耐の常勝チームに。

TSR-CHRONICLE-1988 – 1992①【鈴鹿4耐初優勝! CBR400RRデビューウイン】から続く)

 こうして不動のパートナー“F.C.C.”とタッグを組んだテクニカルスポーツは、さらに耐久レースへと注力し、野望達成に向けて動き始めた。1988年からジュニアライセンス(当時のMFJライセンス種別)を対象とした4時間耐久レース(ジュニア4耐)が2時間延長され、ジュニア6時間耐久(鈴鹿6耐)として生まれ変わった。こうして、鈴鹿サーキットの耐久ヒエラルキーは、鈴鹿8耐(国際A級)を頂点に、鈴鹿6耐(ジュニア)、鈴鹿4耐(ノービス)とピラミッドが形作られた。野望とはこの3カテゴリー全てに参戦し、4時間・6時間は完全制覇するという構想だ。

※ライセンス名称は当時のもの

1990年鈴鹿6耐/2位(原田武志・久名木永斉/NSR250R)

1990年鈴鹿8耐/23位(上田昇・小林敏也/RC30)

 1988年に鈴鹿4耐初優勝にしてCBR400RRのデビュー・ウィンを達成し、名実ともに地元鈴鹿の有力トップチームに躍り出たテクニカルスポーツ。翌89年はその実績を引っさげて4耐・6耐ともに2台体制で臨むが、残念ながら結果は残せなかった。ところが翌90年にはNSR250Rで臨んだ6耐の2位表彰台に続き、4耐でNSR250Rに初勝利をもたらし、テクニカルスポーツ名義で初めて挑んだ鈴鹿8耐も192周で完走26位という結果を残している。

1991年鈴鹿8耐/リタイア(小林敏也・原田武志/RC30)

1991年鈴鹿6耐のグリッド/ポールポジション

 そして、TSRにとって色々な意味で極めてエポックな年となる1991年は、春から劇的な展開となるレースシーズンがスタートするが、これはまた別のエピソード。この年のテクニカルスポーツの耐久シーンでのエポックは、ホンダ青山本社ウエルカムプラザで行った「F.C.C./TR テクニカルスポーツ 1991年鈴鹿4時間・6時間・8時間耐久シリーズ活動」プレスカンファレンスだった。

1991年鈴鹿6耐/優勝(宇川徹・西村勝宏/NSR250R)

1991年鈴鹿6耐/レース中のビジョン

 この中でチーム総監督(当時すでに総監督と呼ばれていた)の藤井は、自らチームの野望を宣言しているが、その効果アリ! 有言実行!!

 この年は荒天で3時間に短縮された鈴鹿4耐での連覇こそ成らなかったが、鈴鹿6耐では全車をラップする圧勝劇で、一足先に達成した4耐に続いてNSRに鈴鹿6耐での初勝利をもたらした。翌92年には念願の鈴鹿4耐・6耐ともに優勝。続く93年も鈴鹿6耐で3連覇を達成など、このカテゴリーでは敵なし状態。一方、鈴鹿8耐ではまだまだ思うような結果が残せず、この後のテクニカルスポーツの鈴鹿耐久ヒエラルキーに対しては、必然的に8耐への比重が増し、頂点へ向けて突き進んでいくことになる。

1992年鈴鹿4耐/優勝(青木治親・藤原克昭/NSR250R)

1992年鈴鹿6耐/優勝(小西良輝・西村勝宏/NSR250R)

1992年鈴鹿8耐/17位(辻村猛・山岸広幸/RC30)

1993年鈴鹿6耐/優勝(小合将史・畠山泰昌/NSR250R)

F.C.C./TR テクニカルスポーツ 1991年鈴鹿4時間・6時間・8時間耐久シリーズプレスカンファレンス チーム総監督藤井正和コメント【復刻】

F.C.C./TR テクニカルスポーツ 1991年プレスカンファレンス

F.C.C./TR テクニカルスポーツ 1991年プレスカンファレンス


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